表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好感度マイナスの恋巫女候補に転移しましたが、領地だけは建て直します  作者: 御堂あゆこ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/14

13. 氷冥は、名前を呼ばれたくないらしい

 倉庫の中に入った瞬間、冷気が袖口から肌の奥へ忍び込んできた。

 奥には、氷冥が立っている。


 床板の隙間からじわじわと染み出している黒い淀みの前で、彼は片手をかざし、薄い氷の膜のようなもので広がりを押し留めていた。


 けれど、彼の輪郭が薄い。

 銀の髪も、薄青の瞳も、そこにあるはずなのに、向こう側の壁が透けて見えた。


 私が声をかけるより早く、しらたまが前へ出た。


「やだ」


 しらたまの声が震えている。


「消えちゃだめ」


 消える。


 その言葉が、嫌な重さを持って倉庫の床に落ちた。

 氷冥はこちらを見ない。黒い淀みから目を離さず、静かに告げる。


「近づくな。まだ固定が終わっていない」


「固定って……」


 問い返した瞬間、氷冥の輪郭がまた薄れた。

 銀の髪の先が、霧にほどけるように揺れる。倉庫の奥の壁が、いっそう濃く透けて見えた。


「氷冥」


 反射的に名前を呼ぶと、ほどけかけていた輪郭が、わずかに戻る。


 氷冥の視線が、鋭くこちらへ向いた。


「呼ぶな」


「なぜですの」


「名を呼んだ者の力を、私が奪う」


 たしかに、指先が一段と冷えた気がする。ほんの少し、息も浅くなった。

 代わりに、氷冥の肩の線は先ほどより濃い。


 なるほど。

 名を呼ぶと、呼んだ側から力が流れる。氷冥はそれを望んでいないらしい。


 私は一度、呼吸を整えた。


「あなたは、このまま消えてなくなりたいのですか?」


 氷冥は答えなかった。


「そうではないのなら、私はあなたの名を呼びます」


「君が決めることではない」


「ええ。ですから、あなたに希望を聞いています」


 氷冥の目が、わずかに揺れた。


「残る意思があるなら、こちらはできる対応をします。意思がないなら、無理には止めません」


 しらたまが、短く息を呑んだ。


「……やだ」


 小さな声だった。


「やだよ。氷冥、消えちゃだめ!」


「呼ぶな」


「消えちゃいやだよ、氷冥様!」


 しらたま自身が、びくりと身体を震わせた。


「あれ。ぼく、今……」


 氷冥の輪郭が、もう少しだけ戻る。けれど、しらたまの身体も小さくふらついた。

 氷冥は苦しげに眉を寄せる。


「思い出さなくていい。呼ぶな」


 しらたまは、もう一度首を横に振った。


「やだ。思い出したい。なんでかわかんないけど、思い出したい」


 思い出す?


