第29話:積み上げてきたもの
目を覚ますと、そこはASTRA本部の医務室だった。真っ白な天井が、やけにまぶしい。点滴のチューブが腕に繋がれ、規則的な機械音だけが、静かな部屋に響いていた。
「……気がついたか」
柊先輩が、ベッドの脇の椅子に座ったまま、静かに声をかけてくる。目の下には、濃い隈ができていた。着替えた形跡もなく、ずっとここに詰めていたことが窺えた。
「私……」
「丸二日、眠っていた。憑依の連続使用による、極度の消耗だそうだ。医師には、しばらく安静にするよう言われている」
体を起こそうとすると、まだ節々が鈍く痛んだ。喉もからからに渇いている。柊先輩が、無言のまま水の入ったコップを差し出してくれた。ゆっくりと飲み干すと、ようやく頭の中の霧が晴れていく感覚があった。
「黒木は、どうなったんですか」
「拘束された。組織的な関与も含め、上層部が徹底的に調査している。……君を巻き込んでいたことも、含めて。あの施設で保護された被験者たちも、順次、適切な治療とケアを受けているそうだ」
その言葉に、少しだけ胸を撫で下ろす。せめて、あの培養槽の中で苦しんでいた人たちが、これ以上傷つかずに済むなら。
柊先輩は、膝の上に置いていた手帳を、ゆっくりと開いた。ページの至る所に、これまでの事件の断片が、線で繋がれている。渦巻きの紋章、「T.」の筆跡、ナイト・アイの名――すべてが、一つの図として整理されていた。何度も書き直された跡が、紙の上に幾重にも重なっている。
「僕は、ずっと間違えていた。君を『深層意識下の多角的天才』だと信じることで、目の前で起きている現象を、都合よく説明しようとしていたんだ」
柊先輩は、そこで一度言葉を切り、何かを確かめるように、私の顔をじっと見つめた。
「黒木は、はっきりと言っていた。『憑依現象』と。あれは、比喩でも、彼なりの言い回しでもない。文字通りの意味で言っていたはずだ。……君の中にいるのは、人格じゃない。文字通り、誰かが――」
言いかけて、柊先輩は自分でも整理がつかないというように、一度言葉を止めた。信じがたい、という表情と、それでも目の前の現実を無視できない、という表情がせめぎ合っている。
「本当は、そんな仮説なんて、必要なかったのかもしれない」
心臓が、大きく音を立てた。ついに、核心に触れられてしまった。何と答えればいいのか、言葉が出てこない。
「……ごめん、今は、まだ、うまく言葉にできない。ただ、今までの仮説が、根本から間違っていたことだけは、確かだと思う」
柊先輩は、そう言うと、それ以上は追及せず、静かに話題を切り替えた。
「僕は、子供の頃から、結果を出すことでしか、認めてもらえなかった。テストの点数、大会の成績、実績。数字にならないものは、誰も評価してくれなかった。だから、君のことも、無意識に、『何かを証明する存在』として見ていたのかもしれない」
初めて聞く、柊先輩の過去だった。いつも自信に満ちて見えたその横顔の裏に、そんな痛みがあったなんて、想像もしていなかった。ずっと完璧に見えていた人が、実はずっと、誰かに認められたくてもがいていたのだと知って、不思議と、彼のことがより身近に感じられた。
柊先輩は、手帳のページを一枚、また一枚とめくりながら、独り言のように続けた。
「学生時代、感銘を受けた論文があった。その著者を、密かに追い続けていた。そうしているうちに、ある未解決事件の記録に辿り着いて……そこで、君の存在を知った」
その言葉に、心臓が跳ねる。だが、今はまだ、その先を深く聞く余裕がなかった。柊先輩自身も、それ以上は語ろうとせず、静かに手帳を閉じた。
「本当にごめん。君を、一人の人間としてじゃなく、仮説の対象として見ていた瞬間が、確かにあった」
震える声で紡がれる謝罪に、胸が締め付けられる。
「……ありがとうございます。話してくれて」
それだけ言うのが、精一杯だった。
扉が開き、美咲先輩が顔を出す。
「起きたのね」
いつも通りの、素っ気ない声。だが、その手には、何か書類の束が握られていた。ノックもせずに入ってきた割に、視線はどこか落ち着かなげに泳いでいる。
「……『憑依現象』、だったわね。あの男が言ってたこと」
前置きもなく、美咲先輩がぽつりと呟いた。心臓が跳ねる。
「ずっと、変だと思ってた。あの荒っぽい動きをする誰かが見せる体術が、昔、道場で世話になった先輩に、あまりにもよく似ていたから。多重人格なんかじゃ、説明がつかないくらいに」
その言葉に、今度こそ、逃げ場がなくなった。美咲先輩は、それ以上追及するでもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
「今は、何も聞かない。あなたが、話したくなった時でいい」
思いがけない気遣いに、目頭が熱くなる。
「上層部の聴取が入るらしいわ。あなたの規格外の行動について、色々と追及してくる連中がいる」
「え……」
不安が、一気に押し寄せてくる。ベッドの上で身を縮めた私に、美咲先輩は、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「大丈夫」
美咲先輩は、きっぱりと言い切った。
「私が、全部説明してきた。結果を出したのは事実。方法に文句をつけるなら、まず現場に出てから言え、って。上に啖呵切ってやったから」
思いがけない言葉に、目を見開く。普段の美咲先輩からは想像もつかない、真っ向からの啖呵だった。
「な、なんで、そこまで……」
「別に。ただ、あなたを、これ以上、誰かの都合のいい駒みたいに扱わせたくなかっただけ」
そっぽを向きながらも、美咲先輩はベッドの脇に、書類をそっと置いた。手つきは、いつになく丁寧だった。
「……ありがとう、ございます」
「礼はいらない。それより、さっさと元気になりなさい。あなたがいないと、現場が回らなくて困るんだから」
ぶっきらぼうなその言葉の奥に、確かな温かさが滲んでいた。
美咲先輩が病室を出ていった後、柊先輩が、置かれた書類にちらりと目をやった。その表情には、驚きと、どこか安堵に似た色が浮かんでいた。
「美咲が、あそこまで君を庇うとはな。……僕も、見習わないと」
その呟きに、少しだけ、頬が緩む。二人の間に流れる空気が、これまでとは少し違って感じられた。
「柊先輩、私の昇格申請、あれからどうなったんですか」
尋ねると、柊先輩は一瞬、気まずそうに視線を逸らした。何かを言いかけては、また飲み込むような、そんな仕草だった。
「……近いうちに、必ず通す。約束する」
その言い方に、微かな含みを感じたけれど、深く追及する気力は、まだ湧いてこなかった。
窓の外には、静かな夕暮れが広がっている。長かった事件7が、ようやく終わりを迎えようとしていた。だが、この事件を通して見えてきたものの重さは、まだ、私の中で消化しきれずにいた。柊先輩の過去、美咲先輩の不器用な優しさ、そして黒木という男が語った、あまりにも歪んだ執着。すべてを飲み込むには、もう少しだけ、時間が必要だった。




