13. 氷冥は、名前を呼ばれたくないらしい
倉庫の中に入った瞬間、冷気が袖口から肌の奥へ忍び込んできた。
奥には、氷冥が立っている。
床板の隙間からじわじわと染み出している黒い淀みの前で、彼は片手をかざし、薄い氷の膜のようなもので広がりを押し留めていた。
けれど、彼の輪郭が薄い。
銀の髪も、薄青の瞳も、そこにあるはずなのに、向こう側の壁が透けて見えた。
私が声をかけるより早く、しらたまが前へ出た。
「やだ」
しらたまの声が震えている。
「消えちゃだめ」
消える。
その言葉が、嫌な重さを持って倉庫の床に落ちた。
氷冥はこちらを見ない。黒い淀みから目を離さず、静かに告げる。
「近づくな。まだ固定が終わっていない」
「固定って……」
問い返した瞬間、氷冥の輪郭がまた薄れた。
銀の髪の先が、霧にほどけるように揺れる。倉庫の奥の壁が、いっそう濃く透けて見えた。
「氷冥」
反射的に名前を呼ぶと、ほどけかけていた輪郭が、わずかに戻る。
氷冥の視線が、鋭くこちらへ向いた。
「呼ぶな」
「なぜですの」
「名を呼んだ者の力を、私が奪う」
たしかに、指先が一段と冷えた気がする。ほんの少し、息も浅くなった。
代わりに、氷冥の肩の線は先ほどより濃い。
なるほど。
名を呼ぶと、呼んだ側から力が流れる。氷冥はそれを望んでいないらしい。
私は一度、呼吸を整えた。
「あなたは、このまま消えてなくなりたいのですか?」
氷冥は答えなかった。
「そうではないのなら、私はあなたの名を呼びます」
「君が決めることではない」
「ええ。ですから、あなたに希望を聞いています」
氷冥の目が、わずかに揺れた。
「残る意思があるなら、こちらはできる対応をします。意思がないなら、無理には止めません」
しらたまが、短く息を呑んだ。
「……やだ」
小さな声だった。
「やだよ。氷冥、消えちゃだめ!」
「呼ぶな」
「消えちゃいやだよ、氷冥様!」
しらたま自身が、びくりと身体を震わせた。
「あれ。ぼく、今……」
氷冥の輪郭が、もう少しだけ戻る。けれど、しらたまの身体も小さくふらついた。
氷冥は苦しげに眉を寄せる。
「思い出さなくていい。呼ぶな」
しらたまは、もう一度首を横に振った。
「やだ。思い出したい。なんでかわかんないけど、思い出したい」
思い出す?
思考が一瞬だけ止まった。けれど、理由を考え始めたら、今は動けなくなる。
私は意識を切り替え、霊気解析を始めた。倉庫の壁、床板、積まれた米袋が、色を失って層のように重なる。
見えた。
黒い淀みは、床下から漏れていた。氷冥の輪郭から伸びた薄青の糸が、黒いものを縫い止めている。
「その『固定』というのをやめてくださいませ」
氷冥がようやくこちらを見る。
「放せば広がる」
「広がる前に原因を切ります」
「無理だ」
「無理かどうかは、試してから判断しますわ」
氷冥はしばらく私を見ていた。やがて、黒い淀みを押さえる手を少しだけ動かす。床下の気配が見えやすくなった。
「守りが破られたことに気づいてはいた。だが、止められなかった」
「どういうことですの?」
氷冥はそれ以上を語らなかった。ただ、その横顔は、どこか遠いものを見ているようだった。
「あなた、自分の責任だと思っていますの?」
氷冥は答えない。
かわりに、黒い淀みを押さえる指先が、ほんのわずかに強張ったように見えた。
「詳細はわかりませんが、原因はきっとその守りを破られたことでしょう? であれば、責任は守りを破った者にあります」
「私の力が保たれていれば防げたのだ」
「あなたの力が弱まっていたことと、誰かが守りを破ったことは、分けて考えるべきですわ」
氷冥の目が、わずかに細くなる。
「責任の所在を混同すると、対策を誤ります。今必要なのは反省ではなく、原因の特定と再発防止ですわ」
氷冥が、ほんの一瞬だけ黙った。
「……奇妙なことを言う」
「合理的に申し上げているつもりです」
「その合理性が、奇妙だと言っている」
しらたまが、ぷるぷる震えながら私たちを見上げた。
「けんかしないで」
「喧嘩ではありませんわ」
「議論だ」
「じゃあ、もっとやさしい顔して」
しらたまが小さく鼻を鳴らした。
言い返したい気持ちはあったけれど、しらたまの涙目を前にしてまで訂正するほどの内容でもない。
「……わかりました。今はやめますわ」
「うん」
しらたまが、ほっとしたように小さく息を吐いた。
私は床下へ意識を集中させる。
「この下ですわね」
「壊れている」
