第9話:潜入、ナイト・アイ
ASTRA本部のブリーフィングルーム。モニターに映し出されているのは、武装したテロリストに占拠された、都心の高層ビルのロビーだった。
「今回の事案は、能力者を利用した人質テロと見せかけた、政治家の汚職を隠蔽するための偽装工作の可能性が高い」
柊先輩の声は、いつも通り冷静だった。
「またうちのチームですか」美咲先輩が、小さくため息をつく。「先月から、明らかに担当件数が多すぎます。他のチームにも振り分けるべきでは」
「上の判断だ。適性がある、ということなんだろう」
柊先輩はそう答えたものの、その口調には、どこか腑に落ちない響きが混じっていた。
「あの……すみません、それって結局、何が起きてるんでしょうか。テロなのか、汚職なのか、両方なのか、正直よくわからなくて……」
素直に尋ねると、柊先輩は少し驚いた顔をした後、簡潔に言い直してくれた。
「政治家が、自分の汚職の証拠を隠すために、テロリストを雇って人質事件を演出している。世間の目をテロ事件そのものに向けさせて、本当の不正から注意を逸らすのが狙いだ」
「あ……なるほど、そういうことですか」
美咲先輩が呆れたようにため息をつく。
「実行犯として動員されているテロリストの身元は、事前調査でほぼ洗い出せている。特に注目しているのは、この男だ」
柊先輩がモニターに、一人のテロリストの写真を表示する。
「病気の妹の治療費を工面するため、闇のルートで雇われたと見られる。組織側は、この妹を人質同然に扱い、彼を従わせている可能性が高い」
「じゃあ、その妹さんは……」
「美咲、君には潜入と並行して、妹さんの身柄を安全な場所へ移してもらう。組織が男を確実に従わせるための材料を、先に断ち切っておきたい」
「了解しました。すぐに手配します」
美咲先輩は即座に頷き、既に自分の役割が決まっていることに、特に不満は示さなかった。
「内部情報も必要だ。テロリストが本当に何を求めているのか、人質の状況を確認する必要がある」
「潜入要員は私が適任です」
美咲先輩が食い下がる。
「私の精密な念動力なら、セキュリティを潜り抜け、完璧な隠密行動が可能です」
「いや、美咲。君にはさっきの任務がある。それに、このテロリストはASTRAのプロトコルを熟知している可能性が高い。君の強大な能力は、かえって警戒心を強めてしまうだろう」
柊先輩は静かに首を振ると、私に視線を向けた。期待に満ちたその目に、心臓が跳ねる。
「ここは、君に頼みたい、瀬尾くん。潜入要員は君だ」
「え、ええっ!? わ、私、潜入なんて……! 必ずドアノブに手をぶつけたり、ケーブルに足を引っ掛けたりします!」
「そうですよ、柊先輩!」
美咲先輩が血相を変えて立ち上がる。
「潜入は、繊細な情報収集が求められる重要任務です。あの瀬尾隊員では、道に迷うか、備品を壊すか、最悪の場合、真っ先に人質になるか、そのどれかです!」
的確すぎる指摘に、何も言い返せない。それでも柊先輩は、譲らなかった。
「美咲、君の懸念はもっともだ。だが、我々は彼女の可能性に賭けるべき局面にいる」
柊先輩は、私の手をそっと握った。その温かさに、思考が一瞬止まる。
「頼む。今回は、テロリストを欺く『演技』が必要になる。彼らが最も警戒しない『場違いな存在』として潜り込むんだ」
――どうしよう……。ドジな私じゃ絶対無理。誰か、この舞台を乗り切れる、演技のプロの力を……!
