第28話:すべての糸
奥の扉の前で、柊先輩が足を止めた。
「待ってくれ。突入する前に、確認しておきたいことがある」
柊先輩は、これまで集めてきたデータを、タブレットに並べて表示した。管理者権限のアクセスログ、案件発生率の偏り、そして施設の設計思想。疲労で朦朧とする頭を、なんとか奮い立たせる。
――今度こそ、証拠を突き合わせて、この黒幕の正体を確定させる力が要る……!
――辰巳さん、鈴香さん、楓さん。お願いします。
三つの意識が、目まぐるしく切り替わっていく。まず辰巳が、アクセスログの権限階層を洗い出す。
「このシステムへの継続的なアクセス権限は、支部長クラス以上でなければ付与されえない。候補は、極めて限られる」
続けて鈴香が、行動パターンを重ね合わせる。
「案件の発生時期と、上層部の人事異動、出張記録を照合すると、すべての事件の直前に、決まって同一人物の予定が動いている」
最後に楓が、施設の設計思想を見つめながら、静かに呟いた。
「この配置、この美意識……かつて、現場上がりの叩き上げだと語っていた、あの人の考え方に、驚くほどよく似ておりますわ」
三人分の推論が、一点に収束していく。
「――黒木支部長」
その名前を、私は、震える声で口にした。
柊先輩の顔から、血の気が引いていく。
「まさか……いや、しかし、条件のすべてが、彼一人に当てはまる」
「あの穏やかな笑顔の裏で……」
美咲先輩も、絶句していた。かつて優しく声をかけてくれた、あの上司の顔が、まるで違うものに見えてくる。
「行きましょう。確かめなければ」
扉を開けると、そこは他の区画とは一線を画す、静謐な空間だった。壁一面に、これまでの事件の記録――兵器の設計図、オカルト・パズルの写真、偽装テロの新聞記事――が、几帳面に貼り出されている。その中央、椅子に腰掛けていたのは、あの穏やかな笑顔の主だった。
「――ようこそ。ずいぶんと、時間がかかりましたね」
いつもと変わらない、柔和な声だった。だが、その奥には、これまで一度も見せたことのない、底冷えのする響きが滲んでいた。
「支部長……あなたが……」
「ええ。すべて、私が指揮しました」
黒木は、悪びれる様子もなく頷いた。
「あなたの目的を聞かせてもらおうか。この施設、そして、私たちのチームへの異常な案件の集中。すべて、あなたの差し金ね」
鈴香が、壁に貼られた記録を指し示しながら、静かに切り込む。
「その通り。ASTRA内部で築いた地位を使い、あなた方のチームへ、意図的に案件を集中させました。目的は一つ――瀬尾茜、あなたの観察です」
黒木の視線が、まっすぐこちらへ向く。
「培養槽の中身を、ご覧になったでしょう。私たちは長年、人為的に憑依現象を誘発しようと試みてきた。だが、ことごとく失敗した。あなたは、違う。自然に、完璧な形で、七つの人格を制御している。私たちが何十年も辿り着けなかった、唯一の成功例だ」
背筋が凍りついた。
「事件一つ目から、すべて、私が仕組んだことです。兵器の欠陥情報のリーク、オカルト・パズルの設置、偽装テロへの資金提供、そしてこの施設に至るまで」
淡々と続く告白に、これまで積み上げてきたすべての違和感が、腑に落ちていく。
「――エリカさん、この男の正体を、最後まで暴いてください」
意識が切り替わる。優雅な視線が、黒木の顔をまじまじと見つめた。
「……あら。どこかで、お会いしたことがございますわね」
かつて追っていた、政治家の汚職人脈。その中心にいた顔。そして、早乙女が、かつて救えなかった、あの少年の面影。
「あなた、確か……結局、私も、あなたを救えなかった」
「辰巳の研究を奪い、鈴香が追っていた事件をもみ消し、楓が告発しようとした施設を隠蔽した。すべて、私が」
淡々と語られる自白の一つ一つが、まるで刃のように突き刺さる。辰巳が学生時代に打ち込んだ研究、鈴香が命を賭して追った事件、楓が命がけで告発しようとした施設の異常。三人分の無念が、まとめて一気に押し寄せてくる。
「踏みにじった、とは思っていません。彼らの犠牲があったからこそ、あなたという結晶に辿り着けた」
「あなたは、これで満足なんですか」
柊先輩が、押し殺した怒りを滲ませながら詰め寄る。
「満足はしていませんよ。あわよくば、あなたという結晶を"応用"するところまで、見届けたかった。ですが、まあ、十分なデータは取れました。組織の悲願のためなら、私はどんな手段も厭いません」
その言い草に、部屋の空気が凍りついた。
――許せない。
震える拳を握りしめる。何か言葉を発しようと、口を開きかけたその時――
「――ふざけないでよ!」
私よりも早く、美咲先輩が前に出ていた。振り抜かれた拳が、迷いのない速さで黒木の頬に叩き込まれる。
――ガッ!
鈍い音とともに、黒木の体が大きく吹き飛び、壁際まで転がっていった。権藤が見たら、惚れ惚れするような、綺麗な右ストレートだった。
「涼くんのことも、桐生のことも、全部、実験の一部だったってわけ? ふざけるのも、いい加減にしなさい」
「み、美咲、落ち着いて――」
柊先輩が慌てて駆け寄る。だが、崩れ落ちた黒木のもとに辿り着いた時には、既に白目を剥いて完全に気を失っていた。
「……もう、意識ないぞ、これ」
拍子抜けしたような柊先輩の呟きが、静まり返った部屋に響く。張り詰めていた緊張が、その一言で、少しだけ緩んだ気がした。
その光景を見届けると同時に、積み重なった衝撃と、連続する憑依の反動が、私の限界を超えた。視界が真っ白に染まり、全身から力が抜けていく。
「瀬尾くん!」
「しっかりして、茜っ!」
二人の声が、次第に遠ざかっていく。頽れる体を、誰かが受け止めてくれる感触だけを最後に、私の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。




