21-1. 疑われた魔獣と、雪の下の知恵
詳しく聞き取った結果、領民たちの疑いは、ひとつの魔獣に向かっていた。
雪綿獣。
北領地の山裾に棲む、白い長毛に覆われた大きな魔獣だという。
昔はもっと山奥にいて、人里へ下りてくることはほとんどなかったらしい。けれど最近になって、畑の端や祠の裏手で姿を見た者が増えていた。
「やっぱり、あれじゃないか」
「山羊が消えた晩にも、大きな足跡があったんだ」
「ふわふわしてるからって、魔獣は魔獣だろう」
領民たちの声には、切実な怯えが混じっていた。
「雪綿獣、ですか」
「昔は、人里になんぞ近づかねえ魔獣だったんです」
「それがこのところ、畑の端や祠の裏手まで出てくるようになって……」
「山羊を襲ったところを見た方は?」
私が尋ねると、誰も答えなかった。
見た者はいない。
けれど、山羊が消えたこと。血の跡があったこと。大きな足跡が残っていたこと。そして、最近になって雪綿獣が人里近くに出ていること。
それらが領民たちの中で結びつき、ひとつの答えになりかけている。
「では、雪綿獣が山羊を襲ったと断定できる材料は、まだありませんわね」
「でも、他に何がいるっていうんですか」
若い男が声を荒らげた。
「雪綿獣が怪しいなら、追い払うなり、討つなりしないと!」
その言葉に、何人かが頷く。
「雪綿獣は、山羊を襲う類の魔獣なのですか?」
私が尋ねると、倉庫の奥の守り石のそばに、淡い銀の輪郭が結ばれた。
氷冥だった。
「雪綿獣は肉食の魔獣ではない。草や苔を食み、自ら他の獣を襲うこともほとんどない」
低く静かな声が落ちる。
領民たちはぎょっとして氷冥を見た。
まだ彼の存在に慣れていない者も多い。そりゃそうだ。守り石から美しい青年が現れる状況に、即座に順応できる人間の方が少ないだろう。
「では、なぜ人里近くに?」
私が問うと、氷冥は村の外へ視線を向けた。
「追われている可能性がある」
「追われている……?」
「断定はできぬ。だが、山の霊気が乱れている」
霊気。
その言葉に、私の右手の指輪が、冷たく反応した気がした。
倉庫の戸口近くで、小さな白い影が動いた。
しらたまだった。
私と目が合うと、しらたまは一歩だけ後ずさる。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
近づいてはいけない。
今、私が無理に距離を詰めたら、あの子はきっとまた逃げる。
しらたまは少し迷うように耳を伏せ、それから小さな声で言った。
「……ぼくは、違う気がする」
それだけだった。
けれど、私は聞き逃さなかった。
「どうして、そう思うのですか」
できるだけ静かに尋ねたつもりだった。
それでも、しらたまはびくっと肩を揺らす。
しまった。
詰問するつもりはなかった。ただ理由を聞きたかっただけなのに、私の声は思ったより硬かった。
しらたまは戸口の影に半分隠れたまま、ぽつりと言った。
「……においが、違う。怖がってるにおいがした」
「怖がっている?」
「うん」
それ以上は言わなかった。
「一度、現場を見ますわ」
「澄音様、危険です」
清十郎さんがすぐに言った。
「承知しています。雪綿獣の様子と、霊気の流れを確認するだけです」
「……また、ひとりで抱え込む気か」
氷冥の声が低くなる。
私はたぶん、立ち止まるのが怖い。
しらたまに謝ることもできないまま、それでも領地の問題だけは進めようとしている。
「……同行をお願いします」
そう言うと、氷冥はわずかに目を伏せた。
「わかった」
戸口の影で、しらたまの尾が小さく揺れた。
◇
村外れの雪原には、確かに大きな足跡が残っていた。
丸みを帯びた、幅広の跡。
爪は深く沈んでおらず、雪の表面を押しつぶすように続いている。
「これは、雪綿獣のものですか」
「そうだ」
氷冥が答える。
足跡は山裾から村の近くまで続いていた。
途中、青白い苔が薄く削られた場所がある。食べ跡だろう。
私はしゃがみ込み、雪の表面を見る。
「……草や苔を食べる、という話とは一致しますわね」
そのすぐ近くに、別の跡があった。
細く、深く、雪を裂くような線。
爪の跡だ。
雪綿獣の丸い足跡とは、まるで違う。
「これは……」
「気づいたか」
「ええ」
私は指先で雪の裂け目に触れた。
そこに、わずかな黒ずみが残っている。
嫌な感じがした。
腐った水に指を入れるような、粘りつく不快感。
以前、守り石に絡みついていた黒いものと似ているようで、違う。
視界の端に、薄い線が走る。
霊気解析。
雪の下、木々の根元、山裾へと続く細い流れ。
その一部が、ねじれている。
山々のさらに奥、魔族領に近い方角で、霊気の流れが乱れていた。
「……これは、少し厄介ですわね」
「今、追うべきではない」
「わかっています。現時点では情報が足りません」
そう言いながら、私は足跡の向こうを見た。
雪原の先、木立の影に、白い塊がいくつか見える。
「あれは……」
「あれが雪綿獣だ」
想像していたよりも大きい。
ずんぐりとした体を、雪をかぶった雲のような毛が覆っている。短い角の下で、黒く丸い目がこちらを見ていた。
そのうちの一頭が、びくりと身を震わせる。
襲ってくる気配はない。むしろ、こちらを恐れているように見えた。
「戻りましょう」
「いいのか」
「ええ。少なくとも、今の段階で雪綿獣を犯人と決めつけるのは早計です。領民には、そう伝えます」
そして、もうひとつ。
山の霊気が乱れている。
それが雪綿獣を人里近くへ押し出している可能性がある。
問題は、思ったより複雑そうだ。
……本当にこの領地、Super Hardモードの名に恥じない。




