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公爵家の長女は婚約解消されました、家族の期待を置いて新しい私を生きます  作者: 小竹X


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第十九話 春市の一日

 王都から戻った翌朝、白楡館の煙突を見た瞬間、私はようやく体の力が抜けた。


 帰ってきた。


 その言葉が自然に浮かんだことに、自分で少し驚く。


 門の前では、ノエが馬車を待っていた。彼は私を見るなり駆け寄ってきたが、途中で思い出したように足を止め、きちんと頭を下げた。


「おかえりなさいませ、リディア様」


「ただいま、ノエ。昼食は食べた?」


「食べました。マルタさんが見張っていたので」


 得意そうに言うので、私は笑った。


 玄関広間には、エリーズが先に手配していた荷が届き、ガスパルが王都から持ち帰った書類を受け取る準備を整えていた。机の上には留守中の記録が並んでいる。針仕事の支払い、温室の水やり、ボルマン商会からの返答、橋の点検。


 不安は的中しなかった。


 私がいない間も、白楡館は動いていた。


 それは少し寂しく、同時にとても嬉しかった。


「リディア様、春市の準備が進んでおります」


 ガスパルが言った。


「例年より早いのでは」


「今年は、アシュフォードからも出店が増えるそうです。薬草畑の苗と、針仕事の品を見たいという人が多く」


 王宮での疲れが、少しだけ遠のいた。


「では、準備を見ましょう」


    ◇


 春市の日、谷の広場は冬の市とは別の場所のようだった。


 雪はほとんど消え、石畳の隙間には小さな草が出ている。アシュフォードから来た荷馬車には塩、鉄の釘、蜜蝋、古い本。ミレイユの村からは卵、チーズ、布巾、薬草の苗。子どもたちは焼き菓子の匂いにつられて走り回り、マルタは大鍋のスープをかき混ぜていた。


 メイの台帳は、冬のころより厚くなった。


「リディア様、これが針仕事の売上予定、こちらが材料費、こちらが次回の注文です」


「すばらしいわ。見やすい」


「サラが色分けを考えました」


「二人とも、後で教えて。白楡館の台帳にも使いたい」


 メイは誇らしそうに頷いた。


 少し離れた場所では、ロワ先生が薬草の苗を前に説明をしていた。


「これは喉に。これは腹に。これは苦いが効く。苦いからといって、私に文句を言わないように」


 子どもたちが笑う。


 温室の苗はまだ小さい。けれど、母の庭が人の手へ戻り始めている。


 広場の端で、セドリック様がエレナ夫人の膝掛けを受け取っていた。アニエスが緊張した顔で包みを渡す。


「お母様に合うとよいのですが」


「きっと喜びます。前のものも気に入っていました」


 セドリック様は代金を払い、さらに追加の注文をした。


 アニエスは受領書を書きながら、何度も頷いている。彼女の夫は後ろで少し所在なさげに立っていたが、今日は口を挟まなかった。


    ◇


 昼過ぎ、フローラから手紙が届いた。


 春市の広場の隅で、私は封を切った。


 お姉様へ。


 王妃様から、来月までの課題を半分にしていただきました。私がお願いしました。全部はできません、でも必要なことは学びます、と言いました。声は震えましたが、言えました。


 ユリウス殿下は驚いていました。お父様は不満そうです。でも、倒れる前に言えてよかったです。


 お姉様ならもっと上手に言えたと思います。けれど、私は私の言い方で言いました。


 最後に、姉の朝食を心配する一文がまたあった。


 私は笑い、広場で買った焼き菓子を一つ口に入れた。


 砂糖とバターの香りがする。


 フローラは、私の代わりではなくなり始めている。私もまた、彼女の代わりに生きなくていい。


 その事実は、春の日差しのようにゆっくり胸へ入ってきた。


「良い手紙ですか」


 セドリック様が隣に来た。


「はい。妹が、少し自分の足で立ちました」


「それは良かった」


「セドリック様、焼き菓子を召し上がりますか」


「いただきます」


 彼は一口食べ、真面目な顔で言った。


「砂糖が多いですね」


「焼き菓子ですから」


「いえ、予想以上に」


 その不器用な感想に、私は笑った。


 広場の向こうで、子どもたちが歌を歌い始める。うまくはない。音も少し外れている。けれど誰も止めない。


 春市は完璧ではなかった。


 釣り銭を間違え、荷車がぬかるみに沈み、ロワ先生の薬草講義は長すぎて子どもに逃げられた。それでも、冬の終わりに白楡館へ来たときとは比べものにならないほど、人の声があった。


 夕方、売上を数え終えると、メイが目を丸くした。


「リディア様、これ、温室の硝子代の半分になります」


「全部使ってはいけないわ。材料費と次の給金を先に分けます」


「はい。でも、半分近く」


 彼女の声は弾んでいた。


 私は台帳を見た。


 数字の先に、笑った顔がある。


 王宮で数字を整えていたころには、遠すぎて見えなかったものだ。


 その夜、白楡館の小客間で、春市の報告会を開いた。スープと黒パンだけの簡単な食事だったが、皆よく話し、よく笑った。


 私は自分の皿に残った最後の一口を食べながら、今日のことを母の薬草帳の裏に書いた。


 春市、初回。売上は小さい。けれど、名が増えた。


 それが一番大事な記録だった。

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