第119話 結婚式の前夜
もうすぐ、ブランシュが嫁ぐ日。
その前の夜だけは、三姉妹で過ごすことにしました。
結婚式の前日、ノアールは久しぶりに、三姉妹で暮らしていたマンションへ向かった。
エレベーターを降りて、見慣れた廊下を歩く。
何度も通ったはずなのに、今日は少しだけ違って見えた。
もう自分はここに住んではいない。
この家を出たあと、ルミエールの家で過ごし、今はレンと一緒に暮らしている。
それでも、この場所に来ると、身体のどこかがまだ覚えていた。
玄関の前に立っただけで、少しだけ昔に戻ったみたいな気がした。
チャイムを押すと、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい、ノアール」
先に出てきたのはショコラだった。
「お邪魔します」
中へ入ると、奥からブランシュが顔を出す。
「来たのね」
「うん」
ノアールは、その顔を見た瞬間、少しだけ笑ってしまった。
「お姉ちゃん、結婚おめでとう」
ブランシュもやわらかく笑う。
「ありがとう」
その一言だけで、なんだかもう胸がいっぱいになりそうだった。
リビングには、簡単な料理が並んでいた。
サラダにスープ、パン、小さなキッシュ、それからショコラが買ってきたらしいケーキまである。
結婚式前夜だからといって、特別にかしこまった空気ではない。
ただ、いつもより少しだけ明るい食卓だった。
ショコラが椅子に座りながら言う。
「それにしても、まさかね。ブランシュが先に結婚するとは思わなかったわ」
ノアールもすぐにうなずいた。
「私も思った。だって、ブランシュは昔、全然男の人に興味なかったじゃない。音楽と仕事ばかりだったし」
「二人とも、ひどいわね」
ブランシュがそう言うと、ショコラは肩をすくめた。
「だって本当でしょう?」
「……否定はしないわ」
「でしょう?」
ノアールがくすっと笑う。
「お姉ちゃん、お見合いの話が出た時も、あんまり乗り気じゃなさそうだったもんね」
ブランシュは少しだけ視線を落とした。
「そうね。正直、お見合い結婚なんて嫌だったのよ」
「やっぱり」
ショコラがすぐに返す。
「そういうの、一番合わなさそうだもの」
「自分でもそう思ってたわ」
「でも、変わったんでしょう?」
ノアールが身を乗り出す。
ブランシュは、その問いに静かにうなずいた。
「ええ。お見合いで彼に出会えて、よかったと思ってる」
ショコラがカップを持つ手を止める。
「そんなに?」
「ええ」
ブランシュの声は穏やかだった。
「今の生活をしていたら、たぶん彼みたいな人には出会わなかったと思うの。そういう意味でも新鮮だったわ」
ノアールが聞く。
「どんな人なの?」
ブランシュは少し考えてから、まっすぐ言った。
「とにかく誠実なの」
そのはっきりした言い方に、ノアールは一瞬だけ言葉をなくした。
「軽いところがないし、他の女の人の匂いもしないの。浮気なんてしないだろうなって、会ってすぐに分かったわ」
「それは大事ね」
ショコラが言うと、ブランシュもうなずく。
「大事よ。すごく」
それから少しだけやわらかい顔になる。
「私に一途なのも分かるし、ちゃんと結婚するまでは、って一線を引いてくれるの」
ノアールが首をかしげる。
「一線?」
ブランシュは少しだけ照れたように笑った。
「そういうところも含めて、きちんとしてるのよ」
ショコラが興味深そうに言う。
「へえ。じゃあ今どんな感じなの?」
ブランシュは平然と答えた。
「まだ手をつないだくらい」
数秒遅れて、ノアールが声を上げる。
「それ中学生じゃん!」
ショコラも吹き出した。
「今どき珍しすぎるでしょう」
「そうかしら」
「そうよ」
ノアールは笑いながら、でも少しだけ本気で続けた。
「えー。でも、手をつないだくらいだったら、結婚してから心配じゃない?」
ブランシュはその言葉にすぐには笑わなかった。
代わりに、落ち着いた声で答えた。
「彼とは相性いいと思うの」
ノアールが首をかしげる。
「そういうの、分かるの?」
「分かるわ」
迷いのない声だった。
「デートしていて、ちゃんと分かったもの」
ショコラがたずねる。
「どんなところで?」
ブランシュは少し考えてから言った。
「話していて無理がないの。変に気を使いすぎなくていいし、黙っていても気まずくならない」
ノアールはふむふむとうなずく。
ブランシュは続けた。
「それに、彼、研究者でしょう。最初はもっと理屈っぽい人なのかと思ってたの。でも、ちゃんと人の話を聞くし、自分の考えを押しつけないのよ」
ショコラが小さく笑う。
「それ、ブランシュにはかなり大事そうね」
「そうね」
ブランシュは素直に認めた。
「それに、彼、クラシック音楽も好きなの」
「えっ、そうなの?」
ノアールが顔を上げる。
「ええ。一緒にクラシックコンサートにも行ったわ」
「いいなあ」
「感性が近いのよ。音楽の感じ方とか、静かなものを大事にするところとか」
ショコラがじっと姉を見る。
「なるほどね」
ブランシュは少しだけ笑った。
「一緒にいて、不思議と自然な空気でいられるの」
その一言のあと、部屋の空気が少し変わる。
ノアールもショコラも、今度は茶化さなかった。
ブランシュは少しだけ視線をそらして、それでも続けた。
「会っていて、運命を感じたわ」
ノアールが小さく息を止める。
「運命……」
