第8話:覚えていない約束
放課後の空き教室で、私は楓が汚した機密書類の山と格闘していた。クレヨンの跡を、指定の消去液で一枚一枚拭き取っていく地味な作業。事件を解決したはずなのに、後片付けまでは幽霊さんたちも手伝ってくれない。
――思えば、この10日間くらいで、色々ありすぎた。
兵器が暴走して、権藤さんに助けてもらって、現場を半壊させて。辰巳さんが仮説の種を撒いて、柊先輩が謎のノートを付け始めて。オカルト・パズルでは鈴香さんに、廃工場では楓さんに助けてもらって、最後はまた鈴香さんに――気づけば、柊先輩の「予測不能な天才」という評価だけが、どんどん一人歩きしている。
――でも、本当に何かを成し遂げたのは、いつも幽霊さんたちで、私自身は何一つ。
そのぶん、美咲先輩との溝も、深くなる一方だ。廊下で交わした硬い言葉、車内の張り詰めた空気、いまだに晴れない疑いの目。仲直りの糸口すら、まだ見つけられていない。
書類を拭く手を止め、小さくため息をつく。見習い期間はもう9ヶ月と少し。結果は出ているはずなのに、正規エージェントへの昇格の話は、なぜかまだ来ない。
「相変わらず、暗い顔してるね」
声に顔を上げると、結衣が涼しい顔で教室に入ってきた。手には、私の分まで買ってきてくれたらしい紙パックのジュース。その後ろから、桃香もひょっこり顔を出す。
「茜ー、また残業? 例の先輩がらみ?」
「な、なんでそうなるの!?」
「勘。あんた、あの人の話になるとすぐ挙動不審になるもん」
桃香はにやにやしながら机の上のクレヨンの跡を覗き込み、「うわ、これ何の後始末? 幼稚園児が暴れた後みたい」と無邪気に言う。核心を突かれ、私は思わず変な声を上げそうになった。
「な、な、なんでもないの! ほら、桃香は部活は?」
「もう終わったから暇なの。それより恋バナ、聞かせてよー」
強引に話を逸らしながら、桃香は自分の机に戻って荷物をまとめ始めた。ひとしきり茶化した後、満足したのか「じゃ、また明日ね」と手を振って先に帰っていく。
「結衣! ありがとう、手伝いに来てくれたの?」
「暇だったから。それより、その書類、クレヨンって……何があったのよ、一体」
「そ、それは秘密ということで……」
いつもの通り、詳しい事情は話せない。結衣も深くは追及せず、隣に座って黙々と拭き取り作業を手伝ってくれる。こういうところが、本当にありがたい。
「最近、あの大学生の先輩たちとは、うまくやってるの?」
「柊先輩は……うん、頼りにしてくれてる、と思う。でも美咲先輩には、まだ全然」
「ふうん」
結衣は特に驚いた様子もなく、作業の手を進める。彼女にとって柊や美咲は、単に「バイト先で世話になっている大学生の先輩」程度の認識でしかない。本当のことは、誰にも話せない。
「柊先輩、最近やたらノートに何か書き込んでるんだよね。依頼が入るたびに、難しい顔して」
「へえ、探偵ごっこみたいだね」
「あはは……まあ、そんな感じ。でも、たまに私を見る目が、分析対象を見るみたいな時があって。それが嬉しいような、ちょっと怖いような」
言いながら、自分でも変な感想だと思う。結衣は特に反応せず、黙々と拭き取り作業を続けていたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、あんたのその探偵事務所のバイト、まだ試用期間なんだっけ。もうどれくらい経つの」
「え、えっと……もうすぐ一年、かな」
「一年て。普通の事務バイトなら、とっくに正社員登用されてる期間じゃない? そんなに厳しい試用期間があるものなの、探偵事務所って」
「そ、そういう特殊な業界だから……色々厳しいの!」
しどろもどろに誤魔化す私を、結衣は胡散臭そうな目で見つめる。
「ふうん。まあ、あんたが変な会社に騙されてるわけじゃないなら、いいけど。それにしても、探偵事務所の事務バイトなんて、渋いところ見つけてきたよね」
「そ、そう? まあ、変わってるとは、よく言われる」
「じゃあ、あんたそのまま就職するつもり? そこの会社に」
痛いところを突かれ、一瞬言葉に詰まる。でも、この質問にはちゃんと答えを用意していた。
「え、えっとね……まずはバイトリーダーになれたらいいなって思ってて。それで、大学出てから、正式に就職するかどうかは、その時考えようかなって」
我ながら、よくできた回答だと思う。実はこれ、丸ごと柊先輩と美咲先輩からの入れ知恵だった。「聞かれたら、こう答えるといい」と、二人揃って台本のように授けてくれたのだ。あの二人、息を合わせてこういう作り話を考えるときだけは、妙に連携がいい。
「へえ。案外ちゃんと考えてるんだ」
結衣は少し意外そうに、けれど納得したように頷いた。まさか台本通りだとは、思ってもいないだろう。
――ごめん結衣、これ半分は嘘で、半分は……本当にそうなったらいいなって、ちょっとだけ思ってる。
拭き取り作業の途中、結衣の手首で、小さな星形のキーホルダーが揺れた。
「そのキーホルダー、いつも着けてるね」
何気なく尋ねると、結衣は一瞬だけ手を止めた。
「……うん。昔、大事な人からもらったの」
「大事な人?」
「さあ、どうだったかな」
はぐらかすように笑う結衣。その表情に、何か懐かしさのようなものが滲んでいる気がして、私はそれ以上聞けなかった。
「――ねえ、茜」
不意に、結衣が真面目な声で言った。
「あんたのドジ、最初に許したの誰だったか、覚えてる?」
前にも聞かれた、同じ問い。今度は少しだけ、真剣な響きがあった。
「うーん……ごめん、やっぱり全然」
記憶の底を探ってみても、何も出てこない。物心ついたときには、もうこうしてドジを重ねる自分がいた気がする。
「……覚えてなくても、いいけどね」
結衣はそう言って、また作業に戻る。声のトーンは、いつもと変わらない。でも、その横顔だけが、ほんの少し寂しそうに見えた。
――結衣、いつもそうやって、はぐらかすよね。
私は理由も分からないまま、ただそう思う。物心ついた頃からの付き合いだと思っていたけれど、本当はもっと前から、何かがあったのかもしれない。そんな根拠のない予感だけが、胸の隅に残った。
書類の山は、いつの間にか半分ほど片付いていた。窓の外はもうすっかり夕暮れで、教室にオレンジ色の光が差し込んでいる。
「ねえ、試用期間って、あと何ヶ月だっけ」
不意に結衣が尋ねる。前に愚痴った覚えがあるのだろう。
「9ヶ月とちょっと、かな。結果は出してるはずなんだけど、なぜか昇格の話が全然来なくて」
「ふうん。まあ、あんたのことだから、そのうちどうにかなるでしょ」
根拠のない励ましなのに、なぜか少しだけ気が楽になる。結衣にはそういう不思議な力があった。
「ま、いっか。とにかく、次の案件までは平和に過ごしなさいよ」
「うん。……そうだね」
そう答えながらも、心のどこかで、次の何かが、もうすぐそこまで来ている気がしていた。




