11. 異物反応、触るな危険
男に案内されて入った家は、外よりもずっと息苦しかった。
閉め切られた空気の中に、熱と汗と、吐しゃ物の酸っぱい匂いがこもっている。嫌な湿り気が肌にまとわりついた。
土間の向こうに敷かれた布団には、母親と子どもが二人。
赤ん坊は顔を赤くして、浅い咳を繰り返している。泣く力も弱い。
母親はその隣で半身を起こしかけ、起き上がれずにいる。看病疲れだけでは説明がつかない顔色だった。
そして、いちばん奥で小さく背を丸めている少女――なっちゃんだけが、ひと目でわかるほど様子がおかしかった。
「なつ!」
男が駆け寄り、布団の脇に膝をつく。私もその横に回り込んだ。
「……少し、様子を見せてください」
男は焦りを隠せないまま、私を見る。
「何かわかるのかよ」
「わかる、とまでは言えませんけれど……」
医者でもないのに、大きなことは言えない。
それでも、何もしないよりはましだ。
とりあえず、熱を確かめたい。
そう思って、私は部屋の中を見回した。
薬箱のようなものはない。もちろん体温計も見当たらない。
――そりゃ、そうか。
前の世界なら、熱が出たらまず体温計だった。
妹が熱を出した夜、母は慣れた手つきで額に触れ、それから体温計を脇に挟ませていた。私は少し離れたところから、その手際のよさを眺めていた気がする。
羨ましかったのかもしれない。
ああいうふうに、迷いなく世話を焼かれることが。
胸の奥に浮いたものを押しやって、私はなっちゃんの額にそっと触れた。
熱い。
でも、それだけではよくわからない。
額、首筋、呼吸。唇の乾き。顔色。
見よう見まねで拾える情報を並べても、まだ何かが引っかかる。
赤ちゃんとも、母親とも違う。
風邪や消耗だけでは説明のつかない何かが、なっちゃんにはあった。
……だったら。
私はひとつ息を整えて、あの霊気解析の感覚を呼び起こした。
喉元からみぞおちにかけて、黒いものが絡みついている。糸のような、泥のようなものが、生き物みたいにじわじわと脈打っていた。
気持ち悪い。
そう思った瞬間、黒いものがこちらを見たような気がした。
「……っ」
指先から、冷たいものが逆流してくる。
ただ冷たいだけじゃない。
ざらついた不快感が手首の内側を這い上がり、そのまま腕の奥へ潜り込もうとする。吐き気が喉までせり上がり、視界の縁がびり、と細かく軋んだ。
このままだとまずい。
絶対にこの異物を入れさせてはいけない。
その瞬間、胸の奥に、あのときと同じ芯が通った。
見えない壁にぶつかったみたいに、黒いものがそこで弾かれた。
さらに押し込んでこようとして、けれど一歩も入れないまま、ぐしゃりと形を歪めた。
――ああ、これが。
質問のあとで与えられた「不屈の矜持」。
どうやら、こういう時に働くらしい。
「娘は、大丈夫なんだろ……!?」
男の手が、なっちゃんの肩に伸びた。
「触らないでくださいませ」
反射的に手首を掴むと、男が息を呑んだ。
「な、何だよ……!」
「だめです。今はまだ」
うまく説明できない。
でも、触れさせてはいけないことだけは、はっきりわかった。
「この子の中にあるもの、普通じゃないですわ」
「普通じゃないって、何が――」
「あとで話します」
短く言い切って、私はなっちゃんへ意識を戻した。
この子の中にあるものを、私はまだうまく説明できない。
でも、本来ここにあっていいものじゃないことだけはわかった。
――どうしたらいいの。
喉がひりつく。けれど、ここで目を逸らすわけにはいかない。
そう思った瞬間、右手の人差し指がひやりと冷えた。
孤心の指輪だった。
冷たさが、輪になって指を締める。
この子と、この子の中に入り込んだもの。
その境界だけが、急にはっきりと浮かび上がる。
切り分けられる。
その確信と同時に、視界の奥で何かが揺れた。
普段の万象盤とは違う、もっと深い層。
熱。消耗。風邪。汚染。
本来なら一塊になっているはずの「病」が、変数ごとに分解されて並んでいた。
――これ、触れていい階層じゃない。
直感がそう告げる。けれど、もう手は伸びていた。
治すんじゃない。
これなら異物だけ切り離せるかもしれない。
半分は勘だった。
でも、ほかに手はない。
なっちゃんの喉元から胸へ、指先を滑らせる。
黒いものが、びくりと震えた。
いける。
逃がさない。
次の瞬間、それは一気に浮き上がった。糸の束みたいに絡まりながら、なっちゃんの内側から剥がれてくる。
