第32話:エージェントとして
足音が、すぐ近くまで迫ってくる。息を殺し、物陰でじっと気配を殺す。結衣の手が、私の腕をきつく掴んでいた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
――二人。巡回のパターンからして、恐らく定期見回り。今なら、まだ気づかれていない。
足音のリズム、間隔、歩幅。無意識に、そうした情報を拾い上げている自分に気づく。これも、訓練の成果なのだろうか。数ヶ月前の自分なら、ただ震えて縮こまっているだけだったはずなのに。
足音が通り過ぎるのを待ち、しばらく数えてから、私はゆっくりと結衣の背中を押した。
「今のうちに、反対方向へ」
「え、あっち行ったら、余計に奥に入っちゃうんじゃ……」
「大丈夫。さっき見た配管の位置から考えて、あっちに、多分、換気用の通路がある」
自分の口から、迷いのない言葉がすらすらと出てくることに、内心では誰よりも驚いていた。結衣を先導しながら、物音を立てないよう、壁際を選んで進む。曲がり角では、必ず一度止まって気配を確かめてから、体半分だけを出して確認する――そんな動きが、考えるより先に、体に染み付いていた。
「……ねえ、茜」
結衣が、囁くような声で切り出す。
「あんた、なんで、こんなことに慣れてるの? バイトって、事務作業してるだけなんじゃなかったの?」
核心を突く問いに、言葉に詰まる。曲がり角の先を確認しながら、なんとか言葉を絞り出した。
「そ、それは……色々、あって。事務だけじゃなくて、もう少し、現場に出ることも多くて」
「現場って、こんな廃墟に忍び込むこと? 探偵事務所の事務、想像してたのと全然違うんだけど」
半ば呆れたような声に、苦笑いが漏れる。
「私も、そう思う。でも、今度、ちゃんと話すから。今は、逃げることだけ考えよう」
苦しい誤魔化しだったけれど、結衣はそれ以上追及せず、黙って頷いてくれた。今は、それだけで十分だった。
換気用の通路に辿り着くと、格子状のカバーがボルトで固定されている。工具などない。だが、記憶の中に、似たような構造の外し方が蘇ってきた。以前、資料で見た換気設備の保守点検マニュアル。あの時はただの座学だと思っていた知識が、まさかこんな形で役に立つとは、思ってもいなかった。
――力任せじゃない。決まった角度で、決まった順番に力をかければ、外れるはず。
震える指で、記憶の通りに手順をなぞる。何度か失敗しながらも、やがて、かたん、とカバーが外れた。
「入って、結衣。狭いけど、我慢して」
結衣を先に通路へ押し込み、自分もその後に続く。埃っぽい暗闇の中を、這うようにして進んでいく。
「……すごいね、茜」
前を這う結衣が、小さく呟いた。
「何が?」
「いつものドジなあんたが、今は、誰よりも頼りになる。ちょっと、見直しちゃった」
思いがけない言葉に、涙腺が緩みそうになる。今は泣いている場合じゃないと、必死に堪えた。狭い通路を這いながら、それでも、結衣のその一言が、震える体を支える力になっていた。
通路の先に、微かな光が見えてくる。近づくにつれ、複数の怒声と、金属がぶつかり合う音が、はっきりと聞こえてきた。
「――離れて、結衣。ここから先は、危ないかもしれない」
慎重に通路の出口から様子を窺うと、そこは広い搬入口だった。数人の男たちを相手に、美咲先輩が念動力で瓦礫を弾き飛ばし、柊先輩が的確な指示を飛ばしながら戦っている。二人とも、服のあちこちが破れ、疲労の色が濃く滲んでいたが、まだ倒れてはいなかった。予想以上の激戦だったことが、その様子から伝わってくる。
「柊先輩! 美咲先輩!」
叫ぶと、二人が弾かれたようにこちらを振り向く。一瞬の隙をついて、男の一人が美咲先輩に殴りかかろうとするが、その動きは、既に見切られていた。
「瀬尾くん! 無事だったか!」
「結衣さんも、無事なのね!」
安堵の声とともに、美咲先輩が念動力で残る男たちを一気に薙ぎ払う。柊先輩が、崩れ落ちる敵の隙を突いて、最後の一人を取り押さえた。手際の良い連携は、疲労困憊のはずなのに、一切の乱れがなかった。
「装置は……外せるか?」
柊先輩が、駆け寄りながら首元の装置に手をかける。慎重に操作すると、やがて、かちりと音を立てて外れた。
とたんに、あの温かい気配が、堰を切ったように戻ってくる。七人分の存在が、確かにそこにあるのを感じて、思わず涙が溢れた。指先の震えが、恐怖からではなく、安堵から来るものに変わっていく。
「柊先輩、美咲先輩……! 良かった、本当に……!」
「君こそ、よく無事で。それに、自力で拘束を解いたのか。見事だ」
柊先輩の言葉に、少しだけ誇らしい気持ちが込み上げる。今回だけは、誰の力を借りたのでもない、自分自身の成果だった。
「詳しい話は後にしましょう。とにかく、応援を呼んで、ここを制圧するわ」
美咲先輩が、てきぱきと指示を出しながら、結衣の様子を気遣うように見やる。すぐさま無線に手を伸ばし、増援を要請する声が、頼もしく響いた。
「あなたも、災難だったわね。もう大丈夫よ」
ぶっきらぼうな口調ながらも、その言葉には確かな気遣いが滲んでいた。結衣は、まだ状況が飲み込めない様子で、ただ呆然と辺りを見回していたけれど、その目には、恐怖よりも、確かな安堵の色が浮かんでいた。
「後始末は、応援に任せよう。ひとまず、ここを出るぞ」
柊先輩の号令に、皆で頷き合う。長かった、憑依なき戦いが、ようやく終わりを迎えようとしていた。




