第22話:虚像が仕掛ける罠
館の奥へ進むにつれ、美咲先輩の予知の断片と一致する光景が、次々と目に入るようになった。割れた鏡、床に飛び散った赤黒い染みのようなもの。幸い、まだ人の姿はない。だが、空気の重さだけが、着実に増していく。
「時間との勝負ね。犯行が起きる前に、この館の構造と、狙われている人物を特定しないと」
美咲先輩の透視も、複雑に入り組んだ館の構造の前では、限界があるようだった。何度も同じ廊下に迷い込みかけ、苛立ちを隠せない様子で舌打ちする。
――こういう時こそ、楓さんの力を……! お願いします!
意識の奥から、優雅で少し浮世離れした気配が滑り込んでくる。芸術家・楓、憑依完了。
「……ああ、この館は、悲しみに満ちた芸術品でございますね」
楓は目を細め、廊下の壁を指先でなぞる。頬を涙が伝っているのに、その口元は、うっとりとした笑みを浮かべていた。
「かつてここで行われた、名も無き実験の残滓が、壁の染みという形で、今も館そのものに刻まれておりますわ。そして、この配置――模倣犯は、過去の事件の再現に、異様なまでの執着を見せておりますの。狙われているのは、恐らく、この館の管理を任されている、若い研究員」
楓が壁に描き出した館の見取り図には、赤い印で、危険な一室が示されていた。線の一本一本が、まるで血管のように、館全体の構造を克明に写し取っている。
「行きましょう。時間がありません」
だが、駆けつけた部屋の前には、既に鍵がかけられ、内側から何かを積み上げたような気配がする。力尽くで突破すれば、中の人質が危険に晒されかねない。
「中の状況が読めないと、下手には動けないわ」
美咲先輩が扉に耳を寄せながら、苦い顔をする。
――構造は分かった。次は、あの部屋の中で何が起きているか、正確に知る力が要る……!
意識がすっと切り替わる。科学者・辰巳、憑依完了。
辰巳は懐から取り出した小型のセンサーを扉に押し当て、目を閉じて集中する。
「……音の反響と振動パターンから解析するに、室内には2人。一人は椅子に固定され、動きが制限されている。もう一人は、扉付近を頻繁に往復――神経質な足音だ。それに、この振動数は、書棚を積み上げて即席のバリケードを作った際の特徴と一致する」
「バリケードの組み方まで分かるの!?」
美咲先輩が驚きに目を見張る。辰巳は表情も変えず、淡々とデータを読み上げ続けた。
「加えて、床に落ちた金属片の反響音から、凶器はナイフ状のもの一本。今のところ、人質に直接的な危害を加えた形跡はない」
得られた情報を頭の中で整理し終えると、辰巳の意識は静かに退いていく。
――力じゃない。今、この裏付けを使って、相手を油断させる、演技の力が要る……!
すっと意識が切り替わる。女優・エリカ、憑依完了。
扉の外から、エリカは芝居がかった声を張り上げた。柊先輩と美咲先輩は、少し離れた場所で息を潜め、成り行きを見守っている。
「あら、残念ですこと。この程度の仕掛けで、ASTRAの人間を足止めできるとお思い?」
内側で、微かに息を呑む気配がした。エリカはさらに、扉に軽くノックするような仕草をしながら、余裕たっぷりに続ける。
「書棚を積み上げただけのバリケード、椅子に固定された一人、そして落ち着きなく扉の前を往復するあなたの足音まで、もう全部、こちら側には筒抜けでございますのよ。ナイフを一本、まだ握りしめていらっしゃいますわね? そんな粗末な道具一本で、この状況をどう乗り切るおつもり?」
わざと大げさに、確信ありげに語る。中の人物が、動揺したように何かを引きずる音が聞こえた。物が倒れる音、荒い息遣い。追い詰められていく気配が、扉越しにもはっきりと伝わってくる。
「くそ……! もう嗅ぎつけられてるのか……! こんなはずじゃ……!」
焦った声とともに、鍵が乱暴に外される。扉が開いた瞬間、模倣犯の男は、隠していたはずの凶器を取り落とし、その場に立ち尽くしていた。青ざめた顔には、追い詰められた者特有の、力ない諦めが浮かんでいる。
「まあ、ご丁寧に、自らお出迎えいただけるとは」
エリカが優雅に微笑む。裏付けのある情報を、確信ありげな態度で畳みかける――その心理的な重圧そのものが、相手の判断を狂わせ、墓穴を掘らせた瞬間だった。皮肉なことに、これまで積み重ねてきた「得体の知れない天才」という誤解の空気が、初めて、事件解決に直接役立っていた。
駆けつけた美咲先輩が、手早く男を拘束する。柊先輩は、呆気に取られたような顔で、成り行きを見つめていた。
「……心理的な揺さぶりだけで、自白させたのか。これは、想定していなかった戦略だ」
「瀬尾くんの引き出しは、本当に底が見えないな」
柊先輩の呟きに、いつもの高揚と、ほんの少しの戸惑いが同居しているのが伝わってくる。
「……あんた、毎回毎回、都合よく人格が切り替わるわよね」
拘束を終えた美咲先輩が、こちらに近づきながら、呆れたように呟いた。
「べ、別に、都合よくなんて……」
「まあ、今回は、正直、助かったけど」
素っ気なくそう付け加える口調は、否定しているようで、どこか認めてもいるようだった。
――あれ、これ、前にも見た反応だ。
涼の一件で見せた、あの複雑な横顔と、どこか重なる。拒絶しているように見えて、本当は違う何かが、その奥にあるのかもしれない。そんな気がした。
人質にされかけていた研究員は、震えながらも無事だった。保護され、遠ざかっていくその背中を見送りながら、私はほっと息をつく。
事件は、これで一区切りのはずだった。だが、館の奥から、まだ何かが私を呼んでいるような、そんな感覚だけが、消えずに残っていた。
「柊先輩、私、少しだけ、奥を確認してきます」
「一人でか? だめだ、僕も――」
柊先輩が言い終わるより先に、インカムに本部からの緊急連絡が入る。拘束した模倣犯の身元照会で、何か重要な事実が判明したらしい。
「――少し待っていてくれ。これに応答したら、すぐに合流する」
柊先輩は、真剣な表情でモニターに向き合い始めた。美咲先輩も、確保した犯人の身柄引き渡しの手続きに追われている。二人の意識が、それぞれの対応に向いた、ほんの数分の隙間。
――ごめんなさい、柊先輩。でも、今しかない気がするんです。
後ろめたさを感じながらも、私は足音を忍ばせ、薄暗い廊下の奥へと足を踏み入れていた。導かれるように進む先で、何が待っているのか、まだわからないまま。