 思考が一瞬だけ止まった。けれど、理由を考え始めたら、今は動けなくなる。

 私は意識を切り替え、霊気解析を始めた。倉庫の壁、床板、積まれた米袋が、色を失って層のように重なる。


 見えた。


 黒い淀みは、床下から漏れていた。氷冥の輪郭から伸びた薄青の糸が、黒いものを縫い止めている。


「その『固定』というのをやめてくださいませ」


 氷冥がようやくこちらを見る。


「放せば広がる」


「広がる前に原因を切ります」


「無理だ」


「無理かどうかは、試してから判断しますわ」


 氷冥はしばらく私を見ていた。やがて、黒い淀みを押さえる手を少しだけ動かす。床下の気配が見えやすくなった。


「守りが破られたことに気づいてはいた。だが、止められなかった」


「どういうことですの?」


 氷冥はそれ以上を語らなかった。ただ、その横顔は、どこか遠いものを見ているようだった。


「あなた、自分の責任だと思っていますの?」


 氷冥は答えない。

 かわりに、黒い淀みを押さえる指先が、ほんのわずかに強張ったように見えた。


「詳細はわかりませんが、原因はきっとその守りを破られたことでしょう? であれば、責任は守りを破った者にあります」


「私の力が保たれていれば防げたのだ」


「あなたの力が弱まっていたことと、誰かが守りを破ったことは、分けて考えるべきですわ」


 氷冥の目が、わずかに細くなる。


「責任の所在を混同すると、対策を誤ります。今必要なのは反省ではなく、原因の特定と再発防止ですわ」


 氷冥が、ほんの一瞬だけ黙った。


「……奇妙なことを言う」


「合理的に申し上げているつもりです」


「その合理性が、奇妙だと言っている」


 しらたまが、ぷるぷる震えながら私たちを見上げた。


「けんかしないで」


「喧嘩ではありませんわ」


「議論だ」


「じゃあ、もっとやさしい顔して」


 しらたまが小さく鼻を鳴らした。

 言い返したい気持ちはあったけれど、しらたまの涙目を前にしてまで訂正するほどの内容でもない。


「……わかりました。今はやめますわ」


「うん」


 しらたまが、ほっとしたように小さく息を吐いた。


 私は床下へ意識を集中させる。


「この下ですわね」


「壊れている」


「何がですの?」


「守り石だ」


 しらたまが耳を伏せた。


「守り、石……?」


 氷冥が片手を下ろすと、床板の継ぎ目に薄い霜が走った。湿って膨らんでいた板が、ぱき、と音を立てて浮き上がる。


 あ、便利。

 場違いな感想だけれど、便利なものは便利だ。


 床下には、小さな祠が置かれていた。

 祠を囲む木枠は黒ずみ、側面には焼け焦げた跡がある。中央には、半分に割れた青い石があった。

 石のそばに、焦げた赤い札が貼りついている。金色の紋章だけが、やけにはっきり見えた。


 この紋章、見覚えがある……。


 割れた石を観察する。黒い淀みの奥で、淡い光がまだ揺れていた。

 淀みは石から湧いているのではなく、割れ目に絡みついている。

 この石はまだ生きている。問題は、それに絡みついた異物だ。


「石から黒いものを切り離しますわ」


「澄音、さっき倒れそうだったよね?」


「倒れそうだっただけで、倒れてはいません」


「へりくつだよ!」


「では、倒れる前に終わらせます」


「そういって、澄音ぜったい倒れるまでやめないでしょ!」


 黒い淀みの核を残したまま夜を越したら、またどこかへ染み出すかもしれない。かといって、氷冥が力を使い続ければ、今度こそ本当に消える。


「……では、折衷案です」


 私は守り石と、そこに絡みついた黒いものを見た。


「全体の固定は続けなくて構いません。石と異物の境界だけ、留めてくださいませ。そこだけ動かなければ、今の私でも切り離せると思います」


「……私に指図するのか」


「お願いの形にした方がよろしいですか」


「そういう話ではない」


 氷冥の声に怒りの色はなかった。

 むしろ、珍しいものを見るような目をしている。


「澄音、今の、お願いだったの?」


 しらたまが、私の足元から見上げてくる。


「かなり丁寧に申し上げたつもりですわ」


 しらたまは小さく尾を揺らし、それから守り石を見た。


「ぼくも手伝う。猫の手、貸す?」


「助かります」


「ぼく、猫じゃないけどね」


「……そうなのですか?」


「えっ」


 しらたまが固まった。


「澄音、ぼくのこと何だと思ってたの?」


「白くて、よく跳ねる……猫かと」


「ユキヒョウだよ!」


「雪豹」


「そう! かっこいいでしょ!」


「では、雪豹の手を借ります」


「急にちゃんと言われると、それはそれで照れる……」


 しらたまは少しだけ胸を張り、それから真剣な顔で私の服の袖をくわえた。


「ふらついたら止めるからね。噛むのは、ちょっとだけにする」


「できれば噛まない方向でお願いします」


 氷冥が、わずかに目を細めた。


 今、笑った……?


 いや、今それを確認する余裕はない。

 私は守り石に手をかざした。直接触れるつもりはない。触れたら危ないことは、なっちゃんのときにわかっている。


 石。傷。札。黒いもの。


 残すものと、切り離すものを見極める。

 黒い糸が、こちらへ伸びた。吐き気が込み上げ、視界の端にノイズが走る。


「澄音!」


「大丈夫ですわ」


 氷冥の薄青の霊気が、黒い糸の周囲を細く囲む。境界がぶれなくなった。そこへ、私は意識を差し込む。

 石を傷つけず、黒いものだけを切り離す。


 そのとき、耳の奥で紙を燃やすような音が鳴った。


『照国様の光を妨げるものは全て祓わねばならない』


 そんな言葉が頭をかすめ、黒いものが腕へ流れ込もうとする。


「青藍澄音、限界が近い。もうやめろ」


「やめません。ここでやめたら、何の解決にもなりません」


 その言葉に呼応したかのように、薄青の光がもう一段だけ強くなる。


 私は黒い糸を掴んだ。


 胸の奥の芯が、流れ込もうとする黒を押し返す。

 指輪の冷たさが、石と異物の境目を細くなぞった。

 そこへ、氷冥の冷たい調律が重なる。

 その表面に白いひびが走り、ぱきんと乾いた音がした。

 淀みの核が氷の中で砕けるように崩れ、欠片が雪みたいにほどけて消える。


 成功した。


 そう思った瞬間、膝から力が抜けた。


「澄音!」


 床が近づく。

 まずい。今ここで倒れたら、たぶん痛い。


 そんな、どうでもいいことを考えた。


 けれど、衝撃は来なかった。

 冷たい腕が、私の身体を受け止めていた。


「……無茶をする」


 その声がひどく遠く聞こえた。

 必要な処理だった、と言いたかったけれど、喉が動かない。


「澄音! 澄音ってば!」


 しらたまの声が、白い霧の向こうへ滲んでいく。

 最後に見えたのは、割れた守り石の奥で、先ほどよりもはっきりと灯りはじめた青い光だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