同時に、今度ははっきりと私の腕へ食い込もうとした。
「っ……」
吐き気がこみ上げる。視界の端に、ざり、とノイズが走った。
でも、入れない。
胸の奥の芯が押し返す。指輪の冷たさが輪郭を繋ぎ止め、異物はひとかたまりのまま私の手のひらへ集まった。
そのとき、指先に、氷冥に触れたときに似た冷たい調律がよみがえる。
黒いものの表面に、白いひびが走った。
ぱき、と乾いた音がして、それは砕けた。
細かな欠片が、雪みたいにほどけて消える。
「……あ……」
なっちゃんの喉がひとつ鳴った。
呼吸が少し深くなる。眉間の皺がゆるみ、丸めていた肩の力が、ほんのわずかに抜けた。
……ひとまず、間に合った。
そう思った瞬間、全身から力が抜けかけた。
急に、身体が鉛になったみたいだ。視界の縁で細かなノイズがまだちらついている。
「なつ……!」
男が駆け寄る。今度は止めなかった。もう、この子の中の異物は消えている。
男は娘の頬に触れ、それから私を振り返った。
「今……何をした?」
問う声は震えていた。
「異常の一部を取り除いただけですわ」
声を出した瞬間、思ったより喉が掠れた。
「熱も消耗も残っています。水分を少しずつ。無理に食べさせないで。――ただ、さっきよりは楽なはずです」
父親は何か言いかけて、言葉を失った。なっちゃんのまぶたが薄く動く。
「……おとう……」
声は細い。けれど、さっきよりずっとはっきりしていた。
そこで、母親が苦しげに息を吐いた。
「……っ、ぅ……」
父親の顔色が変わる。
「妻も……妻も頼む!」
手が少し震えていた。さっきより視界のノイズが濃い。
――もう一回やったら、もたないかもしれない。それでも、やるしかない。
母親の額に触れる。こちらにも汚染はある。でも、なっちゃんほど濃くはない。
風邪。衰弱。看病疲れ。栄養不足。
その上に、薄く汚染が重なっている。
触れた指先から、胸の奥に張りついていた重さみたいなものが、少しだけほどけた。
母親の呼吸が、ひとつ深くなる。
けれど、それだけだった。
熱は高いまま。顔色も悪い。体力も落ちきっている。
赤ん坊もまだ苦しそうに咳をしている。
……だめだ。こっちは異物だけ抜いて終わり、という話じゃない。
私は手を離した。
「少しだけ楽にはなったはずですわ。でも、奥さまは風邪もひどい。すぐに休ませてください」
「休ませるって、どうすれば……」
私は男を見上げ、指を一本ずつ折りながら告げる。
「まず、この部屋の空気を入れ替えてくださいませ。窓を少しだけ開けて、空気を動かす程度で結構です。寒くしすぎないように」
「あ、ああ」
「奥さまとなっちゃんには、白湯を少しずつ、何度にも分けて飲ませてあげてください。一度にたくさんは無理ですわ」
男は何度も頷く。
「汗をかいたら、すぐに拭いて、寝間着を替えてくださいませ。汗が冷えると、それだけで弱ります」
「わかった」
「食事は無理に取らせないでくださいませ。欲しがったら、重湯か、薄い粥を少しだけ。固いものは、しばらくいけません」
ふと、咳の混じる赤ん坊の息に視線を向ける。
「赤ちゃんは、今のところ風邪だけのようですわ。授乳できるなら、それで様子を見てください」
そこで一度言葉を切って、男の目をまっすぐ見た。
「あなた自身も、家族の世話のあとは必ず手を洗ってくださいませ。井戸水で結構です。吐いたものや、汚れた布に触れたあとは、特に。あなたが倒れたら、誰がこの家の三人を看るのですか」
男は、はっとした顔で自分の手を見下ろし、そのまま何度も頷いた。
私は浅く息を吐いた。
吐き気がまだ残っている。手の震えも止まりきらない。
それでも、ひとつだけはもう見えていた。
なっちゃんの中にあった汚染。
母親に薄く残っていた汚染。
あれは偶然じゃない。
しかも、二人の体調不良を確実に悪化させている。
赤ん坊にそれがない以上、同じ家にいたからでは説明がつかない。
私は部屋の隅に置かれた椀と、食べかけの器へ目を向けた。
――まさか。
「奥さまとお嬢さん、今日、何を食べましたの?」
男の顔色が、変わった。
「……何で、だ?」
「ご家族が口にしていたものを、もう一度食べさせないでくださいませ。残っているなら、まとめて別の場所に。いえ、この家から出してください。汚染が、どこから入ったものか確かめるまでは」
男の喉が、ごく、と鳴った。




