第118話 それぞれの居場所
もうすぐルミエールはいなくなる。
ソレイユはショコラの家へ行く予定でした。
けれど、コンサートのあと、少しずつ状況が変わり始めます。
あの夜、スマホが鳴った時、画面に出ていたのはゆうとの名前だった。
少し迷ってから、ソレイユは通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、ソレイユ? 今、大丈夫?』
久しぶりに聞く声だった。
それだけで、胸の奥が少しあたたかくなる。
「うん。大丈夫」
『ルミソラもキャットスターも、ライブは観に行けなかったけど、テレビとネットで観たよ』
ゆうとの声は、どこか少し緊張しているみたいだった。
『すごく良かった。今回、前とは違う役目で出てたけど、ソレイユ、ちゃんと輝いてて綺麗だった。』
思わず、ソレイユは何も言えなくなった。
『お腹の子のこともあるし、大丈夫かなって心配してたけど、最後までやりきれてて、本当に良かった。』
嬉しかった。
ちゃんと見てくれていたことが。
ただ眺めたんじゃなく、心配しながら見てくれていたことが。
「……ありがとう」
小さく返すと、電話の向こうでゆうとが少しだけ息をついた。
『あのさ、今度ちゃんと会って話したいんだ』
ソレイユは無意識に背筋を伸ばした。
『うちに来ない?』
その一言で、胸の奥が少し固くなる。
『もう、この前みたいに親がソレイユのこと責めたりしないから。父さんも母さんも、ちゃんと会って謝りたいって言ってる』
そこで、ソレイユは一瞬止まった。
返事をしようとして、すぐには声が出なかった。
会いたい。
それは本当だった。
でも、前に責められた時の空気を、まだ身体が覚えている。
怒らないと言われても、謝りたいと言われても、怖さはすぐには消えなかった。
『……ソレイユ?』
「ごめん……」
やっと出た声は、自分でも思ったより小さかった。
「会いたいの。会いたいけど……ちょっと、こわくて」
電話の向こうが静かになる。
少しして、ゆうとがゆっくり言った。
『うん。それは、そうだよな』
責める声ではなかった。
『こないだ、あんな感じになったのに、平気なわけないよな』
その言葉に、ソレイユの肩から少しだけ力が抜けた。
『でも、本当にちゃんと話したいんだ』
ゆうとは少し間を置いてから、続けた。
『今度は、大丈夫だから』
ソレイユはすぐには答えられなかった。
でも、胸の奥にあった固いものが、ほんの少しだけゆるむ。
「……少しだけ、考えさせて」
『うん。待ってる』
通話が終わったあとも、スマホはまだ手の中にあった。
会いたい気持ちは、ちゃんとある。
でも、それと同じくらい、まだ怖い。
そのどちらも嘘じゃなかった。
その夜、ソレイユが電話のことを話すと、ルミエールは静かに聞いていた。
少し間を置いてから、言う。
「でも今回は、会っておかないと後悔するような気がするわ」
ソレイユは顔を上げた。
「……後悔?」
ルミエールは小さくうなずく。
「前回、あんなふうに言われたんだもの。怖いのは当然よ」
ソレイユはうつむいたまま、小さくうなずいた。
「でも、怖いままずっと放っておいたら、ずっと苦しいままだと思うわ」
静かな声だった。
押しつけるような強さはない。
それでも、その言葉は胸の奥に残った。
「悠斗くん、大丈夫だって言ってくれたんでしょう?」
「……うん」
「だったら、勇気を出して行ってみた方が、少しはすっきりするんじゃないかしら」
ソレイユはすぐには返事をしなかった。
でも、その夜のうちに、ゆうとへ短く返した。
――行くね。
数日後、ソレイユはゆうとの家の前に立っていた。
二階建ての戸建てだった。
特別に大きいわけではないけれど、ちゃんと人が暮らしてきた気配のある家だった。
玄関先まで来ても、すぐには呼び鈴を押せなかった。
会いたい。
でも、緊張する。
その時、内側から扉が開いた。
ゆうとだった。
「……来てくれたんだ」
その声は、電話の時よりもっとやわらかかった。
