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公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


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第十八話 置いてきた家の値段

 ユリウス殿下は、廊下の窓辺で私を待っていた。


 以前なら、私はすぐに膝を折り、相手の言葉を待っただろう。今日は礼をした後、先に口を開いた。


「殿下。協議の件でしたら、書記官へ写しを残しております」


「仕事の話ではない」


 殿下は少し疲れて見えた。


 整った金髪、王太子としての姿勢、仕立てのよい上着。何も変わっていないはずなのに、以前より若く見える。いや、私が彼を必要以上に大きく見ていたのかもしれない。


「少し話せるか」


「長くは」


「分かっている」


 窓の外では、王宮の庭師が春の準備をしていた。白薔薇の温室へ続く道が見える。あの日の茶室の香りが、かすかに戻る。


「フローラは、よくやっている」


「そうですか」


「だが、君ほどではない」


 私は静かに息を吐いた。


「殿下。その比較は、フローラを傷つけます」


「事実だ」


「事実でも、使い方があります」


 殿下は眉を寄せた。


 この顔を、私は何度も見た。私が正しすぎるときの顔。けれど、今はその顔に怯えなかった。


「君は変わったな」


「そうありたいと思っています」


「ミレイユは、そんなに良い場所か」


 私は少し考えた。


「雨漏りします。金庫は軽いです。商会との揉め事もあります。良い場所、というより、私が手を入れる場所です」


「王宮にも、君の手が必要だ」


「必要な手は、契約でお貸しします」


「そういうことではない」


 殿下の声に苛立ちが混じった。


「君は、私を恨んでいるのか」


 問いは、思っていたより幼かった。


 私は自分の胸を探った。恨みはある。悲しみもある。恥もある。けれど、それらはもう殿下一人に向けられてはいなかった。王宮、家族、私自身。長く積もったものが、少しずつ名前を変えている。


「傷つきました」


 私は言った。


「殿下に恨みがないとは申しません。でも、恨み続けるために生きるつもりもありません」


「では」


「戻りません」


 殿下の口が閉じた。


「私は殿下の婚約者ではなくなりました。フローラの影にもなりません。王宮の便利な空席を埋めるためにも戻りません」


 言葉にするたび、足元が少しずつ固くなる。


 殿下は視線を窓の外へ向けた。


「君は、私といると息が詰まったか」


 意外な問いだった。


 私は少しだけ迷い、正直に答えた。


「はい」


 殿下の肩が小さく揺れた。


「そうか」


「殿下だけのせいではありません。私も、正しい形でいることしか知りませんでした」


「ミリアは、私を責めない」


「それを望まれるなら、ミリア様はお優しい相手なのでしょう」


「君は責める」


「必要なら」


 殿下は苦笑した。


 その顔を見て、私は初めて思った。この人もまた、王太子という役目の中で、責められないことを愛と取り違えたのかもしれない。


 だからといって、私がその取り違えに戻る理由にはならない。


    ◇


 王宮を出る前に、公爵邸へ立ち寄る必要があった。


 父から正式な話し合いを求められたからだ。逃げることもできたが、母の遺言とミレイユの管理権について、父の口から今後の意向を聞いておきたかった。


 セドリック様は同行を申し出たが、私は最初の面会だけ一人で行くことにした。彼には公爵邸の外で待ってもらう。必要があれば、証人として入ってもらう約束だった。


 公爵邸の玄関は、以前と同じ匂いがした。


 磨いた床、花、古い木の家具。ここで育ったはずなのに、私は客として案内された。


 書斎には父と兄がいた。


「ようやく戻ったか」


 父の第一声に、私は礼をした。


「本日は話し合いのために参りました。滞在はいたしません」


 父の顔が険しくなる。


「まだ意地を張るか」


「意地ではありません」


「王妃様に呼ばれたのだろう。ならば分かったはずだ。お前は王宮に必要とされている」


「必要とされることと、戻ることは違います」


 父は机を叩いた。


「リディア!」


 昔なら、この声で体が縮んだ。


 今も怖い。けれど、私は鞄から母の遺言の写しを出した。


「ミレイユ領の管理権について、公爵家が争うおつもりなら、正式な文書でお願いします」


「親に向かって、文書だと」


「はい」


 兄が静かに父の方を見た。


「父上、感情で進めると不利です」


「黙れと言ったはずだ」


「黙っていた結果が今です」


 兄の声は低かったが、よく通った。


 父は一瞬、言葉を失った。


「リディア」


 兄が私へ向き直る。


「ミレイユの収入がここ数年、予定より少ない件を調べた。前代理人がボルマン商会と組んでいた可能性がある」


「こちらでも同じ疑いがあります」


「父上は知らなかった」


 父が兄を睨む。


 兄は続けた。


「だが、監督責任はある。母上の遺産を軽く扱ったことも」


 書斎が静まり返った。


 母の名が、ここでこんなに重く響いたことはなかった。


 父は椅子に座り込んだ。


「私は、家を守るために」


「家を守るために、誰を使ったのですか」


 言ったのは私だった。


 声は震えた。でも、止めなかった。


「母の領地を。私の十年を。今度はフローラを。お父様の守る家には、私たちの席がありましたか」


 父は答えなかった。


 私はそこで初めて、父もまた答えを持たない人なのだと知った。


    ◇


 公爵邸を出るころ、夕方になっていた。


 玄関でフローラが待っていた。彼女は私を見るなり駆け寄り、今度は人目を気にせず抱きついた。


「お姉様、ごめんなさい」


「フローラ」


「私、お姉様がどれだけ大変だったか、何も分かっていませんでした。戻ってほしいって思って、ごめんなさい」


 妹の肩は細かった。


 私はゆっくり抱き返した。


「あなたが悪いわけではないわ」


「でも、私も頼っていました」


「そうね」


 甘やかさずに答えると、フローラは泣きながら笑った。


「お姉様、厳しいです」


「姉だから」


「また、手紙を書いてもいいですか」


「ええ。ただし、自分で考えた後で」


「はい」


 馬車に乗る前、父は姿を見せなかった。


 兄だけが玄関まで来て、私に小さな封筒を渡した。


「前代理人の資料の写しだ。役に立つかもしれない」


「ありがとう、お兄様」


「リディア」


「はい」


「家の値段を、私たちは間違えていたのだと思う」


 私は兄を見た。


「人を削って守る家は、高くつきます」


 兄は苦い顔で頷いた。


 馬車が公爵邸を離れる。


 窓の外に、育った家が遠ざかっていく。


 涙は出なかった。


 ただ、胸の奥で一つの扉が静かに閉まる音がした。

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