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好感度マイナスの恋巫女候補に転移しましたが、領地だけは建て直します  作者: 御堂あゆこ
第2章

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11. 異物反応、触るな危険

 男に案内されて入った家は、外よりもずっと息苦しかった。

 閉め切られた空気の中に、熱と汗と、吐しゃ物の酸っぱい匂いがこもっている。嫌な湿り気が肌にまとわりついた。


 土間の向こうに敷かれた布団には、母親と子どもが二人。


 赤ん坊は顔を赤くして、浅い咳を繰り返している。泣く力も弱い。

 母親はその隣で半身を起こしかけ、起き上がれずにいる。看病疲れだけでは説明がつかない顔色だった。


 そして、いちばん奥で小さく背を丸めている少女――なっちゃんだけが、ひと目でわかるほど様子がおかしかった。


「なつ!」


 男が駆け寄り、布団の脇に膝をつく。私もその横に回り込んだ。


「……少し、様子を見せてください」


 男は焦りを隠せないまま、私を見る。


「何かわかるのかよ」


「わかる、とまでは言えませんけれど……」


 医者でもないのに、大きなことは言えない。

 それでも、何もしないよりはましだ。


 とりあえず、熱を確かめたい。

 そう思って、私は部屋の中を見回した。


 薬箱のようなものはない。もちろん体温計も見当たらない。


 ――そりゃ、そうか。


 前の世界なら、熱が出たらまず体温計だった。

 妹が熱を出した夜、母は慣れた手つきで額に触れ、それから体温計を脇に挟ませていた。私は少し離れたところから、その手際のよさを眺めていた気がする。


 羨ましかったのかもしれない。

 ああいうふうに、迷いなく世話を焼かれることが。


 胸の奥に浮いたものを押しやって、私はなっちゃんの額にそっと触れた。


 熱い。

 でも、それだけではよくわからない。


 額、首筋、呼吸。唇の乾き。顔色。

 見よう見まねで拾える情報を並べても、まだ何かが引っかかる。


 赤ちゃんとも、母親とも違う。

 風邪や消耗だけでは説明のつかない何かが、なっちゃんにはあった。


 ……だったら。


 私はひとつ息を整えて、あの霊気解析の感覚を呼び起こした。


 喉元からみぞおちにかけて、黒いものが絡みついている。糸のような、泥のようなものが、生き物みたいにじわじわと脈打っていた。


 気持ち悪い。


 そう思った瞬間、黒いものがこちらを見たような気がした。


「……っ」


 指先から、冷たいものが逆流してくる。


 ただ冷たいだけじゃない。

 ざらついた不快感が手首の内側を這い上がり、そのまま腕の奥へ潜り込もうとする。吐き気が喉までせり上がり、視界の縁がびり、と細かく軋んだ。


 このままだとまずい。

 絶対にこの異物を入れさせてはいけない。


 その瞬間、胸の奥に、あのときと同じ芯が通った。


 見えない壁にぶつかったみたいに、黒いものがそこで弾かれた。

 さらに押し込んでこようとして、けれど一歩も入れないまま、ぐしゃりと形を歪めた。


 ――ああ、これが。


 質問のあとで与えられた「不屈の矜持」。

 どうやら、こういう時に働くらしい。


「娘は、大丈夫なんだろ……!?」


 男の手が、なっちゃんの肩に伸びた。


「触らないでくださいませ」


 反射的に手首を掴むと、男が息を呑んだ。


「な、何だよ……!」


「だめです。今はまだ」


 うまく説明できない。

 でも、触れさせてはいけないことだけは、はっきりわかった。


「この子の中にあるもの、普通じゃないですわ」


「普通じゃないって、何が――」


「あとで話します」


 短く言い切って、私はなっちゃんへ意識を戻した。


 この子の中にあるものを、私はまだうまく説明できない。

 でも、本来ここにあっていいものじゃないことだけはわかった。


 ――どうしたらいいの。


 喉がひりつく。けれど、ここで目を逸らすわけにはいかない。

 そう思った瞬間、右手の人差し指がひやりと冷えた。


 孤心の指輪だった。


 冷たさが、輪になって指を締める。


 この子と、この子の中に入り込んだもの。

 その境界だけが、急にはっきりと浮かび上がる。


 切り分けられる。


 その確信と同時に、視界の奥で何かが揺れた。

 普段の万象盤とは違う、もっと深い層。


 熱。消耗。風邪。汚染。


 本来なら一塊になっているはずの「病」が、変数ごとに分解されて並んでいた。


 ――これ、触れていい階層じゃない。


 直感がそう告げる。けれど、もう手は伸びていた。


 治すんじゃない。

 これなら異物だけ切り離せるかもしれない。


 半分は勘だった。

 でも、ほかに手はない。


 なっちゃんの喉元から胸へ、指先を滑らせる。

