12. 好感度マイナスでも、できることはあります
頭の片隅で、思考が冷たく整列していく。
倦怠感と吐き気の向こうで、私はもう一度、家の中を見渡した。母親と娘の体内にあった同じ反応。けれど、赤ちゃんからは何も出なかった。
「あなた。奥さまとお嬢さんが、昨日から今日にかけて口にしたものを、全部教えてくださいませ」
「……すまん、俺は配給のことで頭がいっぱいで、ろくに見てやれてなくて……」
父親はすっかり混乱している。これでは時間がかかる。
私は布団の脇に膝をつき、声を落とした。
「なっちゃん。聞こえますの?」
なっちゃんのまぶたが、重そうに震える。
熱のせいで、意識はまだぼんやりしている。話させるのは酷だとわかっていた。それでも、今聞かなければならなかった。
「少しだけ教えてくださいませ。昨日の夜から今日にかけて、何を食べたか覚えていますか」
「……お、かあが」
「はい」
「きのうの、よるから……ふらふらで」
声が途切れて、喉がひゅう、と鳴った。私は急かさず、細い指先を自分の指で軽く包む。
「あかちゃん、ないてて」
「……ええ」
「おかあ、お乳あげるのに、なにか食べなきゃって……でも、おこめ、なくて……」
「それで、お米を探したのですね」
なっちゃんは、ほんの少しだけ頷いた。
「あな、あって」
「穴?」
「くらの、した……あなから、はいって……ちょっとだけ、とったの」
父親の顔から、血の気が引いた。
「なつ……お前、まさか」
なっちゃんは父親の声に、びくりと肩を震わせる。
「ごめ、なさ……おかあに……たべさせたくて」
父親の喉が詰まった。
責める言葉を探したのか、呑み込んだのか、開きかけた口はそのまま震えるだけだった。
「大丈夫ですわ。なっちゃん、あと少しだけ」
この子は、ただ母親と赤ちゃんを助けたかっただけだ。
「それは、いつのことですの?」
「くらい、とき……みんな、ねてて……」
昨夜。
今朝の配給が始まる前だ。
「そのお米、どこに置いてありましたか」
「くらの、おく……おなじの、いっぱい……あさ、くばるって……」
朝、配る。
その言葉が、頭の中でひとつの線につながっていく。
「触ったとき、変な匂いや、違和感はありましたか」
「……しめってて……へんなかんじ、した」
そこで、なっちゃんの声は途切れた。
「ありがとう、なっちゃん。もう休んでくださいませ」
囲炉裏のそばに、小さな鍋が置かれていた。底には薄く煮崩れた米粒がこびりつき、近くの椀には乾きかけた粥の跡がある。
母親に何か食べさせようと、見よう見まねで作ったのだろう。
赤ん坊は粥を口にしていない。だから反応が出ていない。
母親となっちゃんには同じ反応があった。二人が口にした米に、異物が混じっていた——そう考えれば、辻褄が合う。
「今朝、足りなかったのは、配るために分けてあった分ですわね」
「あ、ああ。朝になって、配る分が少なくて……俺は、倉庫番が何かしたんだと思って……」
「朝の配給は、前夜のうちに分けてありますの?」
「日ごとに分けて、すぐ配れるようにしてある」
確認は、それで十分だった。
立ち上がりかけて、視界の端で白いノイズがちらつく。けれど、ここで止まっている場合ではない。
「……同じものが」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
「もう、他の家にも配られておりますわね」
倉庫の奥で見た、あの黒い濁り。床板の継ぎ目から外へ滲み出していた、細い筋。あれが米袋に触れていたのだとしたら——。
「私は倉庫へ戻ります。あなたはここに残って、ご家族の看病を続けてくださいませ。処置は先ほどお伝えした通りで結構ですわ」
男は青ざめたまま、何度も頷いた。
「それから、残っている米と粥には触らないでください。あとで確認します」
立ち上がると、足元がぐらりと揺れた。さっき異物を強引に切り離した反動が、まだ抜けていない。
それでも、足は止めなかった。
倉庫前へ戻ると、清十郎さんたちが袋の数を確認している最中だった。倉庫番と夜番の男も、顔をこわばらせながら手伝っている。
