08. 霊気解析、ようやく起動
しらたまが、ぴたりと動きを止めた。
「……しらたま?」
呼びかけても、返事がない。
いつもならすぐに何か返してくるのに、今は耳だけがぴんと立っている。ふわふわの毛並みが、わずかに逆立って見えた。
やっぱり、私には何もできないのだろうか。
そう認めかけたとき、空気が変わった。
外気の冷たさとは種類の違う、肌のもっと内側に触れてくるような何かが近づいてくる。
「それでは、何も読めない」
私は反射的に顔を上げた。
銀の髪。氷を溶かした水みたいな薄青の瞳。
こちらに来た直後に、森で会ったあの青年だった。
男たちの怒鳴り声が、そこだけ届いていないみたいに静かに立っている。
「……また、あなたですのね」
青年は何も答えなかった。
ただ、私の手元にある万象盤へ一度だけ視線を落とす。
しらたまが、小さく喉を鳴らした。
警戒、というのとも少し違う。けれど、落ち着かない。そんなふうに見えた。
「万象盤に頼りすぎるな」
相変わらず、こちらの動揺など観測対象にも入っていないみたいな顔だった。
「頼るなと言われましても、今のところ他に取っかかりが――」
「ある」
ぴしゃりと切られて、私は言葉を止めた。
青年の視線が、私をまっすぐ射抜く。
「君は、もう持っている」
「……何を」
問い返すと、青年は一歩近づいた。
距離が、不自然なくらい急に縮まる。
思わず息が止まった。
近い。
そう思ったのは一瞬で、私はすぐにその感想を頭の隅へ追いやる。
相手は人かどうかも怪しい存在で、こっちは領地のトラブルの真っ最中だ。
ここで距離感がどうこう言ってる場合じゃない。
「数字ばかり追うな」
低く静かな声が落ちる。
「霊気解析の使い方が、根本的に間違っている」
「霊気解析……? でしたら、正しい使い方を教えていただけます?」
私がそう言うと、青年は少しだけ目を細めた。
呆れたのか、試しているのか、その表情からは読み取れない。
「教えるものではない。合わせるだけだ」
「合わせる……?」
問い返した瞬間、青年の手が伸びた。
身構えるより早く、冷たい指先が私の手首に触れる。
「……っ」
冷たい。
でも、不快ではない。
「余計な力を入れるな」
低い声が落ちる。
「見ようとするな。重なりを拾え」
意味がわからない。
わからないのに、身体がどうすればいいかを理解しているようだった。
次の瞬間、視界が揺れた。
倉庫の壁。床。積み上げられた穀袋。怒鳴り合う男たちの影。
その全部が、一度輪郭を失い、薄い膜を何枚も重ねたみたいにずれて見える。
「……な、に……」
色が少しずつ剥がれ落ちる。
代わりに、今まで見えていなかったものが浮かび上がってきた。
空気の流れに沿って、淡い光の筋が走っている。
逆に、倉庫の奥の一角だけは、そこに何かが沈み込んでいるみたいに暗かった。
黒い濁りが倉庫の奥の床に沈んで、動かないまま留まっている。
「何ですの、これ……?」
「ようやく見えたか」
あれが、霊気停滞?
転移前、あの白い空間で聞いた声が、遅れて脳裏によみがえった。
『霊気解析を取得しました。世界の霊気の歪みが、一部視認可能になりました』
そのとき、手元の万象盤が震えた。
何も操作していないのに、盤面の中央に淡い光が滲み、文字列が浮かび上がる。
「え――」
最初に見えたのは、名前だった。
『氷冥』
そこだけは、はっきり読めた。
けれど、その下に続くはずの情報は、ノイズに呑まれて判読できない。
私は盤面から顔を上げる。
「氷冥……それが、あなたの名前ですのね」
氷冥は答えない。
ただ、私の手首から静かに手を離す。
離れた途端、冷たかったはずの場所になぜか温もりが残った。
しらたまが、小さく喉を鳴らした。
その青い目が、氷冥を見上げたまま揺れていた。
私はもう一度、倉庫の奥へ視線を向けた。
さっきまでは、ただ薄暗いだけの場所だった。
穀袋が積まれ、床板が軋み、空気が悪い――その程度にしか見えていなかった。
けれど今は違う。
黒い濁りは床に沈んだまま、微動だにしない。しかも、ひとところに溜まっているだけじゃなかった。濁りの縁から、糸みたいに細い筋が何本も伸び、床板の継ぎ目に沿って倉庫の外へ滲み出している。
「……停滞している、だけじゃありませんのね」
思わずそう漏らすと、氷冥は否定しなかった。
つまり、見立てとしては間違っていないらしい。
万象盤に出ていた霊気停滞、治安低下、資源不足、そして謎の病の流行。
ばらばらだった点が、ようやく一本の線で繋がりかける。
食糧が減っていること自体が問題なんじゃない。
この倉庫では、何かがおかしい形で“留まり”、そこから外へ滲み出している。
もしこれが村全体へ回っているなら、倉庫の揉め事と謎の病は、別件じゃない可能性が高い。
「しらたま」
呼ぶと、足元の白い毛玉がぴくりと耳を動かした。
「この濁り、あなたにはどう見えますの?」
しらたまは倉庫の奥をじっと見つめ、それから困ったみたいに尾を揺らした。
「やな感じ……なんだけど、うまく言えない。ぼく、こういうの、知ってる気がするのに……」
最後の声が小さくなる。
しらたまの様子は気になったが、今は優先順位が違う。
私は倉庫の奥へ一歩踏み出した。
濁りの中心を確かめたい。そう思って足を出しかけた、その瞬間だった。
「ふざけるな! 今日の配給は足りるはずだったんだぞ! これじゃ飢え死にだ!」
倉庫の外で、怒鳴り声がはっきりと弾けた。
「俺に言うな! 鍵はきちんと閉めた! 見張りだって立てた! 減ったなら、俺以外の誰かが触ったってことだろうが!」
「子どもと病人の分まで消えてるんだぞ! 誰が納得する!」
「だから俺じゃないって言ってるだろ! 勝手に盗人扱いするな!」
今まで遠くで響いていた言い争いとは、あきらかに熱量が違った。
このまま放っておけば、暴力沙汰になることも考えられる。
外の揉め事が先か。中の異常が先か。
――決めた。
原因を探るにしても、まずは彼らを落ち着かせなければ。
殴り合いにでもなれば、冷静に話なんてできない。
「しらたま、氷冥、少しの間ここを見ていてくださる?」
私は踵を返し、怒鳴り合う男たちの元へ向かった。




