第30話:憑依なき戦い
黒木の拘束から、1週間が経った。体調はほぼ回復し、日常生活にも学校にも、少しずつ戻りつつある。だが、心の奥に居座る重さだけは、まだ消えずにいた。あの日、黒木が語った言葉の数々が、ふとした瞬間に頭をよぎっては、消えていく。結衣や桃香には、いつも通りの顔を作って接していたけれど、内心では、ずっと薄氷の上を歩いているような感覚が抜けなかった。
「本部から緊急連絡だ。ナイト・アイの残存勢力が、動き出した」
放課後、柊先輩からの呼び出しに応じて本部へ駆けつけると、そう告げられた。柊先輩の表情は、これまで見たどの時よりも険しい。デスクの上には、あの黒木の手帳や資料が、証拠品として整理されていた。
「残存勢力……。黒木さんが捕まったのに、まだ動いてるんですか」
「組織にとって、瀬尾くんは『生き証人』だ。黒木の自白内容、そして君自身の存在そのものが、組織の全容を暴く決定的な証拠になる。奴らは今、証拠隠滅に動いている」
美咲先輩の声には、緊張が滲んでいた。
「つまり……狙われているのは、私自身、ということですか」
背筋が冷たくなる。これまでの事件とは、明らかに質の違う恐怖だった。誰かを助けるためでも、任務を遂行するためでもなく、ただ、自分自身の存在が、消されようとしている。
「安全のため、しばらく本部で保護する。今夜は僕と美咲、それぞれ別の階で警備につく。何かあれば、すぐに駆けつけられる距離だ」
柊先輩の指示に頷きながらも、落ち着かない気分は拭えなかった。二人の実力を信頼していないわけではなかったけれど、組織の本気度を考えると、それでも一抹の不安が拭えなかった。
その夜、本部の一室で仮眠を取っていた時だった。窓の外で、微かな異音がした。目を覚ました瞬間、複数の人影が、音もなく部屋に踏み込んでくる。
「――っ!」
反射的に、力を借りようと意識を集中させかけた、その時だった。
「動くな」
侵入者の一人が、小型のモニターを突きつけてくる。映し出されていたのは、ちょうど今まさに、別の場所で結衣が取り押さえられている、生中継の映像だった。抵抗する結衣の姿に、恐怖で顔が歪む。
「余計な真似をすれば、この娘がどうなるか、わかっているな」
全身の血が、凍りついた。伸ばしかけた意識の手が、途中で止まる。指先の震えが、恐怖からなのか、怒りからなのか、自分でも分からなかった。
「柊先輩は……美咲先輩は、どうしたの!」
震える声で、それでも問い詰める。侵入者の一人が、面白がるように口の端を上げた。
「ああ、上の階の連中か? 今頃、こっちの本命部隊とやり合ってる頃だろうな」
「本命部隊……?」
「お前を確保するためだけに、これだけの人員を割いたと思うか? 奴らの相手には、別に精鋭を用意してある。通信も、もう妨害済みだ。助けは来ない」
男は、愉快そうに笑いながら、そう言い切った。
「そんな、二人は、ただの標的なんかじゃない……!」
「標的、ね。まあ、上の判断だ。あの二人は、お前を守ろうとする限り、無視できない障害になる。だったら、先に潰しておくのが道理だろう」
淡々と語られる作戦の全容に、寒気が背筋を這い上がる。すべてが、あまりにも計算し尽くされていた。
――嘘。柊先輩も美咲先輩も、簡単にやられるような人たちじゃない。
そう自分に言い聞かせても、恐怖は少しも和らがなかった。廊下の奥からは、争うような物音と、何かがぶつかり合う金属音が、絶え間なく響いてくる。
「賢い判断だ」
男は、満足げに頷くと、首元に冷たい金属の装置を取り付けてきた。手際の良さから、何度もこの作業に慣れているのが伝わってくる。
「念のため、これも起動させておこう」
低い声とともに、装置のスイッチが入る音がした。全身を、鈍い電流のようなものが駆け抜ける。だが、もう抵抗する気力すら、残っていなかった。
――お願い、誰か……!
必死に、いつものように意識を集中させる。だが、いつもなら感じられるはずの、あの温かい気配が、どこにも見当たらなかった。手足の先まで、鉛のように重く痺れている。物心ついてから、ずっと当たり前のようにそばにあった力が、今、跡形もなく消えていた。
「その装置は、憑依現象を強制的に遮断する。黒木様の研究の、最後の遺産だ。これで、お前はただの、無力な小娘だ」
侵入者の一人が、勝ち誇ったように囁いた。
「大人しくしていれば、痛い目には遭わせない」
侵入者の一人が、感情のこもらない声で言う。抵抗する術もないまま、体が担ぎ上げられ、廊下を運ばれていく。
「班長、対象の確保、完了しました」
無線から届いた確認の声に、たった今見た映像が、現実だったことを思い知らされる。
「――結衣を、狙ってたの……?」
掠れた声で問うと、担ぎ上げていた男が、面倒くさそうに答えた。
「あの夜の生き証人は、お前だけじゃない。あの女も、閉ざされた館で何かを見ていたはずだ。念のため、口を封じておく必要がある」
「結衣は、何も知らない! あの子を巻き込まないで!」
必死に訴えても、男は歩みを止めなかった。
「知っているかどうかは、こっちが判断することだ。それに、お前があの女を庇うということは、少なくとも何かしらの繋がりがある証拠だろう」
反論の余地もない、冷徹な理屈だった。自宅で一人でいたところを、踏み込まれたのだろう。せめて、いつも一緒にいる桃香が、今日は塾で家にいなかったことだけが、不幸中の幸いだった。
意識だけが、じわじわと霞んでいく。
――結衣まで、巻き込んじゃった。
自分一人の恐怖よりも、その事実の方が、はるかに重く胸にのしかかった。
窓の外に広がる夜景が、どんどん遠ざかっていく。連れ去られる先に、何が待っているのか。まるで見当もつかないまま、私はただ、暗闇の中に取り残されていった。




