10. 止められない配給、始まってしまった病
「おとう! おとう!」
甲高い声に、清十郎さんがはっと顔を上げる。
「小鈴!?」
人垣の隙間を縫うようにして飛び込んできたのは、小鈴ちゃんだった。
以前、清十郎さんの家で私の髪に目を輝かせ、白猫を膝に乗せてくれた女の子だ。
頬を真っ赤にして、肩で息をしている。転びそうな勢いのまま清十郎さんの袖にしがみつき、それでもじっとしていられないようにその場で足踏みした。
「たいへんなの! なっちゃん、あそぶっていってたのに来なくて――」
「どうした、小鈴。落ち着いて話しなさい」
清十郎さんがしゃがみ込み、目線を合わせる。
「それで、おうちにいったら……なっちゃんのおかあ、すごく苦しそうで……」
息が上がりきっていて、言葉が途切れ途切れになる。
小鈴ちゃんは半べそをかきながら、必死に続けた。
「赤ちゃんも、なっちゃんも、みんな熱いの!」
その瞬間、さっきまで食ってかかっていた男の顔色が変わった。
「……娘まで熱を出したのか?」
怒鳴り声の余韻を引きずったままの声が、一気に掠れる。
男は小鈴ちゃんの前に半歩踏み出した。
「わ、わかんない……でも、さっき見たら、なっちゃんのおかあも、赤ちゃんも、なっちゃんも、みんな熱いの……」
小鈴ちゃんの目に涙がにじむ。
そこで、さっきまでの剣幕が、ただの怒りではなかったとようやく腑に落ちた。
水無瀬村に着いた直後、私は赤ん坊を抱いた若い母親に声をかけた。
頬が赤く、息が浅かった。あの時点で、もう具合は悪かったのだ。
おそらく、あの母親が、この男の妻だ。
この男は、その妻と赤ん坊を抱えたまま、配給が足りない現実に直面していた。
だからあれほど余裕がなかった。怒っていたというより、追い詰められていたのだ。
しかも今、小鈴ちゃんの話では、まだ無事だったはずの娘まで熱を出している。
ただの風邪で済ませるには、嫌な予感がした。
倉庫の奥で見た、あの暗い濁りが脳裏をよぎる。
倉庫の備蓄が減っていることと、一家の中で連鎖する発熱。
まだ断定はできない。けれど、無関係と切って捨てるには、符号が多すぎた。
そのとき、視界の端で半透明の文字列がひときわ強く明滅した。
【謎の病の流行(発生)】
【悪化条件:汚染源未特定】
【失敗条件:領民の死亡 または 配給停止】
【猶予:11時間】
思わず息を呑んだ。
――予兆、ではない。
万象盤の表示は、はっきりと「発生」に変わっていた。
もう前触れの段階ではない。病は、すでに村の中で始まっている。
しかも、失敗条件は領民の死亡、または配給停止。
対応を誤れば、人が死ぬ。
『コイテン』に、こんな展開はなかった。
難易度が高い北領地だとしても、これは想定外だ。
男は完全に口論どころではなくなっていた。
今にも駆け出しそうな勢いで路地の方を振り向く。
「くそっ……!」
「待ちなさい」
私は走り出そうとする男に即座に声をかけた。
男が足を止める。
焦りで呼吸が浅くなっているのが、ここからでもわかった。
「清十郎さん」
「は、はいっ」
「こちらの確認は、そのまま続けてください。手つかずの袋と、様子のおかしい袋の仕分けも止めないでください」
「承知しました」
「倉庫番と夜番の方も、持ち場を離れないでください。鍵の確認と記録は、今決めた通りに」
倉庫番と夜番の男が、反射的に背筋を伸ばす。
「配給そのものは、まだ止めません。ただし、湿った袋には誰も触れないこと。切り分けを優先してください」
そこまで言ってから、私は男へ向き直った。
「あなたは案内を」
「……は?」
「奥さまとお子さんの様子を見ます」
男が目を見開く。
「今確認すべきは、病人の様子ですわ。違いますか?」
男は一瞬だけ言葉に詰まり、それから乱暴にうなずいた。
「……こっちだ」
小鈴ちゃんが不安そうに私を見上げた。
「お姉ちゃん……」
「知らせてくれて助かりましたわ」
そう言うと、小鈴ちゃんは泣きそうな顔のまま、こくりとうなずいた。
私は男と共に、家族たちの待つ家へ向かった。
背後では、半開きの倉庫の戸が、まだ嫌な気配を孕んだまま沈黙していた。




