第20話:忘れられない人
学校帰り、桃香に「今日カラオケ行かない?」と誘われたけれど、なんとなく気分が乗らなくて、曖昧に断ってしまった。恋バナで盛り上がる元気は、今の私にはなかった。
気づけば、結衣の家の前まで来ていた。誘われたわけでもないのに、足が勝手にそちらへ向いていた。誰かに、何も聞かずにただ隣にいてほしい。そんな気分だった。
「……なんか、顔色悪いね」
玄関を開けた結衣は、驚いた様子もなく、ただそう言って中へ促してくれた。何も聞かず、温かいココアを淹れてくれる。湯気が立ち上るマグカップを両手で包むと、指先の冷たさが、少しずつ和らいでいく気がした。その優しさに、また泣きそうになるのを堪えた。
「バイトで、色々あって……。でも、詳しくは話せないんだけど」
「いつものことでしょ。無理に聞かないよ」
結衣は、いつも通りの、素っ気ないようで温かい声でそう言った。しばらく、二人で無言のまま、湯気の立つマグカップを見つめる。ちらりと、結衣がこちらの顔色を窺うような視線を寄越したのに気づいた。いつもより深く沈んだ私の様子に、何かを感じ取ったのかもしれない。
「……ねえ、茜」
不意に、結衣が口を開いた。いつになく、静かな声だった。何かを決心したような、そんな響きがあった。
「私の家族が、昔、ある事件に巻き込まれたことがあるの。話したこと、なかったよね」
初めて聞く話だった。私は黙って、続きを待つ。
「詳しいことは、私もよく知らない。ただ、小さい頃、うちの周りが騒がしかったのは覚えてる。両親も、ずっと思い詰めた顔をしてて。何度も警察の人が家に出入りしてたのも、うっすら覚えてる」
結衣は、マグカップを両手で包みながら、視線を落とした。窓の外の夕焼けが、その横顔をオレンジ色に染めている。
「その時、うちに何度も足を運んでくれた、探偵さんがいたんだって。鈴香さんっていう人。母がよく、名前を出してた。事件が解決しないまま終わった後も、ずっと気にかけてくれてたみたい」
――鈴香さん。
心臓が、大きく跳ねた。聞き間違いであってほしいと、一瞬本気で思う。だが、結衣の口から零れたその名前は、あまりにもはっきりと、聞き覚えのあるものだった。あの、切れ味鋭い声。制服の襟をぴしりと正す仕草。まさか、こんな形で、繋がりが見えてくるなんて。
「その人、優しかったんだけど、どこか寂しそうでね。事件を解決できなかったことを、ずっと悔やんでるみたいだったって、母が言ってた」
――解決できなかった、事件。
頭の中で、点と点が、静かに繋がろうとしている。でも、その先を考えるのが、なぜか怖かった。もし、あの鈴香さんが、結衣の家族を助けようとしていた、あの探偵さんと同一人物だとしたら――知ってしまった後、私はどんな顔をすればいいのだろう。
「事件があった場所って、どこだったか、結衣は覚えてる?」
震える声で、なんとか尋ねる。
「山の中の、古い洋館だったって聞いた。私も一度だけ、連れて行かれたことがあるらしいんだけど……ほとんど覚えてないんだよね。まだ小さかったし」
古い洋館。山の中。その言葉を聞いた瞬間、耳の奥で、雨の匂いと、いくつもの重なり合う優しい声が、蘇りかけた。
――大丈夫。もう、独りにはさせない。
朧げなその感覚に、頭の芯がずきりと痛む。まさか、あの夜の記憶と、結衣の話が、同じ場所を指しているのだろうか。確かめる勇気は、まだ出なかった。
「な、なんで、急にその話を?」
震える声を、なんとか押し殺しながら尋ねる。結衣は、少しだけ困ったように笑った。
「さあ。なんとなく、今日は話したい気分だったのかも。……あんたがドジ踏んでも、私が笑わずに受け止められるのはね、多分、あの人の受け止め方を、子供の頃にすぐそばで見てたからなんだと思う」
風に揺れる結衣の手首で、星形のキーホルダーが小さく光った。
「そのキーホルダーも、その人と関係あるの?」
思わず尋ねると、結衣は一瞬、驚いたように目を見開いた。
「……さあ、どうだったかな」
いつもの、はぐらかすような答え。でも今日は、その奥に、確かな何かが揺れているのが、初めてはっきりと感じ取れた。
「結衣も、誰かに支えてほしい時、あるんじゃないの」
気づけば、そう口にしていた。結衣は驚いた顔をした後、くしゃりと表情を崩した。
「……何よ、今更」
そう言いながら、隣に座る私の肩に、そっと頭を預けてくる。いつも受け止めてもらってばかりだったから、こうして頼ってもらえることが、なんだか無性に嬉しかった。
「ありがとう、結衣」
「……別に」
そう言いながらも、結衣は頭を預けたまま、動こうとしなかった。普段は絶対に見せない、無防備な横顔だった。
――結衣にも、こんな顔をする瞬間があるんだ。
いつも受け止めてもらってばかりで、気づかなかった。誰かの支えになりたいと願うことと、実際に誰かの支えになれることの間には、まだ大きな距離がある。それでも、今日この瞬間だけは、少しだけ、その距離を縮められた気がした。
窓の外はもう暗くなり始めていた。二人分の体温だけが、静かに部屋を満たしていた。




