第25話:占拠
制服のポケットで震え続けた端末を握りしめたまま、私は本部までの道を全力で駆けた。息が上がり、心臓が痛いほど脈打っている。最上位の警戒レベルが発令されたのは、見習いになってから初めてのことだった。
コマンドセンターに駆け込むと、既に緊迫した空気が満ちていた。柊先輩の表情は、これまで見たことがないほど硬い。壁一面のモニターには、無数の警報ログが流れ続けている。
「ASTRAの第二研究施設が、武装した何者かに占拠された。人質は、非番だった職員十二名。要求は、まだ不明」
モニターに映し出された施設の見取り図には、赤く点滅する複数の警告表示が浮かんでいた。緊急招集された他のエージェントたちも、慌ただしく行き交っている。普段は冷静な先輩エージェントたちの顔にも、隠しきれない緊張が滲んでいた。
こういった立てこもり事案では、私たちエージェントの役割は、交渉と偵察、そして特殊な状況への対応に限られる。実際の制圧や身柄の確保は、専門の実行部隊が担う。今は、実行部隊が突入のタイミングを見計らいながら、施設周辺で待機を続けているはずだった。
「相手の正体は?」
美咲先輩の問いに、柊先輩は硬い表情のまま首を振る。装備を素早く確認しながらも、その手つきにはいつもの正確さが宿っていた。
「不明だ。ただ、通信を傍受した内容の中に、一つ気になる単語があった」
再生された音声が、スピーカーから流れる。くぐもった男の声だった。
「――『ナイト・アイ』の名の下に、我々は正当なる回収作業を行う」
その名を聞いた瞬間、コマンドセンターの空気が一変した。
「あの偽装テロ事件と、同じ組織名だわ」
美咲先輩が、真っ先に声を上げる。柊先輩も険しい表情で頷いた。
「間違いない。あの時のテロリストが名乗っていたのと、完全に一致する」
三人とも、あの事件を鮮明に覚えている。単なる偽名や虚勢だと思っていた組織名が、時を経て、また牙を剥いた。頭の中で、あの時見た紋章の記憶が蘇る。暴走したハイテク兵器に刻まれていた渦巻き紋章と、あのテロリストたちのバッジに刻まれていたのと、同じ意匠。散り散りだったはずの断片が、私の中でだけ、もう一段深く繋がろうとしていた。
「単なる偽装工作の隠れ蓑にしては、二度も同じ名前を使うのは妙だ。実在する組織である可能性が高い」
柊先輩は、タブレットに素早くメモを取りながら、険しい顔で呟いた。
「詳細は後だ。今は人質の救出が最優先。施設内部との交渉ルートを確保する」
柊先輩の指示は、いつも以上に張り詰めていた。美咲先輩も、いつになく真剣な面持ちで頷く。
「私は周辺の警備を突破します。柊は内部データの解析を」
「頼む。瀬尾くんは、僕と一緒に来てくれ」
三人それぞれの役割を確認し合い、私たちは特殊車両に乗り込んだ。車内では誰も口を利かず、ただエンジン音だけが響いていた。
現場に到着すると、施設は完全に封鎖され、周囲をASTRAの部隊が包囲していた。だが、迂闊に突入すれば、人質の命が危険に晒される。美咲先輩は、透視能力で内部の様子を探りながら、厳しい表情で唸った。
「内部の映像は取れるけど、人質と犯人の位置関係が入り組んでる。強行突破は、リスクが高すぎるわ」
「内部との回線が繋がった。相手方が、直接の対話を要求している」
柊先輩が差し出した通信機を、震える手で受け取る。
――ここは、下手な小細工が通じる相手じゃない。冷静に、相手の弱点を探る力が要る……!
――早乙女さん、お願いします。
すっと意識が澄んでいく。交渉人・早乙女、憑依完了。
「――こちら、対応窓口の者だ。要求を聞かせてもらおうか」
冷静な声で、通信の向こうに呼びかける。相手は一瞬の沈黙の後、くぐもった声で応じた。
「要求はシンプルだ。この施設に保管されている、ある研究資料の引き渡し。応じなければ、一時間おきに、人質を一人ずつ処分する」
「その研究資料が、具体的に何なのか、まずは教えてもらおうか。こちらも、応じられるかどうかの判断材料が必要だ」
早乙女は、動じることなく淡々と切り返す。だが、通信の向こうの声色に、早乙女は微かな違和感を覚えているようだった。単なる物取りにしては、あまりにも要求が的確すぎる。まるで、施設の内部構造を知り尽くした者の口ぶりだった。
「妙だな。君たちは、末端の実行部隊にしては、随分と落ち着いている。誰の指示で動いている?」
かまをかけるように、早乙女が問いを重ねる。通信の向こうで、一瞬だけ息を呑む気配がした。
「――俺たちは、命令に従っているだけだ。上の意向には逆らえない」
「上、というのは?」
「教える義理はない。一時間だ。それまでに、決断しろ」
一方的に通信が切れる。張り詰めた沈黙が、コマンドセンターを支配した。
「今の言い方……この男の後ろに、まだ指示を出している何者かがいる、ということですよね」
早乙女の意識が退いた後、震える声で呟く。柊先輩は険しい顔で頷いた。
「間違いない。この施設を占拠する計画そのものが、末端の判断でできるレベルじゃない。誰かが、全体を統括している」
柊先輩は、タブレットに何かを書き込みながら、独り言のように付け加えた。
「これだけの規模の計画を実行できるのは、少なくとも支部長クラスの権限を持つ人間だ。人事、予算、極秘資料へのアクセス――そのすべてを動かせる立場にいないと、不可能だ」
その言葉に、ふと、あの穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。まさか、とすぐに打ち消したけれど、小さな違和感だけが、胸の奥に残った。
「柊先輩、あの資料室には、何が保管されているんですか」
震える声で尋ねると、柊先輩は、一瞬だけ言い淀んでから、重い口を開いた。
「……能力者の脳波と、幽霊憑依現象に関する、初期の研究データだ。ASTRA発足当初、まだ体系化されていなかった頃の、極めて古い記録らしい」
その言葉に、背筋が凍りついた。
――幽霊憑依現象。それって、まさか。
考えたくない可能性が、頭の隅をよぎる。もし、あの研究データの中に、自分自身に関わる何かが記されていたら。震える指先を、誰にも気づかれないよう、そっと握りしめた。
「柊先輩は、その資料の存在を、前から知ってたんですか」
思わず尋ねると、柊先輩は一瞬、迷うような表情を見せた。
「……存在自体は、記録として知っていた。だが、内容までは、僕も見たことがない。上層部の機密指定が、あまりにも厳重すぎて」
その返答に、微かな違和感を覚える。存在を知っていながら、なぜ、内容を確認しようとしなかったのだろう。深く考える余裕はなかったけれど、小さな棘のように、その疑問だけが胸に残った。
「美咲、実行部隊との連携役を頼む。彼らが突入するタイミングの判断材料を、透視で集めてほしい。瀬尾くんは、僕と一緒に、通信を継続してくれ」
「了解」
美咲先輩は短く答えると、装備を整え直し、駆け出していく。その背中を見送りながら、私は改めて、通信機を握りしめた。
「一時間しかない。急ぐぞ」
柊先輩の声に、私は小さく頷くことしかできなかった。刻一刻と迫るタイムリミットの中で、これから何が明らかになるのか、まだ誰にも分からないままだった。