「澄音様、手つかずの袋は入口側に寄せ終えました。湿っているものには触れておりません」
「清十郎さん、ありがとうございます。……ただ、状況が変わりましたわ」
その一言で、視線が一斉にこちらへ集まる。
「病人の家に残っていた米を確認しました。倉庫の奥にあった、湿って様子のおかしかった袋と同じ異常がありました」
「同じ異常、ですか……?」
清十郎さんの顔色が変わる。
「ええ。あれと同じものが、すでに他の家へも配られている可能性があります」
「ま、待ってください。それでは、私どもの持ち帰った米も危険ということでしょうか」
「その可能性があります。けれど、すべてが危険とは限りませんわ。だから今から、全て確認します」
私は倉庫の奥へ視線を向けた。
薄暗がりの中に、しらたまと氷冥がまだ残っている。
「しらたま」
「あ、澄音おかえり……って、なにその顔色っ! だいじょうぶ? ね、ね、寄りかかる? ぼく、支えるよ?」
「ありがとう。でも大丈夫ですわ。それより、ちょっと手伝ってほしいことがあります。一緒に来てくださる?」
「う、うん。行く。行くけど……」
しらたまは珍しく言いよどんだ。
倉庫の奥を振り返り、また私を見て、また奥を見る。
「でも、ここ……氷冥だけで、大丈夫かな?」
氷冥は、黒い淀みの前から動かなかった。
「行け。今のお前の主は、青藍澄音だ。ここに残るより、彼女のそばにいた方が、お前は役に立てる」
「でも……」
しらたまが、言葉を詰まらせた。
「私は消えぬ。少なくとも、今はな」
しらたまは耳を伏せ、それからきゅっと口を結ぶと、私の足元へ駆けてきた。尻尾の先だけが、まだ倉庫の方をちらちらと向いている。
「行こう、澄音」
「ええ」
私は清十郎さんへ向き直った。
「配られた米を、すぐに確認したいのです。食べた家、まだ食べていない家、すでに炊いた家の三つに分けて、出していただけますか」
村人たちがざわめいた。
疑いと不安が、また空気を重くする。
「責めるためではございませんの。助けるためですわ。どうか、そう伝えてくださいませ」
清十郎さんは一瞬、私の顔をじっと見た。
それから深く頷き、村人たちの方へ駆け出していった。
あとは、ひたすら手を動かし続けた。
一軒ずつ回り、出してもらった米を霊気解析で確かめていった。
視界を切り替えるたびに、ぐらり、と頭が傾いて、吐き気が喉までせり上がってくる。
ふらつくと、しらたまがぴたりと足元に寄り添ってくれた。
白い米粒の輪郭に、黒い糸のような反応が絡みついた袋もあれば、何もない袋もある。炊いた粥の底にも、薄く同じ反応が残っている家もあった。
すでに具合を悪くしている人がいる家も、いくつか見つかった。
一人ずつ異物を切り離せば、少なくとも目の前の人は楽になるかもしれない。
けれど、それでは私の身体がもたない。ここで私が倒れれば、汚染された米も、倉庫の奥にある原因も、そのままになる。
目の前の一人を助けたい。
でも、今その対応を選べば村全体を危険にさらす。
嫌な判断だった。
せめてこれ以上悪化しないように、最初の家でしたのと同じ指示を残すしかなかった。
最後の米袋を確認したころには、外はすっかり暗くなっていた。
一つひとつ異物を切り離すだけの余力は、もう残っていなかった。
だから、汚染された米はひとまず別の場所に隔離するだけにとどめた。
それでも、村中へ広がる前に流れを断ち切ることはできた、と思う。
柱に手をつき、浅く息を吐く。指先は、まだ震えていた。
「……これで、拡大は止められたはずですわ」
根本原因は、何ひとつ解決していないけれど。
「しらたま、ありがとう。あなたも休んで——」
言いかけて、私は口をつぐんだ。
しらたまが、倉庫の方を向いて固まっていた。
「しらたま?」
「……氷冥が」
ぽつり、と落ちたしらたまの声には、いつもの軽さがなかった。
倉庫の奥で、かすかな銀の気配が揺れた。
森で初めて会ったとき、肌に触れたあの冷たさと同じものだとわかる。けれど、今は輪郭がない。
氷冥はそこにいるはずなのに、今にもほどけて消えてしまいそうだった。




