第17話:組織の暗部
確保された涼は、それから3日間、頑なに口を閉ざし続けた。何を聞かれても、俯いたまま答えようとしない。食事にもほとんど手をつけていないと、担当者からの報告書には記されていた。
「このままでは、事情聴取が進まない。瀬尾くん、頼めるか」
柊先輩に呼ばれ、面会室のガラス越しに、涼の様子を見つめる。怯えと、諦めが入り混じったような、暗い横顔だった。何度声をかけても、視線すら合わせようとしない。
――まずは、心をほぐす言葉が要る。
――早乙女さん、お願いします。
冷静な気配が、頭の芯に差し込む。交渉人・早乙女、憑依完了。
「涼くん。無理に話せとは言わない。ただ、君の味方になりたい人間もいる、ということだけ知っておいてほしい」
穏やかな声で、じっくりと時間をかける。だが、涼は微かに肩を震わせるだけで、口を開こうとはしなかった。心の傷は、言葉だけでこじ開けられるほど、浅くはないらしい。
「……言葉では、届かないか」
早乙女は静かに引き下がった。
――なら、次は。
意識の奥から、別の気配が滑り込んでくる。
「傷そのものに、語らせよう」
淡々とした声色に変わる。科学者・辰巳、憑依完了。涼の左手首、包帯の下の傷を、許可を取った上で観察する。
「……ふむ。この治癒段階、皮下出血のパターン。単発の事故ではなく、同一箇所への反復的な負荷が見られる。しかも、加害の間隔が均一だ。つまり、これは事故でも突発的な暴力でもない。継続的かつ計画的な『管理』の一環だ」
淡々とした分析が、逆に事の異常さを浮き彫りにしていく。涼の目に、初めて、驚きに似た色が浮かんだ。
「……なんで、そこまで」
辰巳は答えず、ただデータを記録していく。かわりに、また別の気配が、静かに前へ出た。
「あとは、私の仕事ね」
探偵・鈴香、憑依完了。
「あなたが怖がっているのは、追手であるASTRAそのものじゃない。特定の誰か、でしょう。それに、あなたが逃走時に持ち出した私物は、たったの一つ――お守りだけ。生活用品も、記録媒体も、何一つ持ち出していない。つまり、あなたは計画的に逃げたんじゃない。衝動的に、限界が来て逃げた」
穏やかな言葉と、科学的な裏付けと、揺るぎない論理。三段構えの説得に、涼の張り詰めていた糸が、少しずつ緩んでいくのがわかった。だが、最後の一言――名前を口にするという決定的な一歩だけが、まだ出てこない。
――ここまで積み上げた土台がある。あとは、最初に心を開きかけた、あの言葉を届けてくれた人に、締めくくってもらいたい。
――早乙女さん、もう一度、お願いします。
鈴香の意識がすっと引き、再び、あの落ち着いた気配が戻ってくる。交渉人・早乙女、再憑依完了。
「涼くん。もう、君を傷つけたものの正体は、私たちにも見えている。あとは、君の口から聞かせてほしいだけだ。それは、君自身を守るための、最後の一歩になる」
先ほどとは違う、確信を帯びた声だった。積み上げられた証拠を背負った言葉は、ただの説得より、ずっと重く響いたのだろう。涼の瞳から、ほろりと涙がこぼれた。
「……わかった、よ。管理担当者の、名前を言えばいいんだろ」
長い沈黙の後、涼はぽつりと、一人の職員の名前を口にした。
面会室の外でモニター越しに一部始終を見ていた柊先輩が、感心したように呟くのが、インカム越しに聞こえた。
「……最初に心を開かせた者に、最後も締めくくらせる。この采配は、狙ってやったのか?」
答える余裕はなかったけれど、なんとなく、頬が熱くなるのを感じた。狙ったというより、ただ、そうすべきだと思っただけだったから。
◆
面会室を出た後、鈴香はその足で、上層部への報告に向かった。会議室には、見覚えのない役職者たちが、居心地悪そうに顔を揃えていた。
「該当の職員による、能力者への非人道的な管理体制を確認しました。詳細な調査を要請します」
冷静に告げるその内容に、居合わせた上層部の面々は、一様に顔を強張らせた。しばらくの沈黙の後、口を開いたのは、一番奥に座る年配の男だった。
「――ずいぶんと、大胆な指摘だな。組織内部を疑うような発言は、慎重にするべきだ。証拠は?」
「傷跡の治癒パターン、行動心理分析、そして本人の証言です。十分な根拠かと」
「その程度の材料で、長年の功労者を告発するというのか。君は、まだ見習いの身だったな」
暗に立場をわきまえろと言われているのが、はっきりと伝わってくる。それでも鈴香は一歩も引かなかった。
その時、末席に座っていた、まだ若い役職者の一人が、小さく口を挟んだ。
「……桐生の処遇については、慎重を期すべきかと。彼が扱っていた案件には、他にも……いえ、何でもありません」
言いかけた言葉を、慌てて飲み込む。年配の男が、鋭い一瞥を投げると、その役職者はすぐに視線を伏せた。ほんの一瞬のやり取りだったけれど、何か、触れてはいけないものに触れかけたような、そんな空気だけが残った。美咲先輩は、少し離れた場所で、腕を組んだまま何も言わなかったが、その目は、今のやり取りを鋭く捉えていた。
◆
報告を終え、資料室を横切った時だった。開け放たれたままのデスクの上、古い人事記録の束が乱雑に広げられているのが目に入る。
――この散らばり方、妙だわ。
説明のつかない違和感に、また意識の奥が反応した。
「わたくしに、お任せを」
芸術家・楓、束の間の憑依。空間の配置を読み取る目が、書類の乱雑さの奥にある規則性を捉える。
「……この束、表面の埃の積もり方が均一ではございません。つまり、『古い記録』を装いながら、実際には頻繁に出し入れされている一角がございますわ。あちらの、三冊」
指差された束の隅に、聞き覚えのない三つの名前が記されているのが、一瞬だけ見えた。
――あの三つの名前……。
意味もわからないまま、それは記憶の奥に焼きついていく。デスクの主である、当の管理担当職員は、こちらの視線に気づいた瞬間、ただならぬ様子で書類を掻き集め、逃げるようにその場を後にした。振り返った横顔は、血の気が引いたように青白かった。
「……何を見たの?」
隣を歩いていた美咲先輩が、珍しく静かな声で尋ねてくる。
「い、いえ、何も。ただの書類、だったと思います」
咄嗟に誤魔化したものの、美咲先輩は納得していない様子で、それでも深くは追及してこなかった。日の落ちかけた廊下を歩きながら、私はまだ、あの三つの名前の意味を、うまく飲み込めずにいた。