「何がですの?」
「守り石だ」
しらたまが耳を伏せた。
「守り、石……?」
氷冥が片手を下ろすと、床板の継ぎ目に薄い霜が走った。湿って膨らんでいた板が、ぱき、と音を立てて浮き上がる。
あ、便利。
場違いな感想だけれど、便利なものは便利だ。
床下には、小さな祠が置かれていた。
祠を囲む木枠は黒ずみ、側面には焼け焦げた跡がある。中央には、半分に割れた青い石があった。
石のそばに、焦げた赤い札が貼りついている。金色の紋章だけが、やけにはっきり見えた。
この紋章、見覚えがある……。
割れた石を観察する。黒い淀みの奥で、淡い光がまだ揺れていた。
淀みは石から湧いているのではなく、割れ目に絡みついている。
この石はまだ生きている。問題は、それに絡みついた異物だ。
「石から黒いものを切り離しますわ」
「澄音、さっき倒れそうだったよね?」
「倒れそうだっただけで、倒れてはいません」
「へりくつだよ!」
「では、倒れる前に終わらせます」
「そういって、澄音ぜったい倒れるまでやめないでしょ!」
黒い淀みの核を残したまま夜を越したら、またどこかへ染み出すかもしれない。かといって、氷冥が力を使い続ければ、今度こそ本当に消える。
「……では、折衷案です」
私は守り石と、そこに絡みついた黒いものを見た。
「全体の固定は続けなくて構いません。石と異物の境界だけ、留めてくださいませ。そこだけ動かなければ、今の私でも切り離せると思います」
「……私に指図するのか」
「お願いの形にした方がよろしいですか」
「そういう話ではない」
氷冥の声に怒りの色はなかった。
むしろ、珍しいものを見るような目をしている。
「澄音、今の、お願いだったの?」
しらたまが、私の足元から見上げてくる。
「かなり丁寧に申し上げたつもりですわ」
しらたまは小さく尾を揺らし、それから守り石を見た。
「ぼくも手伝う。猫の手、貸す?」
「助かります」
「ぼく、猫じゃないけどね」
「……そうなのですか?」
「えっ」
しらたまが固まった。
「澄音、ぼくのこと何だと思ってたの?」
「白くて、よく跳ねる……猫かと」
「ユキヒョウだよ!」
「雪豹」
「そう! かっこいいでしょ!」
「では、雪豹の手を借ります」
「急にちゃんと言われると、それはそれで照れる……」
しらたまは少しだけ胸を張り、それから真剣な顔で私の服の袖をくわえた。
「ふらついたら止めるからね。噛むのは、ちょっとだけにする」
「できれば噛まない方向でお願いします」
氷冥が、わずかに目を細めた。
今、笑った……?
いや、今それを確認する余裕はない。
私は守り石に手をかざした。直接触れるつもりはない。触れたら危ないことは、なっちゃんのときにわかっている。
石。傷。札。黒いもの。
残すものと、切り離すものを見極める。
黒い糸が、こちらへ伸びた。吐き気が込み上げ、視界の端にノイズが走る。
「澄音!」
「大丈夫ですわ」
氷冥の薄青の霊気が、黒い糸の周囲を細く囲む。境界がぶれなくなった。そこへ、私は意識を差し込む。
石を傷つけず、黒いものだけを切り離す。
そのとき、耳の奥で紙を燃やすような音が鳴った。
『照国様の光を妨げるものは全て祓わねばならない』
そんな言葉が頭をかすめ、黒いものが腕へ流れ込もうとする。
「青藍澄音、限界が近い。もうやめろ」
「やめません。ここでやめたら、何の解決にもなりません」
その言葉に呼応したかのように、薄青の光がもう一段だけ強くなる。
私は黒い糸を掴んだ。
胸の奥の芯が、流れ込もうとする黒を押し返す。
指輪の冷たさが、石と異物の境目を細くなぞった。
そこへ、氷冥の冷たい調律が重なる。
その表面に白いひびが走り、ぱきんと乾いた音がした。
淀みの核が氷の中で砕けるように崩れ、欠片が雪みたいにほどけて消える。
成功した。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
「澄音!」
床が近づく。
まずい。今ここで倒れたら、たぶん痛い。
そんな、どうでもいいことを考えた。
けれど、衝撃は来なかった。
冷たい腕が、私の身体を受け止めていた。
「……無茶をする」
その声がひどく遠く聞こえた。
必要な処理だった、と言いたかったけれど、喉が動かない。
「澄音! 澄音ってば!」
しらたまの声が、白い霧の向こうへ滲んでいく。
最後に見えたのは、割れた守り石の奥で、先ほどよりもはっきりと灯りはじめた青い光だった。