 黒いものが、びくりと震えた。


 いける。

 逃がさない。


 次の瞬間、それは一気に浮き上がった。糸の束みたいに絡まりながら、なっちゃんの内側から剥がれてくる。


 同時に、今度ははっきりと私の腕へ食い込もうとした。


「っ……」


 吐き気がこみ上げる。視界の端に、ざり、とノイズが走った。


 でも、入れない。


 胸の奥の芯が押し返す。指輪の冷たさが輪郭を繋ぎ止め、異物はひとかたまりのまま私の手のひらへ集まった。


 そのとき、指先に、氷冥に触れたときに似た冷たい調律がよみがえる。


 黒いものの表面に、白いひびが走った。


 ぱき、と乾いた音がして、それは砕けた。

 細かな欠片が、雪みたいにほどけて消える。


「……あ……」


 なっちゃんの喉がひとつ鳴った。

 呼吸が少し深くなる。眉間の皺がゆるみ、丸めていた肩の力が、ほんのわずかに抜けた。


 ……ひとまず、間に合った。


 そう思った瞬間、全身から力が抜けかけた。

 急に、身体が鉛になったみたいだ。視界の縁で細かなノイズがまだちらついている。


「なつ……!」


 男が駆け寄る。今度は止めなかった。もう、この子の中の異物は消えている。


 男は娘の頬に触れ、それから私を振り返った。


「今……何をした?」


 問う声は震えていた。


「異常の一部を取り除いただけですわ」


 声を出した瞬間、思ったより喉が掠れた。


「熱も消耗も残っています。水分を少しずつ。無理に食べさせないで。――ただ、さっきよりは楽なはずです」


 父親は何か言いかけて、言葉を失った。なっちゃんのまぶたが薄く動く。


「……おとう……」


 声は細い。けれど、さっきよりずっとはっきりしていた。


 そこで、母親が苦しげに息を吐いた。


「……っ、ぅ……」


 父親の顔色が変わる。


「妻も……妻も頼む!」


 手が少し震えていた。さっきより視界のノイズが濃い。


 ――もう一回やったら、もたないかもしれない。それでも、やるしかない。


 母親の額に触れる。こちらにも汚染はある。でも、なっちゃんほど濃くはない。


 風邪。衰弱。看病疲れ。栄養不足。

 その上に、薄く汚染が重なっている。


 触れた指先から、胸の奥に張りついていた重さみたいなものが、少しだけほどけた。

 母親の呼吸が、ひとつ深くなる。


 けれど、それだけだった。


 熱は高いまま。顔色も悪い。体力も落ちきっている。

 赤ん坊もまだ苦しそうに咳をしている。


 ……だめだ。こっちは異物だけ抜いて終わり、という話じゃない。


 私は手を離した。


「少しだけ楽にはなったはずですわ。でも、奥さまは風邪もひどい。すぐに休ませてください」


「休ませるって、どうすれば……」


 私は男を見上げ、指を一本ずつ折りながら告げる。


「まず、この部屋の空気を入れ替えてくださいませ。窓を少しだけ開けて、空気を動かす程度で結構です。寒くしすぎないように」


「あ、ああ」


「奥さまとなっちゃんには、白湯を少しずつ、何度にも分けて飲ませてあげてください。一度にたくさんは無理ですわ」


 男は何度も頷く。


「汗をかいたら、すぐに拭いて、寝間着を替えてくださいませ。汗が冷えると、それだけで弱ります」


「わかった」


「食事は無理に取らせないでくださいませ。欲しがったら、重湯か、薄い粥を少しだけ。固いものは、しばらくいけません」


 ふと、咳の混じる赤ん坊の息に視線を向ける。


「赤ちゃんは、今のところ風邪だけのようですわ。授乳できるなら、それで様子を見てください」


 そこで一度言葉を切って、男の目をまっすぐ見た。


「あなた自身も、家族の世話のあとは必ず手を洗ってくださいませ。井戸水で結構です。吐いたものや、汚れた布に触れたあとは、特に。あなたが倒れたら、誰がこの家の三人を看るのですか」


 男は、はっとした顔で自分の手を見下ろし、そのまま何度も頷いた。


 私は浅く息を吐いた。

 吐き気がまだ残っている。手の震えも止まりきらない。

 それでも、ひとつだけはもう見えていた。


 なっちゃんの中にあった汚染。

 母親に薄く残っていた汚染。


 あれは偶然じゃない。

 しかも、二人の体調不良を確実に悪化させている。

 赤ん坊にそれがない以上、同じ家にいたからでは説明がつかない。


 私は部屋の隅に置かれた椀と、食べかけの器へ目を向けた。


 ――まさか。


「奥さまとお嬢さん、今日、何を食べましたの?」


 男の顔色が、変わった。


「……何で、だ?」


「ご家族が口にしていたものを、もう一度食べさせないでくださいませ。残っているなら、まとめて別の場所に。いえ、この家から出してください。汚染が、どこから入ったものか確かめるまでは」


 男の喉が、ごく、と鳴った。

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