幕間:柊と美咲
深夜、自室の机で、私は手帳を開いていた。今日の出来事を書き留めようとして、しかしペン先が、いつまでも進まない。
瀬尾茜。見習いエージェント。
彼女を初めて自分のチームに引き入れた日から、もう一年近くが経つ。当時から抱いていた仮説――深層意識下における多角的な人格統合。専門知識、身体能力、心理分析、空間認識。彼女が示す振れ幅の大きさは、通常の解離性障害の範疇を明らかに超えていた。データを積み重ねれば積み重ねるほど、私はその仮説に確信を深めていったはずだった。
だが、今日の光景が、その確信に、初めて小さな亀裂を入れた。
腕の中で泣きじゃくっていたのは、多角的な天才などではなかった。ただ、能力者の境遇に心を痛め、自分の無力さに打ちのめされている、一人の少女だった。
――なぜだ。
天才の仮説と、目の前の少女。二つの像が、うまく重ならない。
机の引き出しを開け、奥にしまい込んだ古いファイルを取り出す。数年前、まだ学生だった頃に個人的に調べ上げた、ある未解決事件の記録。「閉ざされた館」と呼ばれる、山奥の廃洋館で起きた事件。当時、唯一の生存者とされた身元不詳の少女の記録に、私は瀬尾茜と一致する特徴を見出し、独自に彼女を特定した。
それが、私が彼女をこのチームに、名指しで引き入れた本当の理由だった。表向きの理由――将来性のある逸材の早期育成――は、上層部への建前に過ぎない。
なぜ、あの夜、彼女だけが生き残ったのか。なぜ、彼女の記憶力は、あの夜を境に異常な発達を見せたのか。私はただ、その謎を解き明かしたかっただけのはずだった。
もう一つ、気にかかっていることがある。彼女の人事ファイルに立てられた、あの「特別監視」のフラグ。記録を辿っても、いつ、誰の権限で付与されたのか、痕跡が見当たらない。まるで、システムの外側から、直接書き込まれたかのように。彼女の昇格を、私自身が個人的な理由で止めている一方で、誰か別の何者かも、彼女を見張り続けている――そう考えると、うそ寒いものが背筋を這う。
だが、と思う。
今日、腕の中で震えていた彼女の温もりを思い出すと、この執着が、果たして純粋な学術的関心だけで説明がつくものなのか、自分でも自信が持てなくなる。
「僕は……何がしたいんだ」
誰に問うでもない呟きが、静かな部屋に落ちる。
手帳を閉じかけて、しかし思い直し、最後にもう一言だけ書き足した。震える、いつもとは違う乱れた筆跡で。
「なぜだ」
その一言だけを残し、私は灯りを消した。彼女の昇格申請書が、まだ自分のデスクの引き出しの奥で止まっていることを、今夜はもう、考えないようにした。
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聴取室で、思わず口を挟んでしまった自分に、今でも少し驚いている。
桐生の言葉――能力者は道具であるべきだ、という、あの傲慢な物言い。それを聞いた瞬間、頭より先に、体が動いていた。
そういえば、いつからだろう。最初は「瀬尾隊員」としか呼んでいなかったはずなのに、気づけば、フルネームで呼ぶようになっていた。苛立ちが募るたび、意識してそう呼んでいた気がする。名前を丸ごと突きつけることで、あの子と自分の間に、線を引いておきたかったのかもしれない。今日だって、我を忘れて「瀬尾茜」と口をついて出た。呼び捨てにするほどの距離を、まだ自分に許していないつもりだったのに。
私だって、道具の一人だ。物心ついた時から、完璧な結果を出すことだけを求められてきた。感情や迷いは、任務の邪魔になるものとして、いつも切り捨ててきた。そうやって積み上げてきたエースという肩書きが、私のすべてだったはずなのに。
瀬尾茜が現れてから、その積み木が、少しずつ崩れていく感覚がある。
そもそも、あの人格の切り替わり方自体が、普通ではない。荒々しい格闘家、早口の科学者、切れ味鋭い探偵、優雅な女優、冷徹な交渉人――一人の少女の中に、あれほど極端に異なる技能と人格が同居するなど、通常の多重人格や解離性障害の範疇を、明らかに逸脱している。上層部が彼女を「要観察対象」という、他の能力者とは別枠の扱いにしているのも、恐らくそのせいだろう。柊蒼――誰もが「柊」としか呼ばない、あの人の「深層意識下の統合」という仮説も、正直、半分も信じていない。
あの子のやり方は、はっきり言って危うい。組織の規範も、自分の立場も顧みず、まっすぐに突っ走る。危険人物だと断じたのは、嘘じゃない。本気でそう思っている。
けれど――と思う。
あの、荒々しい格闘家の人格が見せる体の使い方を、初めて目にした日から、ずっと胸の奥がざわついている。地を這うような低い姿勢、無駄のない踏み込み。かつて、道場で稽古をつけてくれた、優しい先輩の動きに、あまりにもよく似ていた。
あの人は、暴走した試作兵器を止めようとして、命を落とした。妹を守ろうとして。
――妹。
思い出すだけで、今でも胸が締め付けられる。あの日、私は何もできなかった。ただ、目の前で、大切な人が奪われていくのを見ていることしかできなかった。
瀬尾茜の中にいる、あの人格が、なぜあれほどまでに、あの人の動きに似ているのか。偶然だと片付けるには、あまりにも精巧すぎる。答えの出ない問いを、私はまだ、誰にも打ち明けられずにいる。
今日、廊下ですれ違った瀬尾茜の目が、赤く腫れていたのに気づいた。蒼に聞くまでもなく、理由の見当はついた。あの子は、いつも人一倍、他人の痛みを自分のことのように背負い込む。危なっかしいと思う一方で、その不器用な生真面目さに、誰よりも自分自身が重なって見えてしまうのが、厄介だった。
「……あんまり、根を詰めすぎないで」
今日、思わずかけてしまった一言を思い出す。我ながら、らしくない台詞だった。危険人物だと切り捨てたばかりの相手に、なぜ、あんな言葉をかけてしまったのだろう。
蒼が、あの子に向ける執着じみた眼差しにも、説明のつかない苛立ちを覚える。単なる嫉妬だと片付けてしまえたら、どんなに楽だろう。でも、それだけでは片付けられない何かが、いつも胸の奥に引っかかっている。
窓の外はもう暗い。今日も、答えの出ない問いばかりが、頭の中を巡っていく。
私は、瀬尾茜を認めたくない。でも、憎めない。
その中途半端な感情に、一番苛立っているのは、他でもない私自身なのかもしれなかった。




