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公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


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第十七話 王妃様の沈黙

 王宮の門をくぐると、胸の奥が一瞬だけ縮んだ。


 白い石壁、金の紋章、整えられた庭。十年通った場所だ。どの廊下が朝に冷えるか、どの侍女が左耳を少し悪くしているか、王妃様が疲れたときに紅茶を半分残すことまで知っている。


 知っている場所なのに、今日は足元が少し違う。


 私は公爵家の馬車ではなく、ミレイユ領主として借りた馬車で来た。隣にはセドリック様がいる。エリーズは後ろに控え、私の鞄には母の薬草帳と契約書の写しが入っている。


 王宮は同じでも、私が同じではなかった。


 東棟の控室で待っていると、フローラが駆け込むように入ってきた。


「お姉様」


 彼女は途中で足を止めた。抱きつきたいのをこらえたのだろう。王宮では、人の目がある。


「フローラ。音楽会、お疲れさま」


「手紙、ありがとうございました。私、倒れませんでした」


「よかった」


 そう言うと、フローラの目に涙が浮かんだ。


 以前の私なら、すぐに彼女の肩を抱き、次の課題を尋ね、すべて整えようとしただろう。今もそうしたい気持ちはある。けれど、私は一歩だけ距離を保った。


「今日は王妃様の協議に出るのね」


「はい。私も同席を許されました。分からないことばかりですが、聞きます」


「それでいいわ」


 フローラは頷き、少しだけ笑った。


「お姉様、朝食は召し上がりましたか」


 私は意外な質問に瞬いた。


「ええ。マルタが持たせてくれたパンを」


「よかった」


 それだけ言って、フローラは胸に手を当てた。


 妹は、私を役目ではなく体を持つ人として心配した。遅すぎるのかもしれない。けれど、遅くても届くものはある。


    ◇


 協議は、王妃様の私室に近い小会議室で行われた。


 東方使節団との慈善基金は、名目上は冬の救貧院支援だが、実際には東方との絹取引を円滑にするための社交的な場でもある。寄付金の配分、招待客、席次、演奏家への支払い、余剰金の扱い。細かい事項は山ほどあった。


 王妃様は私を見ると、少しだけ目を細めた。


「リディアさん。遠いところ、よく来てくれました」


「ミレイユ領主として、要請を受けました」


 私がそう答えると、室内の空気がわずかに動いた。


 王妃様は何も言わず、席を示した。


 協議が始まると、すぐに問題が出た。東方の第二夫人とエラン侯爵夫人を同じ卓に置く案が出ていたのだ。フローラが青ざめる。


 私は口を開いた。


「その配置は避けた方がよろしいかと。昨年の関税交渉で、両家はかなり激しく対立しています。音楽会の場で和解を演出するには、準備が足りません」


 書記官が慌てて記録を探す。


 王妃様は私を見た。


「代替案は」


「エラン侯爵夫人の隣には、北方羊毛組合の未亡人代表を。東方第二夫人には、絹の染色に詳しいアシュフォードの商人夫人を紹介できます。話題を商取引ではなく技術へずらせます」


 セドリック様が頷いた。


「その商人夫人なら、こちらから連絡できます」


 王妃様は、少しだけ沈黙した。


 以前なら、この沈黙を叱責の前触れとして恐れた。今日は違う。王妃様は考えている。私はそう受け取ることができた。


「採用しましょう」


 短い言葉だった。


 フローラが小さく息を吐く。


 私は彼女に視線を向けた。


「今の理由を、後で一緒に整理しましょう」


「はい」


 妹は、隠れるためではなく学ぶために頷いた。


    ◇


 協議の後、王妃様は私だけを残した。


 セドリック様は少し気にしたようだったが、私は目で大丈夫だと伝えた。大丈夫かどうかは分からない。けれど、一人で話す必要はある。


 小会議室に、王妃様と私だけが残る。


 白薔薇はなかった。代わりに、窓辺にはまだ蕾の枝が置かれている。


「リディアさん」


「はい」


「ミレイユで、変わったのですね」


「変わろうとしております」


 王妃様は、わずかに口元を緩めた。


「以前のあなたなら、変わりましたと言い切ったでしょう」


「以前の私は、言い切らなければ不安でした」


 沈黙。


 今度の沈黙は、少し長かった。


「先日の茶室での言葉」


 王妃様がゆっくり言った。


「あなたの努力は認めています。けれど、それだけ。私はそう言いました」


「はい」


「撤回はしません。王太子の伴侶として、あなたとユリウスは合わなかった。それは事実です」


 胸が痛まなかったわけではない。


 けれど、その痛みはもう私を椅子に縫い止めるほどではなかった。


「はい」


「ですが、言い方は残酷でした。あなたの十年を、軽く扱った」


 私は王妃様を見た。


 謝罪という言葉はない。王妃という立場で、簡単には口にできないのかもしれない。それでも、その沈黙の奥にあるものは伝わった。


「王宮にとって、私は便利でしたか」


 尋ねると、王妃様は目を逸らさなかった。


「ええ。とても」


 正直な答えだった。


「そして、それを当然と思っていた者が多かった。私も含めて」


 私はゆっくり息を吸った。


「私は、もう当然の便利には戻りません」


「分かっています」


「必要な助言は、契約に基づき書面で応じます。ミレイユの利益に反しない範囲で」


「王宮相手に契約を求めますか」


「はい」


 王妃様は少し笑った。


 初めて見る笑い方だった。冷たくも、皮肉でもない。どこか疲れて、けれど少し楽しんでいるような。


「良いでしょう。条件を出しなさい」


 私は用意していた紙を差し出した。


 王妃様はそれを読み、また沈黙した。


「あなたは、本当にミレイユの領主になったのですね」


「まだ、なっている途中です」


「途中、ですか」


「はい」


 王妃様は頷いた。


 その日、王宮との最初の助言契約が仮に成立した。


 部屋を出ると、廊下の向こうにユリウス殿下が立っていた。


 避けられない話が、まだ残っている。

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