第6話:クレヨンの導線
「ほら、とっとと乗って!」
気を失っていた私は、柊先輩に抱えられるようにして特殊車両の後部座席に押し込まれた。目を覚ましたときには、もう車は発進していた。
美咲先輩の運転は、いつもよりずっと荒い。カーブのたびに車体が大きく揺れ、スピード制限の標識も見て見ぬふりをしているようだった。
「うっ……うぷっ……」
案の定、私はあっという間に車酔いの限界を迎えていた。体が左右に振られるたび、胃の中身がせり上がってくる。
――美咲先輩の運転、荒すぎるよぉ……! 憑依の反動より、これがキツイ……!
隣では、柊先輩が涼しい顔でタブレットを操作している。
「美咲。君の運転は相変わらず正確無比だな。この速度域でのG変化は身体への負担が大きいが、犯人に逃げられるよりは遥かにマシだ」
「……ええ、そうですね。褒められて光栄です」
美咲先輩は前を向いたまま、平坦な声でそう答えると、ほんの少しだけアクセルを踏み込んだ。柊先輩の的外れな賞賛が、逆に火に油を注いだらしい。
「ううう……は、吐きそう……」
「こんなところで吐くんじゃないわよ! 備品を汚したら、今度こそ許さないから!」
荒い運転と怒声に挟まれながら、私は完全に魂を抜かれたような状態で、どうにか目的地までを耐え抜いた。
◆
荒れた道を延々と走り、特殊車両は郊外の廃工場前で停まった。巨大な建屋がいくつも連なり、外壁には蔦が絡みつき、まるで迷宮のような威容を見せている。あちこちの窓ガラスは割れ、夜風が抜けるたびに、うめくような音を立てていた。
「内部構造のデータが古すぎる。増築や改築の記録が反映されていない」
柊先輩がタブレットを操作しながら、珍しく苛立ちを滲ませる。表示された図面は、灰色の線が入り組んだだけの、役に立たない骨格図だった。
「透視でも奥までは追いきれないわ。配管とコンテナが入り組みすぎてる」
美咲先輩も念動力で瓦礫をどかしながら、渋い顔で唸った。いつもなら数分で突破口を見つける二人が、揃って空回りしている。時間だけが刻々と過ぎていく。
「わ、私も何か……」
役に立ちたい一心で、崩れかけた壁の隙間を覗き込んでみるが、暗闇が広がるばかりで何も分からない。むしろ足元の瓦礫に気を取られ、また転びかけて柊先輩に支えられる始末だった。
「瀬尾くんは無理をしなくていい」
優しい声に、余計に情けなくなる。役立たずのまま突っ立っていることしかできない自分に、じわりと焦りがこみ上げてきた。
――迷路みたいな構造。鈴香さんは「空間を読む力を持った子」って言ってた。そうだ、あの人だ……!
車内で聞こえた、あの申し送りの声を思い出す。空間そのものを、まるごと自分の中に描き出せる人。
――お願い、力を貸して……!
名前を思い浮かべた瞬間、頭の芯がふわりと軽くなる感覚があった。
「……ああ、なんて、美しい、無秩序の空間なのでしょう」
優雅で、それでいてどこか狂気の滲む声が、私の口から漏れた。芸術家・楓、憑依完了。権藤の荒っぽさとも、辰巳の早口とも、鈴香の切れ味とも、まるで違う喋り方だった。
「……また、別人格。今度は、随分と口調が違うのね」
美咲先輩が眉間を揉みながら呟く。もう驚くより先に、疲れが滲んでいた。柊先輩は無言でタブレットに何か書き込んでいる。
「柊様、美咲様。わたくしは、この空間を描かせていただきます。五感を研ぎ澄ませ、この配管の曲線、コンテナの歪み――そのすべてを、素材として受け入れましょう」
「描く? 何を言っているの!?」
美咲先輩が眉をひそめる間にも、楓は腰に差していたASTRAの機密書類の束を、ためらいなく床に広げた。懐から取り出したクレヨンで、その裏面に、狂ったように複雑なスケッチを描き始める。
「な、何をしているの! それは機密文書よ!」
美咲先輩の悲鳴も意に介さず、楓は手を止めない。身体をわずかに揺らしながら、まるで廃墟全体を五感で味わうように、線を重ねていく。錆びた配管の曲線、崩れたコンクリートの陰影、蔦の這う軌跡――そのすべてが、クレヨンの先から次々と紙の上に写し取られていく。荒々しい建物の姿が、まるで一枚の絵画のように生まれ変わっていくのを、私はただ呆然と眺めていた。
「ご覧ください。この廃棄された冷却ダクトは、二重螺旋構造。最も速く、そして最もエモーショナルな侵入経路は、南側から二番目のコンテナを打ち砕き、その衝撃でダクトを歪ませるという、いささか暴力的な美を伴う一手でございます」
描かれた図面は、精巧な建築図面さながらに、廃墟の構造を正確に写し取っていた。しかもその一角には、暗号を解くヒントらしき紋様までもが、装飾のように描き込まれている。
「……すごい」
柊先輩が思わず呟く。「最新の衛星スキャンでも、ここまでの精度は出ない。しかも、この紋様……単なる装飾じゃない。暗号の論理構造を、視覚的に置き換えている。まるで、犯人の思考そのものをなぞっているみたいだ」
「そんなこと、機密文書を犠牲にしてまでやることですか!?」
美咲先輩がなおも食い下がるが、柊先輩は聞いていない様子で図面に見入っていた。
「柊先輩! 見てください、あの落書きのせいで国家機密が台無しです!」
「美咲。結果を見てくれ。これは落書きなんかじゃない」
柊先輩は汚れた図面を優しく丸めながら、静かに言った。
「時間がない。楓が示してくれたルートで、犯人を追おう」
美咲先輩は、憎しみとも呆れともつかない目で、いまだクレヨンを握りしめたままの私を睨みつけた。
「フフッ……この芸術は、この空間でしか生まれない……」
満足げに呟いた瞬間、楓の意識が退いていく。憑依が解けると、今度は身体的な疲労ではなく、奇妙な高揚感の反動が押し寄せてきた。
「あ……あぅ……! 汚しちゃった……えへへ、クレヨン、楽しい……」
自分の手を見つめ、幼い子どものように無邪気な声が漏れる。頭の芯がふわふわして、うまく力が入らない。手のひらに残ったクレヨンの色を、意味もなく指でなぞってしまう。
「ちょっと! いつまで遊んでいるの!」
美咲先輩の叫びが、廃墟に虚しく響いた。
「クレヨン遊びなんて、幼稚園児でもしないわ! 柊先輩、これが天才の姿だとでも言うんですか! 現場を破壊して、機密書類を汚して、あげく幼児退行!」
「美咲。結果を見てくれと言っただろう」
柊先輩は静かに、しかしきっぱりと言い切った。その声に、美咲先輩は唇を噛んで黙り込む。
「……行くぞ。時間がない」
美咲先輩は、燃えるような敵意を隠しもせず、特殊なバギー型移動機器を呼び出す。手荒くレバーを操作する仕草には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
「行くわよ。……次、あなたのせいで作戦が失敗したら、私、本気で柊先輩とのコンビ解消を上に願い出るから」
低く、しかしはっきりとした声だった。冗談には聞こえなかった。
――美咲先輩、本当は何を怒ってるんだろう。機密書類のこと? それとも、私自身のこと?
答えの出ない問いを抱えたまま、私はバギーの後部座席に乗り込んだ。廃墟の奥から吹き込む風は、やけに冷たかった。