必死に願った瞬間、体の中心がすっと冷たく澄んでいく感覚があった。
「……フフッ。ああ、なんて退屈な舞台でしょう。テロリストという名の三流役者を相手にするのは、少々役不足でございますわね」
優雅で、それでいて芝居がかった声が、私の口から漏れる。女優・エリカ、憑依完了。柊先輩と美咲先輩が、同時に息を呑むのがわかった。
「……本当に、底が知れないわね、この子は」
美咲先輩が、呆れと恐れの入り混じった声で呟く。もう何度目かの人格交代に、驚きよりも、諦めに近い感情が滲んでいた。
「あ、茜、あなた、いきなり何を……! ちょ、ちょっと待って、脱がないで!」
エリカは、ためらいもなく制服を脱ぎ捨て始める。美咲先輩は悲鳴を上げながら、とっさに壁際のカーテンを引き剥がし、それを盾のように広げて私の前に立ちはだかった。
「柊先輩! 見ないで! というか、こっち手伝ってください!」
「あ、ああ、すまない!」
柊先輩は弾かれたように両手で目を覆い、律儀に後ろを向く。美咲先輩は片手でカーテンを支えながら、もう片方の手で備品棚からパーティドレスを引っ張り出し、半ば力任せに私へ押し付けてきた。
「柊様、美咲様。潜入の基本は、役柄に成りきること。テロリストが最も警戒しないのは、彼らの目的を完全に無視できる、場違いな存在でございます」
「い、意味わかんないわよ!」
カーテンの陰で身支度を整えたエリカは、優雅な仕草でドレスの裾を払う。声も、物腰も、完璧な大女優そのものだった――ただし、鏡に映る全身は、身長百五十センチそこそこの、どこにでもいる女子高生の体格のままだ。裾は長すぎて踏みそうになり、肩紐はずり落ち、華やかなはずのドレスは、まるで借り物の衣装をそのまま着せられた子どものように、ちぐはぐに揺れていた。
美咲先輩は、混乱と羞恥で顔を赤くしながら、それでもエリカの前に立ちはだかった。
「この前は荒くれ者の格闘家、次は専門用語の科学者、埃を調べる探偵、クレヨンの芸術家……! そして今度は高飛車な女優!? あなた、一体全部で何人いるのよ!?」
その問いに、エリカは扇子で口元を隠しながら、ただ優雅に微笑んだ。
「さあ、それは。わたくしの口からは、何とも」
はぐらかすような答えに、美咲先輩はさらに苛立ちを募らせる。
「はぐらかさないで! 組織の上層部に報告しますよ!」
「フフ、ご自由に。ただ、答えを急いても、良いことなど何もございませんわよ」
「一体、何人のプロフェッショナルが、彼女の中に……底が見えない……」
柊先輩が、独り言のように呟きながら手帳を取り出す。目が輝いていた。
「瀬尾くん、君はやはり、僕の予想を超えている。この多角的なスキルの数々を統合することで、予測不能な行動原理を確立している……!」
その言葉は、美咲先輩の怒りの火に、さらに油を注ぐ結果になった。
◆
現場のビルへ到着。外部の警備網は、あらかじめ配置されていたASTRA特殊部隊が制圧を完了させていた。潜入するのは私一人。柊先輩は特殊車両から、インカムとモニター越しに状況を追う手筈になっている。美咲先輩は、既に病院へ向けて出発した後だった。
エリカは、占拠されたロビーへ、ハイヒールをカツカツと鳴らしながら優雅に歩み寄る。踵の高さに足元がおぼつかず、一瞬だけよろめいたが、優雅な仕草でごまかしてみせた。
「あら、随分と騒がしいパーティーでございますこと。招待状をいただいた、『政治家秘書代理』のエリカと申しますわ」
テロリストたちは、あまりにも堂々とした物言いと、あまりにも幼い顔立ちの組み合わせに、束の間、判断力を失っているようだった。
「な、なんだ、貴様は!? ここは俺たち国際組織『ナイト・アイ』に占拠されているんだぞ! 動くな!」
リーダーらしき男が、銃口をエリカに向ける。その襟元で、見覚えのある渦巻き状のバッジが小さく光った。
――あの紋章……! 前に暴走した、あの兵器にもあった、あれと同じ……!
意味はわからないまま、エリカの中で、私は思わずその模様を記憶に刻んでいた。
エリカは、その銃口を指先でそっと押しやりながら、なおも優雅に微笑み続けた。
「まあ、なんて失礼な演出でございますこと。わたくしは、このパーティーの真のスポンサーの秘書でございます。国際組織『ナイト・アイ』? それは今日の寸劇の配役でいらっしゃいますの? お可哀想に、あなた方の演技には、まるで感情がこもっていませんわ」
エリカは優雅に高笑いする。あまりにも場違いで大げさなその態度に、テロリストたちは完全にペースを乱された。
「あ、あなた、本当に秘書なのか!? 身分を証明しろ!」
「証明? ああ、証明でございますわね」
エリカは、懐から取り出した扇子をひらひらとさせながら、証明が必要でしたら、今すぐ差し上げますわ、と告げた。耳元のインカムに向かって、涼しい顔で囁く。
「柊様、美咲様。さあ、わたくしの舞台のために、最高の証明をお願いいたしますわ」




