第16話:逃げた能力者
コマンドセンターに漂う空気は、これまでとは明らかに違っていた。柊先輩の表情も、どこか硬い。
廊下ですれ違った別チームのエージェントが、すれ違いざまに小さく呟くのが聞こえた。「また、柊のとこか……今月、もう何件目だ」その声には、同情とも訝しさともつかない響きがあった。
「今回の対象は、テロリストでも、汚職議員でもない。ASTRAが保護下に置いていた能力者の一人だ」
柊先輩の声は、いつもより硬く、どこか歯切れが悪かった。
「念動力の使い手で、コードネームは『涼』。訓練施設からの逃走が確認された。任務は、確保。ただし、これは非公開作戦として扱う」
「非公開、ですか?」
思わず聞き返す。ASTRAの任務で、そんな言い方をされたのは初めてだった。
「詳細は追って説明する。まずは確保が最優先だ」
柊先輩は、それ以上の説明を避けるように、モニターに視線を戻した。何かを隠している――そんな気配が、いつもの彼らしくなかった。
「保護下にある能力者が、なぜ逃げ出したりするんですか?」
「……それも、追って説明する」
同じ言葉の繰り返しに、違和感だけが積もっていく。美咲先輩も、心なしか表情を硬くしたまま、装備の確認を淡々と進めていた。
ASTRAという組織について、私は今でも全部を理解しているわけではない。表向きは特殊事象対策局という、聞こえのいい看板を掲げているけれど、実態は、警察や自衛隊、公安とも情報を共有しながら、それでいて完全に独立した指揮系統を持つ、国家直轄の秘密機関だ。オカルト事象、能力者絡みの犯罪、表沙汰にできない類の事件――そうしたものを、静かに、そして徹底的に処理する。今回のように、組織の内側で起きたことも、恐らく例外ではないのだろう。
現場は、郊外の工業地帯だった。廃倉庫の合間を、若い男の影が、こちらを警戒しながら移動しているのが見える。歳は、私たちとそう変わらないように見えた。念動力で瓦礫を浮かせ、追っ手を威嚇するように投げつけてきた。
「危ない!」
美咲先輩が念動力で瓦礫を弾き返す。だが涼と呼ばれた青年は、なおも逃走をやめない。目には、追い詰められた獣のような恐怖の色が浮かんでいた。
「近づくな! もう、二度とあそこには戻らない!」
悲痛な叫びが、倉庫の壁に反響する。その声には、単なる反抗ではない、何か切実なものが滲んでいた。
――怖がってる。逃げてるだけなのに、まるで悪者みたいに追われて。
胸の奥が、ちくりと痛む。それでも、確保しなければ状況は変わらない。
――こういう時こそ、権藤さんの力を……! お願いします!
荒々しい闘気が、体の奥から湧き上がる。格闘家・権藤、憑依完了。
「――待てよ、坊主。暴れると、余計に痛い目見るぞ」
低く笑いながら、地を蹴って距離を詰める。涼が投げつける瓦礫を、最小限の動きで捌きながら、確実に間合いを潰していく。
その動き、地を這うような姿勢と踏み込みに、美咲先輩がまた小さく息を呑むのがわかった。
「……っ」
短い呻きだけを残し、美咲先輩はすぐに視線を逸らす。何かに耐えるような、その一瞬の表情に、私は説明のつかない胸騒ぎを覚えた。
涼は最後の力を振り絞るように、瓦礫を次々と投げつけてくる。権藤はその一つ一つを最小限の動きで払い、着実に間合いを削っていった。無駄のない、それでいてどこか慈しむような手加減が感じられる動きだった。
やがて涼は、行き止まりの壁際に追い詰められる。肩で息をしながら、それでも念動力を構えたまま、獣のような目でこちらを睨みつけていた。
――力尽くで捕まえたら、この子はもっと怖がるだけだ。誰かを傷つけたいわけじゃない。ただ、逃げたいだけなんだ。
権藤の拳が届く間合いで、あえて足を止める。
――こういう時こそ、早乙女さんの力を……! お願いします!
冷静な気配が、頭の芯にすっと差し込んでくる。交渉人・早乙女、憑依完了。
離れた場所で見ていた美咲先輩が、また声のトーンが変わったことに気づいたのか、小さく息を呑む気配がした。だが今は、口を挟まずに見守る構えのようだった。
「涼くん、と呼んでもいいか」
落ち着いた声に、涼が一瞬、たじろぐ気配を見せた。
「我々は、君を痛めつけるためにここへ来たわけじゃない。ただ、話を聞きに来ただけだ」
「……信じられるかよ、そんな話」
「信じなくてもいい。だが、このまま逃げ続けても、君を待つのは孤独と疲弊だけだ。何から逃げているのか、聞かせてくれないか」
静かな、しかし逃げ場を与えない声だった。涼の念動力が、少しずつ揺らぎ始める。長い沈黙の後、彼はゆっくりと構えを解いた。
「……わかったよ。もう、疲れた」
涼の腕を、そっと支えるように取り押さえる。乱暴さのない、ただ寄り添うだけの拘束だった。
「確保完了。あとは頼む」
インカムに向かって告げると同時に、早乙女の意識が退いていった。膝から力が抜け、その場に座り込む。今回の反動は、いつもの幼児退行ほど激しくはなかったけれど、それでも指先一つ動かすのが億劫なくらい、体は重かった。
「……ほら、しっかりしなさい」
気づけば、美咲先輩が隣にしゃがみ込み、水筒を差し出してくれていた。ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その手は思いのほか優しく、私の背を支えてくれている。
「あ、ありがとう、ございます……」
「別に。倒れられて運ぶ手間が増える方が面倒なだけ」
そう言いながらも、美咲先輩はしばらくの間、隣に座ったまま動こうとしなかった。
「瀬尾くん、よくやった」
柊先輩が駆け寄ってくるが、その声には、いつもの高揚が見当たらなかった。むしろ、何かを気に病んでいるような、複雑な表情をしている。
「柊先輩、この人……涼さんは、これからどうなるんですか?」
「……それは、僕にも、まだ何とも」
歯切れの悪い返事だけが返ってくる。柊先輩がこんな言い方をするのは、初めてのことだった。いつもなら、どんな状況でも理路整然と説明してくれるのに。
美咲先輩は、涼が連行されていく様子を、腕を組んだまま、何も言わずに見つめていた。その横顔に浮かんでいたのは、いつもの嫌味でも、苛立ちでもない、もっと複雑な色をした感情だった。
「美咲先輩?」
声をかけると、我に返ったように、いつもの表情に戻る。
「……何でもないわ。撤収するわよ」
素っ気なく言い放ち、先に歩き出す背中を、私はただ見送ることしかできなかった。何かが、今までの任務とは違う。そんな予感だけが、重く胸に残った。