ソレイユは小さくうなずく。
「うん」
「入って」
家の中へ足を踏み入れる。
前にオンライン越しで感じた空気とは違っていた。
静かで、少し緊張していて、でも追い返すような冷たさはない。
リビングに通されると、ゆうとの母と父が立っていた。
ソレイユは思わず背筋を伸ばす。
最初に口を開いたのは、母だった。
「……来てくれてありがとう」
前よりずっと静かな声だった。
「今日は、ちゃんと謝りたくて」
ソレイユは何も言わずに、その続きを待った。
母は息を整えてから言った。
「最初は、いきなり噂になって、家の周りまで騒がしくなって……正直、余裕がありませんでした」
取り繕った言い方ではなかった。
「だから、あなたに腹が立ってしまったの」
父も横で黙って聞いている。
「でも、うちの息子にも同じだけ責任があるのに、あなたばかり責めてしまった。ごめんなさい」
ソレイユは少しだけ視線を下げた。
責められた時のことは、まだはっきり覚えている。
冷たい言葉も、遠く感じた空気も、消えてはいない。
それでも今の声には、あの時とは違うものがあった。
父が口を開く。
「あの時は現実のことばかり考えていた。だが、それであなた一人に責任を押しつけて責めたのは違っていた」
短く、はっきりした声だった。
「うちの息子にも同じだけ責任がある。そこをきちんと見ずに、申し訳なかった」
そのあとで、ゆうとも頭を下げた。
「僕がもっとしっかりしていればよかった。本当にごめん」
声は前より低くて、まっすぐだった。
「避妊のことも、これからのことも、ちゃんと考えて行動できてなかった」
ソレイユは黙って聞いていた。
「妊娠が分かった時も、すぐに受け止められなかった。少し考えさせてって言って、結局、少し逃げてたと思う」
ゆうとはそこで一度言葉を切って、それでも続けた。
「ソレイユ一人に全部責任を背負わせてしまったこと、本当に悪かった」
ソレイユはすぐには何も言えなかった。
許したとか、もう大丈夫だとか、そんな簡単な言葉は出てこない。
でも、逃げずにちゃんと顔を見せて、声にしてくれたことだけは分かった。
その時、母が少しだけ空気を変えるように言った。
「よかったら……夕飯、食べていかない?」
ソレイユが顔を上げる。
「もう用意してあるの。大したものじゃないけど」
断る理由が、すぐには見つからなかった。
「……はい」
食卓には、湯気の立つ晩ごはんが並んでいた。
白いごはん。
味噌汁。
焼き魚。
だし巻き卵。
煮物。
おひたし。
唐揚げも少しだけある。
普段の晩ごはんより、少しだけ豪華なのだろうと分かる。
誰かの誕生日や、親戚が来た時みたいな食卓だった。
母が少し照れたように言う。
「お姫さまに、うちの庶民の味が合うか分からないけど」
ソレイユは首を振った。
「そんな……」
言い終わる前に、母が茶碗をそっと置いた。
「冷めないうちに、どうぞ」
向かいにはゆうとがいて、その隣には父が座る。
母も席につく。
少しぎこちない。
でも、誰も急かさなかった。
「いただきます」
その声が重なる。
ソレイユも少し遅れて、同じ言葉を口にした。
「……いただきます」
白いごはんを一口食べる。
その瞬間、思わず声がこぼれた。
「おいしい……」
言ってから、少し遅れて顔が熱くなる。
「……おいしいです」
母がやわらかく笑った。
「よかった」
味噌汁を飲む。
だしのあたたかさが、胸の奥まで静かに落ちていった。
派手じゃない。
でも、ひとつひとつがやさしい。
ソレイユは箸を置いて、小さく言った。
「宇宙で食べる食事は、一人で食べることが多かったんです」
食卓が静かになる。
「家族が集まる時もありました。でも、広い場所で遠くに座っていて……こんなふうに、近くで一緒に食べることはあまりありませんでした」
少しだけ言葉を探して、それから素直に続ける。
「みんなで食べると、おいしいですね」
その一言に、誰もすぐには返さなかった。
代わりに、ゆうとの父が静かにうなずく。
母は少しだけ目を伏せてから、やわらかく言った。
