第10話:救えなかった誰か
「ま、まさか……本当に、秘書代理だと!? 失礼をした!」
リーダーの男は、青ざめた顔で銃口を下ろした。エリカは優雅に微笑み、男の頬を軽く叩く。
「役者として、役柄にはもっと情熱を注ぐことですわ。わたくしは急いでおりますの。あなた方の真の目的を、一刻も早く報告しなければなりませんから」
そう言い残し、エリカはテロリストの中枢へと、ハイヒールを鳴らしながら優雅に歩き去った。誰も見ていない奥の部屋に潜り込んだ瞬間、緊張の糸が緩んだのか、口調がわずかに崩れる。
「あ、あう……ひ、柊先輩……! 私、ちゃんと、やれた、かな……!」
その本音は、一瞬でエリカの優雅な高笑いにかき消された。
「ああ、我ながら、最高の演技でございましたわ」
そのままエリカの意識が退いていく。反動で、私は幼児のように泣きじゃくりながら、壁にもたれかかった。
「瀬尾くん、よくやった。潜入先で見つけた資料を、すぐに解析班に送ってくれ」
インカム越しの柊先輩の声に、涙と鼻水を拭いながら手を伸ばす。テロリストたちの計画書らしき紙束が、机の上に無造作に積まれていた。
その時、休憩室のドアが乱暴に開いた。
「おい、そこに誰かいるのか!?」
大柄で目つきの悪い男が、部屋に踏み込んでくる。
「あ、あわわわわ!」
反動で力の抜けた体は、驚きのあまり椅子から転げ落ちた。乱れたドレスの裾を直す余裕もない。
「あんた……さっきの秘書代理か? 様子がおかしいぞ。演技がやけに大げさだったが、ここは誰も見ていない。本当は誰だ? ASTRAの犬だろう!」
大柄な男は、確信したようにニヤリと笑い、じりじりと距離を詰めてくる。分厚い胸板と、腰に差した拳銃の存在感に、逃げ場のなさを思い知らされた。
「ち、違います! 私は、その、ただのコンパニオンで……う、うぅ……」
パニックで言葉が出ず、ただ泣きじゃくることしかできない。男は確信を深めたように、さらに一歩踏み出した。
「見つけたぞ、ASTRAのネズミ! 大人しくしろ! 敵とはいえ、手荒な真似はしたくないんだがな」
――どうしよう、正体がバレる……! 誰か、誰か助けて……!
パニックの中、頭の奥で、複数の気配がざわめくのを感じた。まだ完全には消えていないエリカの余韻が、素早く状況を見極めていく。
(――力尽くで黙らせるには、少々分が悪い相手ね。銃を持った男を殴り倒せば、周囲に物音が響いて厄介なことになるわ)
さらに奥から、別の気配が低く唸るのがわかった。荒っぽい気配――たぶん、あの人だ。
(――呼ばれりゃ、いつでも出てってやるがな)
(――あなたの出番は、交渉が決裂したときに取っておきましょう。ここは、言葉で丸め込める者の出番でしょう。もし決裂したら、そのときはお願いすることになりそうですけれど)
自分の意志ではない判断が、頭の中で下される。まるで舞台袖で配役が入れ替わるように、次の瞬間には、もう体の主導権が移っていた。
震えていた瞳から、すっと感情が消える。身体の震えが止まり、顔が完璧な無表情になった。
「なにを言っているのかね……。君の選択は、愚かだ」
落ち着いているが、一言一句に重みのある、冷徹な声。交渉人・早乙女、憑依完了。
「な……!? な、なんだ、その豹変ぶりは……!」
大柄な男は、明らかにたじろいだ。先ほどまでの泣き虫な女とは、まるで別人だった。
「我々は、君たちの真の脚本を知っている。そして、君の心の奥底にある弱点もだ」
早乙女は、男が目を逸らそうとした一瞬の隙を逃さなかった。
「君がこのテロに参加したのは、病気の妹の治療費を得るためだろう。君は暴力的なテロリストではない。ただ、家族を守りたいだけだ」
「な、なぜ、それを……! いや、違う、はったりだ! お前らみたいな小娘に、俺の何がわかる!」
男は声を荒げ、拳銃を握る手に力を込めた。今にも仲間を呼ぼうと、口を開きかける。
耳の奥で、柊先輩の声が低く響いた。インカム越しに、事前調査で摑んでいた情報を、今このタイミングで伝えてきたのだとわかった。
「――瀬尾くん、聞こえるか。事前に洗い出していた身元情報だ。妹は市立中央病院の三階、西病棟に入院中。主治医の名前まで確認が取れている」
早乙女は表情一つ変えず、その情報を即座に言葉へ変換する。
「呼ぶなら呼べばいい。だが、その前に一つ言っておこう。君の妹の入院先は、市立中央病院の三階、西病棟だ。主治医の名前まで必要か?」
「――っ! な、なぜそこまで……!」
男の顔から、完全に血の気が引いた。虚勢が音を立てて崩れていく。
「リーダーは、君の妹の情報を握っている。それを盾に、君を従わせているんだろう。だが、我々に協力すれば、君の妹の安全と、そして君の将来を保証しよう」
「そ、そんな話、信じられるわけが……」
「信じるかどうかは、君次第だ。ただ、このまま黙ってリーダーの言いなりになった先に、君と妹の未来があると、本気で思っているのか?」
畳みかけるような問いに、男は言葉を失った。銃口が、少しずつ下がっていく。
「我々をリーダーの元へ案内し、真の目的を自白するんだ。そうすれば君は、この偽装テロの犠牲者ではなく、真実を明らかにする証人になれる」
抵抗できないほどの心理的な重みに、男はとうとう銃を握る手を震わせた。
「わ、わかった……! 俺は……俺は!」
自白寸前。まさにその瞬間、早乙女の意識が急速に退いていく。冷徹さが剥がれ落ち、素の感情が一気に押し寄せてきた。
「ひ、ひえええ……! なんで、なんで私が、こんな人を説得してるのよ……! うう、もう、早く終われ!」
漏れたのは、男に向けた言葉ではなく、自分の置かれた状況に対する悲痛な叫びだった。しかしその声は、早乙女の冷徹な空気の余韻と相まって、大柄な男には「交渉を打ち切り、力で解決する」という非情な決断として伝わったらしい。男は恐怖で硬直した。
「美咲、聞いたか! 『早く終われ』! これは、彼女が極度のプレッシャーを、強い意志でねじ伏せている証拠だ! 瀬尾くんは、僕の予想を超えて、プレッシャーを跳ね返す強靭な精神力を獲得したんだ!」
インカム越しの柊先輩の声が、興奮気味に弾む。
「な、何を言っているんですか! あの場の空気と、あの非情な交渉術! あれが『強い意志』ですって!? ただの危険人物です!」
美咲先輩は、柊先輩が茜の非科学的で無謀な行動を、ことごとく「天才的」だと誤解し擁護する姿に、嫉妬とも苛立ちともつかない感情を募らせているようだった。それでも、交渉自体は成功していた。大柄な男は、早乙女の言葉に完全に屈し、協力を約束する。