「ええ。この人だって思ったの」
ショコラがふっと笑った。
「そこまで言うなら、本物ね」
「そうかもね」
ノアールは嬉しそうにブランシュを見る。
「なんか安心した」
「何が?」
「お姉ちゃんが、ちゃんと好きな人と結婚するんだなって分かって」
ブランシュの顔がやわらかくなる。
「そうよ。ちゃんと好きな人と結婚するの」
少し間が空いて、ノアールがまた聞く。
「結婚したら、どんな生活になるの?」
「まだ私も全部は分からないわ。でも、今より少しだけ静かな暮らしになるんじゃないかしら」
「新婚旅行は?」
「それはまだ秘密」
「えー」
ショコラが笑う。
「そこは言わないのね」
「言わないわ」
ノアールはソファにもたれながら、しみじみと言った。
「明日、お姉ちゃんのウェディングドレス姿、楽しみだなあ」
ブランシュが少し照れたように笑う。
「そんなに見るものでもないわよ」
「見るよ。絶対きれいだもん」
ショコラもうなずく。
「それはそうね。悔しいけど、たぶんかなり似合うわよ」
「悔しいって何」
「なんとなくよ」
少しして、ブランシュがぽつりと言った。
「でも、本当にまだ実感ないの」
ノアールが顔を向ける。
「緊張してる?」
「してると思う。ピアノのコンクールや、ドームのコンサートより緊張するわ」
「そんなに?」
「そんなによ」
ショコラが吹き出した。
「それは相当ね」
「だって、演奏やステージは始まったらそのまま流れていくけど、明日はそういう感じじゃないもの」
「明日はたくさんの人が来るんだよね?」
ノアールが聞くと、ブランシュはうなずいた。
「ええ。披露宴にもけっこう来るわ」
「先代の社長も来るのよね?」
「来るわ」
ブランシュの声が少しだけやわらかくなる。
「バージンロードも、お父さんの代わりに先代の社長が一緒に歩いてくれるの」
ノアールがすぐに反応した。
「えー、先代社長見つかったの?」
ショコラが答える。
「見つかったというか、ちゃんと戻ってきたのよ。借金も返して、この前ちゃんと顔を出したわ」
「そうなんだ……」
ノアールは少しほっとしたように笑った。
「じゃあ、明日はちゃんと特別な日になるね」
「なるわね」
しばらくして、今度はショコラに視線が集まった。
ノアールがにやっとする。
「ショコラお姉ちゃんはどうなのよ?」
ショコラがちらりと見る。
「何が?」
「だから、先輩と」
ブランシュも少し笑う。
「そういえば、そこはあまり聞いてないわね」
ショコラは肩をすくめた。
「別に、普通よ」
「普通って何」
ノアールがすぐに食いつく。
ショコラは少し考えてから言った。
「……こないだ、彼の部屋には行ったわよ」
ノアールが身を乗り出す。
「えっ」
ブランシュも視線を向ける。
「ノート貸してくれるって言うから」
ノアールがさらに身を乗り出す。
「それで?」
ショコラは紅茶をひと口飲んでから、しれっと答えた。
「秘密」
「えー!」
「そこ一番大事なところじゃん!」
「だから秘密なの」
ショコラは少しだけ口元を上げた。
「何でもかんでも話すわけないでしょう」
ブランシュがくすっと笑う。
「でも、それでこそショコラね」
「そういうこと」
ノアールが唇をとがらせる。
「二人とも大人ぶっちゃって」
「ぶってるんじゃなくて、ノアールが自由すぎるのよ」
ショコラがすぐに返す。
ブランシュもうなずいた。
「それはあるわね」
「えー?」
ノアールが不満そうな声を出す。
ショコラはさらりと言った。
「世間の目とか、あんまり気にしないで我が道を行くタイプでしょう」
「気にしてるってば」
「どこが?」
「気にしてるよ!」
ブランシュが笑う。
「気にしてるなら、もう少し慎重に生きられると思うの」
「ひどい」
「でも、それがノアールの良さでもあるのよね」
ショコラがそう言うと、ノアールは少しだけ言い返しにくくなった。
「……何それ」
「まっすぐってことよ」
ブランシュが続ける。
「思ったことをそのまま出せるのは、誰にでもできることじゃないわ」
ノアールは少し照れたように視線をそらした。
「別に、そんな大したことじゃないし」
「そういうところよ」
ショコラが笑う。
「話変わるけど、明日お姉ちゃんのブーケ、私ほしいなあ」
ノアールがそう言うと、ショコラがすぐに反応した。
「何それ。早すぎるでしょう」
「だって、次は私がって思うじゃない」
「えー、まだ早いわよ」
「そうかな」
「そうよ。ノアールはちゃんと大学卒業してから」
「そこなの?」
「そこです」
ブランシュがそのやり取りを見ながら、静かに笑った。
「でも、そういう話ができるようになったのね」
ノアールは少しだけ照れたように言う。
「まあ……前よりは」
また三人で笑いが広がった。
笑って、話して、からかって。
少し昔に戻ったみたいな時間だった。
明日になれば、また景色が変わる。
でも今夜だけは、それをまだ考えたくなかった。
時計を見たショコラが言う。
「こんな時間」
ノアールもつられて見る。
「ほんとだ。早すぎる」
ブランシュが、少しだけ名残惜しそうに笑う。
「まだ全然足りないのにね」
三姉妹の夜は、思っていたよりずっとあっという間に過ぎていった。
読んでいただき、ありがとうございます。
笑ってばかりの前夜でしたが、こういう時間ほど、あとから静かに残るのかもしれません。
明日はいよいよ結婚式です。




