第27話:兵器化研究施設
人質の救出は、無事に完了した。震える職員たちを実行部隊に引き渡し、ひとまずの安堵が広がる。だが、まだ事件は終わっていなかった。全身に残る強い疲労感と、まだ拭えない違和感が、休む間もなく私を急き立てていた。何度も憑依を切り替え続けたせいで、指先の感覚すら、まだ少し鈍いままだった。
「あの奇妙な扉の先、確認する必要がある」
柊先輩の声は、いつになく硬かった。疲労困憊の体を引きずりながら、私たちは渦巻き紋様の刻まれた扉の前に立つ。近くで見ると、紋様の彫りは驚くほど精緻で、まるで意図的に施された装飾のようだった。
「開けます」
美咲先輩が念動力で施錠機構をこじ開けると、中には、これまでとは異質な光景が広がっていた。無数のケーブルに繋がれた実験台、壁一面に並ぶモニター、そして――培養槽のようなものの中に沈められた、いくつもの生体反応。低い機械音が、部屋全体に不気味に響いている。
「これは……」
言葉を失う私の隣で、柊先輩が険しい顔で機器を見回す。美咲先輩も、珍しく声を失っていた。
「培養槽の中の人たち……まだ、息はあるんでしょうか」
震える声で尋ねると、柊先輩は無言のまま、慎重にモニターの数値を確認した。
「……微弱だが、生命反応はある。だが、詳しい状態までは、この場ではわからない」
その返答に、わずかな安堵と、それ以上の恐怖が同時に押し寄せてきた。
――このシステムの正体を、正確に解析する力が要る……!
――辰巳さん、お願いします。
すっと意識が切り替わる。科学者・辰巳、憑依完了。研究者としての冷静な視線が、部屋中の機器を一つ一つ検分していく。
「……なるほど。これは、能力者の脳波パターンを、人工的に増幅・固定化するための装置だ。培養槽の中身は、恐らく実験の犠牲者だろう」
モニターに映し出された無数の数値とグラフを、辰巳は瞬時に読み解いていく。専門知識のない私には、ただの記号の羅列にしか見えないものが、彼の目にはまるで一冊の本のように映っているようだった。
辰巳は、機器の配線を目で追いながら、淡々と分析を続けた。指先が、まるで見えない設計図をなぞるように、宙を滑る。
「目的は明白だ。能力者を、感情も意思も持たない、純粋な『兵器』へと作り変える。この施設は、そのための研究拠点だ。桐生のような人間が個人の裁量で行っていた『管理』の、行き着く先がここにある」
背筋が凍りつく。涼のような立場の能力者たちが、ここでは、もっと恐ろしい形で「道具」にされようとしていたのだ。美咲先輩の拳が、知らず知らず固く握りしめられているのが見えた。
「柊先輩、これは、私たちが所属する組織そのものが……いえ、その一部が関わっているということですよね」
声を絞り出すように尋ねると、柊先輩は苦い表情で頷いた。組織そのものへの疑念を、これほどはっきりと口にしたのは初めてのことだった。
「上層部の一部が、この施設の存在を黙認、あるいは加担していた可能性は否定できない。だが今は、目の前の犠牲者を救うことだけを考えよう」
その言葉に、なんとか気持ちを立て直す。今はまだ、考えるべきことが多すぎた。
「もう一つ、気になることがある」
辰巳が、モニターの片隅に表示されたログを指差す。
「このシステムへの最終アクセス履歴だ。単一の管理者権限アカウントから、継続的にログインされている。しかも、直近のアクセスは、つい数時間前だ」
「つまり、今この瞬間も、この施設の奥に、システムを管理している誰かがいる、ということですか」
背筋が、また一段と冷たくなる。実行犯たちが口にしていた「リーダー」と、この管理者権限の持ち主が、同一人物である可能性が高い。
「施設全体の構造を、正確に把握しないと、まだ隠された部屋があるかもしれない」
柊先輩の指示に、辰巳の意識が退いていく。反動で崩れ落ちそうになる体を、なんとか支えながら、次の力を呼び出した。
――今度は、この空間全体を、正確に読み解く力が要る……!
芸術家・楓、憑依完了。
「……この設計思想……」
いつもの優雅な口調が、微かに揺らいだ。楓は、壁や柱の配置を見つめながら、震える指先でスケッチを描き始める。線を引く手が、何度も止まりかけては、それでも意志の力で動き続けていた。
「まさか、こんな形で再会するとは、思いもよりませんでしたわ」
独り言のような呟きに、私は思わず耳を澄ませた。
「柊様、これは?」
問いかけても、楓はそれ以上語ろうとしなかった。ただ黙々と、正確な構造図を描き続けていく。培養槽の配置、隠された通路、そしてもう一つ奥にある、明らかに新しい区画。描かれた図面の端に、無意識のように、あの渦巻き紋様までもが書き加えられていた。
指先から伝わる筆致には、単なる観察を超えた、どこか痛みを堪えるような重さが滲んでいる。まるで、古い傷跡をなぞり直しているかのようだった。
「奥に、もう一部屋あります。恐らく、そこが最深部でございましょう」
「よし、進もう」
柊先輩は手帳を取り出し、辰巳と楓、二人分の解析結果を書き留めようとした。だが、そのペン先が、今日はいつも以上に震えていた。整然としていたはずの文字が、初めて、はっきりと乱れて紙面に散らばる。何度も書き直そうとしては、また同じように文字が崩れていく。ページの隅には、意味を成さない線が、いくつも重ねて書き殴られていた。
「……柊先輩?」
「……何でもない。急ごう」
短くそう言いかけて、しかし柊先輩は途中で言葉を止めた。タブレットに表示された、何かのグラフを見つめたまま、動きを止めている。
「柊先輩?」
「……ちょっと待ってくれ。今、管理者権限のログを追っていて、ついでに調べたんだが」
柊先輩の声が、これまでとは違う、戦慄を帯びたものに変わっていた。
「ASTRAには、僕らの他にも複数の支部がある。だが、直近半年間の特殊事象発生件数を比較すると、僕らの管轄エリアだけが、統計的にありえない頻度で突出している。しかも――」
タブレットの画面を、こちらに向ける。折れ線グラフが、ある一点から急角度で跳ね上がっていた。
「この急増が始まった時期は、瀬尾くんが見習いとして加入した時期と、ほぼ完全に一致する」
血の気が引く。偶然にしては、あまりにも出来すぎていた。
「急ごう」
短くそう言うと、柊先輩は手帳を閉じ、先を促した。その横顔に浮かんでいたのは、これまで見たことのない、深い戸惑いの色だった。まるで、積み上げてきた仮説そのものが、足元から崩れ始めているような、そんな不安定さが滲んでいる。
奥にあるというもう一つの区画へ、私たちは無言のまま足を進めた。楓の反動で崩れ落ちそうになる体を、美咲先輩がそっと支えてくれる。誰も何も言わないまま、緊張だけが、じわじわと空気を満たしていった。
扉の向こうに、一体何が待っているのか。積み重なってきた手がかりのすべてが、その先に集約されようとしている――そんな予感だけが、確信に近い重さで、胸の奥にのしかかっていた。冷たい金属の扉に手をかけながら、私は小さく息を整えた。
この扉の向こうに、実行犯たちが口にしていた「リーダー」がいる。そして恐らく、この施設のシステムを、今この瞬間も管理し続けている、その人物も。