「そうね」
ゆうとも、小さく笑った。
「よかった」
その声を聞きながら、ソレイユはもう一口ごはんを食べた。
あたたかい。
料理だけじゃない。
この食卓に流れているものそのものが、あたたかかった。
食事が少し進んだところで、母が続けた。
「ゆうとと同じ部屋じゃないけど、お兄ちゃんの部屋が今空いているの」
ソレイユが顔を上げる。
「もしよかったら、そこを使ってもらってもいいのよ」
それから、少しだけ笑う。
「家族みたいに、ね」
父がうなずいた。
「身体のこともある。無理はしない方がいい」
母はさらにやわらかな声で続けた。
「勉強や仕事をしたいなら、そのことも一緒に考えましょう。すぐじゃなくていいの。できることからでいい」
少し間を置いてから、はっきりと言った。
「子どものことも、できることはちゃんと手伝うわ」
責められると思っていた場所で、ここにいていいと言われている。
それが、まだ少し信じられなかった。
ゆうとも、まっすぐソレイユを見ていた。
「今すぐ結婚はできない」
それは前と同じ言葉だった。
でも、続きは違った。
「でも、逃げるつもりはない。大学に行って、自分で立てるようになって、それからちゃんと迎えに行く」
その声は、前よりずっとはっきりしていた。
「それまでは、ここで一緒に暮らしてほしい」
ソレイユは息をするのも忘れそうになった。
まだ何も終わっていない。
まだ何も、きれいに整ったわけでもない。
不安が消えたわけでもない。
それでも、ここにいていいと言われることが、こんなにもあたたかいなんて思わなかった。
食後、兄の部屋だという二階の部屋を見せてもらった。
机と本棚が残っていて、ほかの荷物はほとんど片づけられている。
窓の外には、見慣れない地球の夜があった。
母が言う。
「急いで決めなくていいからね」
父も短く言った。
「考えてからでいい」
ソレイユは部屋の入口に立ったまま、少しだけ息をついた。
ゆうとと同じ部屋ではない。
それでも、毎日顔を合わせられるだけで、少し幸せになれそうな気がした。
玄関まで見送りに来たゆうとが、小さく言う。
「来てくれてありがとう」
ソレイユは少し迷って、それから言った。
「……まだ、ちょっと緊張してる」
「うん」
「でも」
その先は、前より少しだけ言いやすかった。
「来てよかった」
ゆうとの顔が、少しだけほどける。
「そっか」
それだけの短いやり取りなのに、さっきまでより空気が軽くなる。
数日後、ソレイユとルミエールは、それぞれの新しい場所へ引っ越すために荷物を整理していた。
同じ部屋の中にいるのに、向かう先はもう違う。
ソレイユは衣装箱のふたを閉じて、小さく息をついた。
少し前まで、自分のこれからがどこへ向かうのか、何ひとつ分からなかった。
でも今は、まだ全部ではなくても、行き先だけは見えている。
ダンボールの向こうでは、ルミエールも静かに本をまとめていた。
やがてルミエールが顔を上げた。
「ずいぶん進んだわね」
「うん」
ソレイユは小さく笑った。
「ルミエールも」
「私は本が多いから、まだ少しかかりそう」
その言い方が、いつものルミエールらしくて、少しだけほっとする。
同じ家で過ごすのも、もう長くはない。
ルミエールは自分の場所へ戻っていく。
ソレイユは、ゆうとの家へ移る。
それぞれの行き先は違う。
でも、どちらももう、行き場のない未来ではなかった。
ソレイユは閉じた箱の上に手を置いた。
拍手の続きみたいな毎日ではない。
もっと静かで、もっと小さな暮らしが待っている。
それでも、その方が今は嬉しかった。
誰かと一緒に食べるごはん。
責める言葉ではなく、いていいと言ってくれる声。
そして、次に帰る場所。
そのひとつひとつが、胸の中でやわらかくあたたまっていた。
読んでいただき、ありがとうございます。
大きなステージの光とは違うけれど、湯気の立つ食卓や、ここにいていいと言ってもらえることのあたたかさもまた、ソレイユのこれからにつながっていくのだと思います。




