第12話:そのままの自分で
事件から数日、私の「天才エージェント」という評価は、もはや動かしようのないものになっていた。柊先輩は顔を合わせるたびに、以前にも増して優しく、そして頼りにするような目を向けてくる。
「瀬尾くん、今回の働きは、本当に見事だった。証拠の確保も、美咲の援護への対応も、完璧なタイミングだった」
「あ、ありがとうございます……。それにしても、最近本当に忙しいですね。休む間もないくらい」
「……そうだな」
柊先輩は、少し考え込むような間を置いてから頷いた。何か言いたげな沈黙だったけれど、それ以上は続かなかった。
素直に喜べない自分がいる。あれは全部、権藤さんやエリカさんの力で、私自身は震えて泣いていただけだ。
――嬉しいはずなのに、なんでだろう。
胸の奥に、小さな棘が刺さったままだ。
放課後、購買のベンチで、桃香に恋愛相談を持ちかけられていた――というより、いつの間にか、聞き役から相談役に立場が入れ替わっていた。
「で、茜は? 最近どうなの、あの噂の先輩とは」
「ど、どうって……相変わらず、色々あって……」
「またまた、誤魔化しちゃって。この前もバイト先で何かあったんでしょ、その顔は」
鋭い指摘に、思わず頬が引きつる。詳しい事情は話せないから、曖昧に笑うしかない。
「桃香は? 最近、誰かいい人いないの?」
「あたし? うーん、今のところは特に。理想が高すぎるのかもね」
桃香は頬杖をつきながら、にやにやと笑う。
「私はさ、認められたいなら認められたいって、ちゃんと言った方がいいと思うけどな。茜って、なんか、いつも誰かの期待に応えようとしてる感じがする」
図星すぎて、言葉に詰まる。
「そ、そんなことないよ。私はただ、役に立ちたいだけで……」
「それそれ。役に立ちたい、じゃなくて、どうしたいのって話。今の話、聞いてて思ったんだけど」
桃香にしては珍しく、鋭い指摘だった。答えに詰まった私を見て、桃香は満足げに頷く。
「ほら、やっぱり図星じゃん。茜ってさ、頑張り屋なのはいいけど、頑張ってる自分を認めてほしいのか、素の自分を認めてほしいのか、そこがごっちゃになってる気がするんだよね」
「な、なんか、今日は妙に鋭いね……」
「あたしだって、たまには真面目なこと言うのよ! 失礼な!」
桃香はぷんすかと頬を膨らませながら、それでも楽しそうに笑っている。この明るさに救われることが、何度あっただろう。
「……本当は、天才だからとか、そういうのじゃなくて。ただの、ドジな私のままで、誰かに大事にされたい。それだけなのかも」
ぽつりと零れた本音に、自分でも驚く。桃香は少し目を丸くした後、優しく笑った。
「いいじゃん、それ。すごく、茜らしいと思う」
「そ、そうかな」
「うん。……あたしもさ、昔、ある女優さんに憧れてたことがあるんだよね。優雅で、隙がなくて、誰から見ても『特別』な人」
珍しく、桃香の声のトーンが少しだけ落ち着いたものになる。
「今はもう活動してないみたいなんだけどね。テレビの向こうの人だったけど」
「へえ、桃香にもそんな時期が」
「まあ、今はもう卒業したけどね! それより、話を戻すけど――」
すぐにいつもの調子に戻り、桃香は身を乗り出してくる。私はほっとしながらも、その一瞬だけ見せた横顔が、少しだけ気になった。
◆
その夜、ASTRA本部に立ち寄ると、柊先輩がデスクで手帳を睨みながら、何かを書いては消し、書いては消しを繰り返していた。周りには、これまでの事件のファイルが山積みになっている。
「柊先輩、お疲れ様です。何を書いてるんですか?」
「ああ、瀬尾くん。……いや、君の昇格に関する報告書だ。基準は、もう十分に満たしているはずなんだが」
「え、本当ですか!」
思わず声が弾む。見習い期間の焦りが、少しだけ軽くなる気がした。
「潜入任務での判断力、戦闘対応、証拠の確保。数字上の実績だけを見れば、文句のつけようがない。なのに……」
柊先輩は、積み上がったファイルの一つを手に取り、ぱらぱらとめくった。
「ただ……なぜか、上に提出するタイミングで、いつも保留にされてしまう。理由がはっきりしないんだ。まるで、誰かが意図的に、君の昇格を遅らせているみたいに」
柊先輩は、珍しく歯切れの悪い口調でそう言うと、また手帳に視線を落とした。ペンの先が、何か言いたげに、紙の上で止まったままだった。
「それに、もう一つ気になることがある。君の人事ファイルには、通常の見習いにはつかない、特別監視という区分のフラグが立っている。いつ、誰が、何の目的でつけたのか、記録を辿っても分からない」
その言葉に、心臓がひやりとした。自分の知らないところで、誰かにずっと見られている――そんな感覚が、初めて具体的な形を持った気がした。
そこへ、廊下から穏やかな声がかけられた。
「おや、柊くん。まだ残っていたのか」
振り返ると、恰幅の良い、初老に差し掛かった男性が立っていた。柊先輩が、慌てて姿勢を正す。
「黒木支部長。お疲れ様です」
「彼女が、噂の瀬尾くんかね」
黒木と呼ばれた男性は、柔和な笑みを浮かべながら、こちらに歩み寄ってきた。
「柊くんから、色々と聞いているよ。実に興味深い経歴だ。これからも、伸び伸びと力を発揮してくれたまえ。私も、陰ながら応援している」
「あ、ありがとうございます」
思いがけない上役からの言葉に、少し戸惑いながらも頭を下げる。黒木支部長は、鷹揚に頷くと、そのまま廊下の奥へと去っていった。柔らかな物腰と、包み込むような笑顔が印象的な人だった。
「……いい人ですね、支部長」
「ああ。現場上がりの叩き上げで、部下の面倒見もいい。君のことも、何かと気にかけてくれているようだ」
柊先輩の言葉に、少しだけ気持ちが軽くなる。この広い組織の中にも、自分を見てくれている人がいる――そう思えたことが、単純に嬉しかった。
「……何か、変なんですよね」
私がそう呟くと、柊先輩は顔を上げ、少しだけ困ったように笑った。
「気にしなくていい。僕が、必ず通してみせる」
その言葉に安堵しながらも、心のどこかで、小さな違和感が芽生えていた。誰が、何のために、私を見張り、昇格を止めているんだろう。考えても、答えは出ない。
「そういえば、美咲先輩は?」
「もう帰った。今日は珍しく、早々に本部を出ていったよ」
「そう、ですか」
あの人質事件の日から、美咲先輩とは、まだきちんと話せていない。助けてもらったお礼も、中途半端なままだ。
「瀬尾くん、あまり根を詰めすぎるなよ。今日はもう帰りなさい」
柊先輩に促されるまま本部を出ると、夜風が思いのほか冷たく感じられた。誰かに見張られているかもしれない、という新しい不安が、これまでとは違う重さで肩にのしかかる。見習い期間はもう8ヶ月と少し。焦りと、まだ形にならない何かを抱えたまま、私は一人、夜道を歩いて帰った。




