第31話:私の記憶
目を開けると、そこは薄暗いコンクリートの小部屋だった。手足は拘束され、首元には、まだあの装置がつけられたままになっている。頭がずきずきと痛み、視界の焦点がなかなか合わなかった。
「……結衣」
隣を見ると、同じように拘束された結衣が、ぐったりと目を閉じていた。制服のあちこちが乱れ、頬にはうっすらと擦り傷が見える。
「結衣! 結衣、しっかりして!」
必死に呼びかけると、結衣は薄っすらと目を開けた。焦点の合わない目が、ゆっくりとこちらを捉える。
「……茜? 何、これ……ここ、どこ?」
か細い声に、安堵と罪悪感が同時に込み上げてくる。
「ごめん、ごめんね、私のせいで……」
「謝るのは、後にして。今、動ける?」
意外にも、結衣の声はしっかりしていた。震える手で拘束具を外そうと試みるものの、憑依の力を封じられた体は、あまりにも無力だった。指先に力を込めても、金属の枷はびくともしない。爪の先が白くなるまで力んでも、無情な金属音が鳴るだけだった。
「くそ、外れない……」
「茜、落ち着いて。深呼吸して」
結衣の落ち着いた声に、我に返る。
――力を貸してもらえないなら、自分の頭で、なんとかするしかない。
震える手を止め、深呼吸をする。これまでの事件で、自分が見てきたもの、記憶してきたものを、一つずつ思い出していく。兵器の紋章、「T.」の筆跡、ナイト・アイのバッジ、人事記録の三つの名前、そして――閉ざされた館の廊下で見た、あの小さな欠片。
すべてが、頭の中で像を結んでいく。まるで、これまでバラバラに散らばっていたパズルのピースが、初めて一枚の絵として繋がっていくような感覚だった。
――ここは、あの時と同じ、組織の隠れ家の一つだ。廊下の構造、換気口の位置。前に、鈴香さんが読み解いた図面と、よく似ている。天井の高さ、壁の厚み、配管の走り方。すべてが、記憶の中の設計図と重なっていく。
「結衣、私たちが今いる場所、多分、分かった気がする」
「……なんで、そんなことまで、わかるの」
「説明は後で。今は、ここを出る方法を考えよう」
――そうだ。私だって、半人前でも、ちゃんとエージェントとして訓練を受けてきたんだ。誰かの力を借りなくたって、これまで見て、覚えてきたことが、きっと役に立つはず。
拘束具の構造を、目を凝らして観察する。単純な機械式のロック。ASTRAの基礎訓練で、こういった拘束具の解除方法を、座学で叩き込まれたことを思い出す。あの時は、正直、眠くて右から左に聞き流していたはずなのに、頭の中に、教官が見せた解除手順の映像が、驚くほど鮮明に蘇ってきた。
――それに、これ。前に、涼くんの拘束記録の写真で見た型と、同じだ。
資料室で目を通した、過去の事件記録。あの時、何気なく目に入っただけの写真の細部までもが、記憶の中にそのまま残っていた。ピンの位置、外すべき順番。専門知識としてではなく、ただ「見た」という記憶だけを頼りに、震える指を動かしていく。
「……よし」
かちり、と小さな音がして、拘束具が緩んだ。信じられない気持ちと、確かな達成感が、同時に胸を満たす。誰かに与えられた才能ではなく、自分自身の努力の積み重ねが、今、初めて実を結んだ瞬間だった。
「え、外れた……!?」
結衣が、驚いたように目を見開く。
「……色々あって、少しだけ、力の使い方を覚えたの。詳しくは、また今度話すから」
震える声で、そう誤魔化す。誰の力も借りていない。ただ、自分自身の記憶だけで、初めて何かを成し遂げた瞬間だった。手のひらに残る、拘束具の冷たい感触さえも、確かな実感として胸に刻まれる。
「結衣、あの夜、私たちは同じ場所にいたんだね。閉ざされた館で」
結衣は、はっとしたように息を呑んだ。
「……思い出したの?」
「まだ、全部じゃない。でも、あなたを守ろうとしていたことだけは、確かに覚えてる」
頭の奥で、朧げだった記憶が、少しずつ形を取り戻していく。幼い日、雨の匂いのする廊下で、怖がる結衣の手を握っていた自分。迷子になった結衣を見つけて、震える手をぎゅっと握りしめたこと。そして、暗闇の中から聞こえてきた、優しい声で包み込んでくれた、七人の気配。
(大丈夫。もう、独りにはさせない。)
耳の奥に、あの夜の声が、はっきりと蘇る。装置は、憑依という現象そのものは封じられても、あの夜結ばれた"絆"までは、消し去ることができなかったらしい。声そのものは聞こえなくても、その温もりの記憶だけは、確かに私の中に残っていた。
「結衣、大丈夫? 立てる?」
「……うん。何とか」
結衣は、震える足でなんとか立ち上がる。青ざめた顔をしながらも、その目には、はっきりとした意志が宿っていた。
「行こう。ここを出て、みんなを助けなきゃ」
拘束具を外した手で、今度は結衣の拘束具にも手をかける。先ほど記憶を頼りに解いた手順を、慎重になぞっていく。頼りは、自分の記憶だけ。それでも、初めて、誰かの力ではなく、自分自身の力で、道を切り開こうとしていた。
かちり、と小さな音がして、結衣の拘束具も外れる。
ドアに近づき、耳を澄ませる。廊下に人の気配はない。ノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった――監視カメラと拘束具さえあれば十分だと、油断していたのだろう。
「静かに。足音、立てないで」
小声で結衣に告げ、そっとドアを開ける。薄暗い廊下の先、非常口を示す緑色のランプが、遠くにぼんやりと灯っていた。
「あっちが、多分、外に繋がってる」
記憶の中の設計図と、目の前の景色を重ね合わせながら、慎重に足を進める。結衣が、震える手で、私の袖の端をぎゅっと掴んだ。
「怖いけど……茜と一緒なら、大丈夫な気がする」
小さく零された一言に、胸が熱くなる。今度は、私が結衣を守る番だった。
角を曲がった先、監視カメラの死角になっていそうな柱の陰を選びながら、二人で息を殺して進んでいく。非常口までは、あと少し。だが、その時、廊下の奥から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「――っ、隠れて!」
結衣の手を引き、咄嗟に物陰に身を潜める。心臓が、痛いくらいに早鐘を打っていた。誰の力も借りられないまま、この先を切り抜けられるのか――不安を抱えながらも、私はただ、息を潜めて、その時を待った。




