第14話:見られてしまった素顔
回収したデータドライブには、二重三重の暗号化が施されていた。柊先輩の解析端末だけでは、ロックの解除に何時間かかるかわからない。コマンドセンターの時計は、容赦なく時間を刻み続けている。
「柊、私も手伝います。念動力で強引にケースをこじ開ければ――」
「待って美咲。物理的に壊せば、中のデータごと破損する可能性がある」
美咲先輩の申し出を、柊先輩がやんわりと制する。焦りだけが募っていく中、私は震える手をケースに添えた。
――役に立ちたい。今度こそ、ちゃんと。
「……ふむ。これは、複合レジスタの量子暗号化か。この程度で、我々を止められると思ったのかね。愚かだ」
冷静な男の声が、私の口から漏れる。科学者・辰巳、憑依完了。
「柊、聞け。このプロトコルは、非線形の連立方程式で構築されている。外部の量子コンピュータの処理能力を借りて、擬似的な多項式を構築しろ。私が『特異点』を指示する。そこを、お前のハッキングでピンポイントに突け」
早口の専門用語が、まるで機関銃のように放たれる。柊先輩にだけ向けられた、高度に論理的な指示だった。
「な、何よそれ! 現場の指揮権は、能力者である私にあります!」
美咲先輩が声を荒げる。しかし辰巳は、一瞥もくれなかった。
「黙ってくれ。感情的な反論は、解析の邪魔だ。このプロトコルは、コンマ数秒で自己破壊するよう設計されている。中途半端に手を加えれば、データは完全に消滅する。今、必要なのは周囲の警戒だけだ」
にべもない言葉に、美咲先輩は唇を噛んで黙り込んだ。悔しさと屈辱が入り混じった表情を、必死に抑え込んでいるのがわかる。
辰巳は、ケースの表面に指先をかざし、目には見えない構造を読み取るように目を細める。
「柊。セキュアブート時に発生する微弱な電磁ノイズを、逆フーリエ変換しろ。示されたレジスタのアドレスに、コードで『陽炎』と入力するんだ」
「――『陽炎』だと!?」
柊先輩が、驚愕に目を見開いた。
「それは、開発初期のプロトタイプに使われていた、非公開のコードネームだ。関係者以外、知りうるはずのない……いや、まさか、あの論文の……」
疑問を口にしかけて、しかしすぐに指を動かし始める。今はそれよりも、目の前の作業を進めることの方が重要だと判断したらしい。それでも、指先はほんの一瞬だけ、迷うように止まっていた。
「まだだ。その亀裂に、多項式を流し込め。このプロトコルは『自身の存在を誤認』すると、自己防衛のためにロックを解除するよう設計されている」
「な、何よそれ! そんな非科学的な話……!」
美咲先輩は、柊先輩と辰巳の、互いの思考を読み合うような共同作業を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。彼女の得意な精密制御は、この手の抽象的な論理の攻防には、まるで介入する余地がない。
――カキンッ!
やがて、ロックが解除される軽い音が響いた。
辰巳の意識が退いていく。今度は身体的な反動は少なかったが、極度の集中による疲労で、その場に座り込んだ。
「瀬尾くん! やったな、僕らの共同作業だ!」
柊先輩は、興奮を隠しきれない様子で、私を抱き起こす。
「まさか、あの非公開のコードネームまで知っているとは。君の情報収集能力は、もはや底が知れない」
「え、えへへ……」
曖昧に笑うことしかできない。全部辰巳さんの知識で、私は何も知らないのに。
その時、疲労でぼんやりした頭のまま、ふと視線が、ケースの脇に伸びる配線の一本に留まった。他の配線とは、ほんのわずかに被膜の色味が違う。それに、束ね方の癖も少しだけ不自然だった。
「あ……ここ、色が変です。他のと繋ぎ方が、違う気がします」
深く考えたわけではない。ただ、目に入った違和感を、そのまま口にしただけだった。柊先輩が慌てて確認すると、それは偽装された盗聴用のケーブルだった。
「――なんだと。よく気づいたな。専門の検査機器でも、これは見逃しかねない精度の偽装だ」
私自身、なぜ気づいたのか、うまく説明できない。特別なことをしたつもりはなかった。ただ、一度見たものの違和感を、忘れられなかっただけだ。
少し離れた場所で、その一部始終を見ていた美咲先輩が、何も言わずに立ち尽くしていた。憑依していない、ただの素の私が指摘した、ということに気づいたのかもしれない。表情はいつもの鋭さのままだったが、視線だけが、何かを探るように私の顔に留まっていた。
「……まさか」
小さく漏れたその呟きを、私は聞こえなかったことにした。
帰り支度をする間も、美咲先輩は珍しく、いつもの嫌味を一つも口にしなかった。その静けさの方が、かえって落ち着かなかった。




