第19話:なぜだ
涼は、その後、別施設への異動が決まった。今度こそ、安心して過ごせる場所であってほしいと、心から願う。桐生の処分は保留のまま、詳細は私たちには知らされなかった。
異動の前日、私は柊先輩に頼み込んで、涼に短い面会の時間をもらった。以前とは違い、涼の表情には、わずかだけれど落ち着きが戻っていた。
「……あんた、変な奴だな。あの日は、途中で何度も口調変わってたし」
「あ、あはは……体調があまり良くなくて」
苦しい言い訳だったけれど、涼はそれ以上追及してこなかった。
「新しい施設、少しはマシだといいけど」
「……ありがとう。あんたが来てくれなかったら、俺、今頃どうなってたか」
ぽつりと零された感謝の言葉に、胸の奥が熱くなる。役に立てた、という実感が、少しだけ心を軽くしてくれた気がした。
面会を終え、報告書を提出した帰り道、夕暮れの廊下を柊先輩と並んで歩きながら、影が長く伸びていくのをぼんやり眺めていた。柊先輩の足取りは、いつもよりわずかに重い。書類仕事に忙殺されているのか、目の下に薄っすらと隈が滲んでいた。
「柊先輩、大丈夫ですか? 最近、忙しそうで……」
「ん? ……ああ、大丈夫だ。少し立て込んでいるだけで」
素っ気ない返事に、いつもの丁寧さがわずかに欠けていた。柊先輩自身、それに気づいたのか、すぐに「すまない」と付け加える。
「正しいことをした、はずですよね」
思わず、そう漏らしていた。
「ああ、間違いなく」
「なのに、どうして、こんなに苦しいんでしょう」
言葉にした途端、堪えていたものが、一気に溢れ出した。
「涼さんは、ただ怖がってただけなのに。桐生さんの言う通りにしていれば、傷つかずに済んだのに。能力者だからって、人として扱われないなんて、おかしいです。私だって、本当は何も特別なんかじゃないのに」
言ってしまってから、しまったと思った。だが、涙はもう止まらなかった。次から次へと溢れてくる感情を、うまく言葉にできないまま、ただ声を上げて泣くことしかできない。
「柊先輩、私、怖いです。いつか私も、道具みたいに扱われる日が来るんじゃないかって。役に立たなくなったら、簡単に切り捨てられるんじゃないかって」
嗚咽混じりに紡がれる本音は、もう「天才エージェント」の演技でも何でもなかった。ただの、不安に押しつぶされそうな女子高生の言葉だった。周りの目も、体裁も、何も考えられなくなっていた。
柊先輩は、しばらく黙ったまま、私を見つめていた。それから、そっと肩を抱き寄せる。腕の中は温かくて、少しだけ、荒れていた呼吸が落ち着いていく。
「大丈夫だ。君は、僕が必ず守る」
優しい言葉に、少しだけ、心が緩む。だが、腕の中で泣きじゃくる私を見つめる柊先輩の瞳には、いつもとは違う、戸惑いの色が浮かんでいた。まるで、初めて見るもの、あるいは初めて理解できないものに出会ったような、そんな表情だった。
――多角的な天才、深層意識下の統合、予測不能な行動原理。
積み上げてきた仮説と、目の前で泣きじゃくる、ただの女の子。その二つが、初めてはっきりと噛み合わなくなっていることに、柊先輩自身も気づき始めているようだった。
「……なぜだ」
小さく漏れた呟きは、独り言のようでいて、確かに私の耳に届いた。何が「なぜ」なのか、聞き返す勇気は出なかった。柊先輩は、それ以上何も言わず、静かに手帳をしまい込んだ。
翌日、ASTRA本部の廊下で、見覚えのある封筒を見かけた。私の昇格申請書だった。誰かのデスクに置き去りにされたまま、決裁印は一つも押されていない。書類の隅には、既に何ヶ月も前の日付が記されていた。
――見習い期間、もう10ヶ月近く経つのに。基準は満たしてるはずなのに、なぜ。
小さな違和感が、また一つ、胸の奥に積もっていく。誰かが、意図的にこの書類を止めている。そんな考えが、一度浮かぶと、なかなか消えてくれなかった。
隣の壁に貼られた月間報告のボードが、ふと目に入った。各チームの対応件数が、簡単な棒グラフで示されている。自分たちのチームの棒だけが、他のどのチームよりも頭一つ抜けて高い。今更ながら、その差の大きさに、背筋がひやりとした。
廊下の向こうから、美咲先輩が歩いてくるのが見えた。目が合うと、一瞬だけ足を止め、それから何も言わずに横を通り過ぎていく。何か言いたげな、それでいて言葉を飲み込んだような、そんな一瞬の間があった。
「……あんまり、根を詰めすぎないで」
すれ違いざま、ぼそりと零された一言。振り返った時には、もうその背中は遠ざかっていた。ぶっきらぼうなその言葉が、なぜか、今日はやけに温かく感じられた。
危険人物だと、はっきり言われたはずなのに。それでも、こうして時々、不器用な気遣いを向けてくれる。その矛盾した優しさの意味を、私はまだ、うまく飲み込めずにいた。




