20. 食糧問題に、着手します
その夜、しらたまは戻らなかった。
村の外れ、祠の裏、倉庫の軒下、しらたまが気に入りそうな雪の積もった石垣の上。
思いつく場所は、すべて探した。
けれど、白い毛玉の姿はどこにもない。
何度名前を呼んでも、返ってくるのは雪を踏む自分の足音だけだった。
日付が変わるころ、清十郎さんに「これ以上は澄音様まで倒れてしまいます」と止められ、私はようやく足を止めた。
眠れたのか、気絶したのかはわからない。
ただ、目を開けたときには、窓の外が白く明るんでいた。
「……しらたま」
呼んでも、部屋の中は静かだった。
昨日の言葉を、なかったことにはできない。
それでも、返事を待ってしまう自分がいた。
身支度を整え、執務室へ向かう。
病人の経過確認、備蓄の再計算、寒さへの対策。
やることは山ほどある。
感情は、後回しにできる。
後回しにできてしまうことが、今は少しだけ嫌だった。
執務室の戸を開けた瞬間、聞き慣れた明るい声がした。
「小鈴、だいじょうぶだよ。ぼく、神獣だからね!」
「ほんと? しらたまちゃん、昨日どこにいたの?」
「ひみつ!」
部屋の中に、しらたまがいた。
小鈴ちゃんのそばに座り、桃園さんに撫でられながら、いつも通りに胸を張っている。
白い毛並みは乱れていない。声も明るい。少なくとも、ぱっと見ただけなら何も変わらない。
無事でよかった。
心からそう思ったはずなのに、胸がぎゅっと締め付けられる。
私がどれだけ探しても、姿を見せてくれなかった。
どれだけ呼んでも返事をしてくれなかった。
けれど、桃園さんや小鈴ちゃんの前では、あんなふうに笑えるのだ。
浮かんだ考えを、すぐに押し殺す。
しらたまを傷つけたのは私だ。原因を作った私が、自分の痛みを主張するのは違う。
「しらたま」
名前を呼ぶと、しらたまの耳がぴくりと動いた。
けれど、こちらへ来ることはなかった。
「おはよう、澄音」
声だけは、いつも通りだった。
でも、私が一歩近づくと、しらたまはぴたりと動きを止めた。
そして、さりげなく小鈴ちゃんの後ろへ回る。
桃園さんが、心配そうに私を見る。
「澄音さん?」
「問題ありませんわ」
問題はある。
けれど、今ここで立ち止まっている暇はない。
私は意識を切り替えるように、万象盤を取り出した。
「澄音さん、それは……?」
桃園さんが、不思議そうに私の手元を覗き込む。
「記録用の盤ですわ」
嘘ではない。
少なくとも、領地の状態を記録しているのは確かだ。
「へえ……便利そうですね」
「ええ。便利ですわ」
そう答えながら、盤面を見つめる。
……おかしい。
表示が読めない。
「澄音さん、それ……逆さまでは?」
「……向きを確認していただけですわ」
「逆さまにして確認するんですか?」
「必要な場合もあります」
私は何事もなかった顔で万象盤を持ち直した。
盤面には、昨夜と同じ表示が残っていた。
【隠しイベント:謎の病の流行(停止)】
【状態:拡大停止】
【残課題:病人の体力回復/食糧不足/保存環境】
病の拡大は止まった。
けれど、削られた体力までは戻っていない。
病人に必要なのは、休息と清潔な水。
それから、身体に入れられるもの。
食糧不足。
やはり、そこに戻る。
「保存環境も課題ですわね。照りや……いえ、照国様の加護が薄い以上、自給にも限界がありますし」
「てりやき?」
桃園さんが、恐る恐る確認してくる。
「言っていません」
「でも、いま……」
私は、桃園さんの追及を聞こえなかったことにした。
いつもなら、しらたまが真っ先に笑ってくれたはずだった。
「……ところで。この村の近くに、山羊がいると聞いた覚えがありますわ」
私が呟くと、小鈴ちゃんがぱっと顔を上げた。
「山羊さんなら、村はずれにいるよ」
「小鈴ちゃん、場所がわかりますの?」
「うん。でも、近づいちゃだめって言われてる。野生だから、びっくりさせたらあぶないんだって」
なるほど。完全に飼われているわけではないらしい。
「詳しいことを知っている方はいますか?」
「おとうなら知ってると思う!」
小鈴ちゃんは、そう言って戸口の方を指さした。
「おとう、今、井戸のところにいるよ。聞きに行く?」
「お願いしますわ」
私は万象盤を閉じた。
病人のために使える栄養源があるなら、確認しない手はない。
足りないものを数えているだけでは、何も増えない。
◇
清十郎さんに話を聞いたあと、私たちは村外れの斜面へ向かった。
山羊は、飼育されているわけではない。
ただ、昔から村の近くに棲みついていて、刺激しなければ人を避けて暮らす、おとなしい獣なのだという。
その山羊の群れが見える場所まで来たところで、清十郎さんが足を止めた。
「……おかしいですね」
清十郎さんが眉をひそめた。
「以前は、もっと群れで動いていました。少なくとも、このあたりには十頭近くいたはずです」
遠くの斜面に、痩せた山羊が三頭いる。
どの個体も落ち着きがなく、何かを警戒しているように見えた。
「病や寒さで弱っただけ、という可能性は?」
「ないとは言えません。ただ、山羊は人より先に危険を察します。ああして固まっているときは、何かを怖がっていることが多い」
「外敵ですか」
言いながら、私は周囲を見渡した。
雪の上には、山羊の小さな蹄の跡がいくつも残っている。けれど、その一部が不自然に乱れていた。
そのとき、少し離れた場所にいたしらたまが、ぴたりと足を止めた。
「……」
呼びかけようとして、やめる。
しらたまは私を見なかった。ただ、鼻先を地面へ近づけ、雪の影に隠れた何かをじっと見つめている。
「しらたまちゃん?」
小鈴ちゃんが近づこうとすると、しらたまは短く首を振った。
来ちゃだめ、というように。
私は足元に気をつけながら、しらたまが見ている場所へ近づいた。
雪の下に、赤黒い染みがあった。
これは、血だ。
そのすぐ横に、山羊のものではない大きな爪跡が残っている。
雪を深く裂いた跡は、蹄では説明がつかない。
「……山羊同士の争いではありませんわね」
清十郎さんの顔色が変わった。
「まさか、魔獣が……?」
「清十郎さん」
「はい」
「山羊が減りはじめた時期と、このあたりで目撃された魔獣の話を、できるだけ詳しく聞かせてくださいませ」
風が、低く鳴った。
北の森の奥で、何かがこちらを見ている気がした。




