第8話 黒薔薇は断罪の舞台へ上がる 後編
「聖女ミリア=ベル嬢。証言台へ」
王国法務卿の声が、大広間に響いた。
隣から、浅い呼吸が聞こえる。
ミリア様の指は守り紐を握ったまま、白くなるほど強張っていた。
「ミリア様」
わたくしが名を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
怖くないはずがない。
ここには大神殿の神官たちがいる。
彼女を聖女という役割に閉じ込め、考えることも、拒むことも許さなかった者たちがいる。
そして今、大広間に集まったすべての者が、彼女の答えを待っている。
神殿に虐げられた被害者として。
クロガネ家に操られた哀れな少女として。
あるいは、神へ背いた偽りの聖女として。
誰もが、自分にとって都合のよいミリア=ベルを求めていた。
それでも、わたくしが代わりに答えてはならない。
それでは、彼女から声を奪ってきた者たちと同じになってしまう。
ミリア様は守り紐から指を離した。
「……行ってまいります」
「ええ」
最初の一歩は、頼りなかった。
それでも彼女は、誰かに手を引かれることなく、自分の足で証言台へ向かった。
わたくしは黒椿から手を離したまま、背筋を伸ばしてその背中を見守る。
何があっても、ここから退くつもりはない。
大広間を満たしていた囁きが消えていく。
証言台へ立ったミリア様は、両手を胸元で重ねた。
「ミリア=ベル嬢」
王国法務卿が、静かな声で告げる。
「ここでは、あなた自身が知る事実を、あなた自身の言葉で証言していただきたい。誰かの命令に従う必要はない」
「……はい」
「リシア=クロガネ公爵令嬢は、あなたを王宮から無理に連れ出しましたか?」
ミリア様の唇が開いた。
声は出ない。
「聖女様」
ローディス副神官長が、幼子を慰めるような口調で呼びかけた。
「恐れる必要はございません」
ミリア様の肩が強張る。
副神官長は、胸元の黄金の聖印へ指を添えた。
「教えられた通りに、真実をお話しください」
その言葉を聞いた瞬間、ミリア様の顔から血の気が引いた。
「……教えられた、通りに」
掠れた声が漏れる。
視線が定まらず、呼吸が急速に浅くなっていく。
おそらく、何度も言われてきたのだろう。
教えられた通りに祈りなさい。
教えられた通りに笑いなさい。
教えられた通りに、神の言葉を語りなさい。
それを守れない者は、聖女ではない。
「ミリア様」
わたくしは、その名だけを呼んだ。
ローディス副神官長がこちらを見る。
「公爵令嬢。証言への干渉はお控えください」
「名前を呼んだだけですわ」
「あなたの存在そのものが、聖女様を怯えさせているのです」
違う。
だが、それを決めるのはわたくしではない。
ミリア様の目が、ゆっくりとこちらへ向けられた。
深い青の瞳が、不安に揺れている。
「怖くても、大丈夫ですわ」
わたくしは、それだけを告げた。
大丈夫だから話しなさい、という命令ではない。
今は話せなくてもいい。
立っていられなくてもいい。
逃げたくなれば、わたくしが連れて帰る。
それでも自分の言葉を口にしたいと願うのなら、わたくしはここにいる。
ミリア様の指が、手首の守り紐へ触れた。
ゆっくりと息を吸う。
そして、証言台の正面へ向き直った。
「わたしは」
声はまだ細い。
「リシア様に、連れ去られたのではありません」
広間にざわめきが走った。
ローディス副神官長の微笑みは崩れない。
「聖女様。公爵令嬢から、そのように話すよう――」
「教えられていません」
ミリア様が、副神官長の言葉を遮った。
決して大きな声ではない。
それでも、その一言は広間の隅々まで届いた。
「リシア様は、わたしに何も命令していません」
「ですが、あなたはクロガネ公爵邸へ――」
「あの部屋にいると、何も考えられなくなりました」
ミリア様は両手を強く握った。
「香を吸うと、頭がぼんやりして……神官様に言われたことに、頷くことしかできなくなりました」
クラリス様が、静かにクレメルへ目を向ける。
香油商は俯いたまま、顔を上げようとしない。
「怖いのに、怖いと言えませんでした」
ミリア様の声が、一度だけ詰まった。
「嫌なのに、嫌だと言ってはいけないと思っていました。祈りを止めたら、わたしは聖女ではなくなると……神様に見捨てられると、何度も言われました」
「それは、あなたが聖女としての重責に耐えられるよう――」
「違います」
今度は、はっきりとした声だった。
ミリア様はローディス副神官長を見る。
身体を強張らせながらも、目を逸らさなかった。
「リシア様が、わたしに手を差し出してくださいました」
あの祈祷室。
偽りの祈りが満ちた部屋で、わたくしが差し出した手。
「でも、その手を取るように命令されたわけではありません」
ミリア様が、守り紐を握る。
「その手を取ったのは、わたしです」
静まり返った大広間に、彼女の声だけが響く。
「わたしが、リシア様と行くことを選びました」
わたくしは、ただその言葉を受け止めた。
これは彼女が選び、彼女が口にした言葉だ。
「わたしは、大神殿へ戻りたくありません」
神官たちの間に、動揺が広がった。
「聖女様!」
「戻って、また同じように祈ることはできません」
「あなたは混乱しておられるのです!」
「今は、混乱していません」
ミリア様は、自分の中にあるものを確かめるように、ゆっくりと続けた。
「怖いです。今も、逃げたいと思っています」
それでも、彼女は顔を伏せなかった。
「でも、今は自分が怖いと思っていることが分かります。嫌だと思っていることも、自分で分かります」
ミリア様が顔を上げる。
「あれを、わたしを守る祈りとは呼びたくありません」
誰かが息を呑んだ。
貴族たちの間に広がっていた囁きは、もう聞こえない。
王国法務卿も、セレナ殿下も、国王陛下さえも、証言台に立つ少女を見つめている。
かつて大神殿が用意した言葉しか話せなかった聖女が、自分の声で神殿の祈りを否定した。
「以上が、わたしの証言です」
ミリア様は、深く頭を下げた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
大広間を満たしていたのは、先ほどまでの囁きではなく、重い沈黙だった。
「実に、お痛ましい」
穏やかな声が、張り詰めた空気を断ち切った。
ローディス副神官長だった。
その顔には焦りも、怒りもない。
むしろ、待ち望んでいた言葉を聞いたかのように、満足げな微笑みさえ浮かべていた。
「何がおかしいのです?」
セレナ殿下が問う。
「聖女様が、ここまで深く公爵令嬢の言葉に囚われてしまったことが、でございます」
「今の証言を聞いて、まだ強要された言葉だと?」
「無論です」
ローディス副神官長は、証言台のミリア様へ憐れむような視線を向けた。
「聖女様は長く祈りの務めを離れ、神聖なる術式を破壊した公爵令嬢の邸で過ごしておられます。その間に、どのような邪法を施されたのか、我々には知る由もございません」
どこまでも、自分たちに都合よく話を作る男だ。
「では、何を話しても強要された証言だとおっしゃるのですか?」
セレナ殿下の声が冷たくなる。
「言葉のみで真偽を決める必要はございません」
ローディス副神官長が右手を上げた。
後方に控えていた4人の神官が、一斉に動く。
神官たちの列の後ろに置かれていた台座から、白布を取り払った。
水晶灯の光を受け、黄金が大広間を照らす。
現れたのは、人の腰ほどの高さを持つ古い聖具だった。
翼を広げた女神を象る黄金の枠。
その中央には、人の頭ほどもある透明な水晶が嵌め込まれている。
女神の胸元には、ローディス副神官長が身につけているものと同じ聖印が刻まれていた。
「真実の聖印……」
神官の1人が、畏れるように呟いた。
貴族たちから、再びざわめきが起こる。
「大神殿に伝わる裁定の聖具です」
ローディス副神官長が告げた。
「真なる聖女が、真実を語ったうえで触れれば、女神の祝福を示す白き光が灯ります」
「それを、王家の許可なく持ち出したのですか?」
セレナ殿下が問い詰める。
「大神殿の威信と、聖女様の名誉を守るために必要な措置でございます」
「審問へ持ち込む許可は出しておりません」
「では、使用を禁じますか?」
ローディス副神官長は、大広間をゆっくりと見渡した。
「真実を明らかにする聖具を、王女殿下が拒まれると?」
また、意味をすり替える。
使用を認めれば、神殿の用意した儀式へ従うことになる。
拒めば、王家が真実を恐れたと喧伝するつもりなのだ。
「その聖具が、正しく機能するという証明は?」
セレナ殿下が尋ねる。
「数百年にわたり、大神殿が守り伝えてきた聖具に疑いを?」
「管理してきたのが、あなた方だからこそ尋ねています」
セレナ殿下とローディス副神官長の視線がぶつかる。
その時。
「触れます」
証言台から、ミリア様の声が聞こえた。
「ミリア様」
思わず名を呼ぶ。
彼女はわたくしを振り返った。
「わたしの言葉を、また誰かに偽物だと言わせたくありません」
「触れる必要などありませんわ」
「いいえ」
ミリア様は、ゆっくりと首を横へ振った。
「わたしは、嘘をついていません」
その目には、まだ恐怖がある。
けれど、恐怖と意思は両立する。
怖いから従うのではない。
怖くても、自分で選ぶ。
それを決めた彼女の意思を、わたくしの不安で奪うことはできなかった。
「聖女ミリア=ベル嬢」
王国法務卿が慎重に確認する。
「自らの意思で、聖具による裁定を受けるのですね?」
「はい」
「承知しました。ただし、少しでも危険が生じた場合は、直ちに中止します」
「異存ございません」
ローディス副神官長が微笑む。
4人の神官が、真実の聖印を証言台の前まで運ぶ。
間近で見ると、中央の水晶には、古い傷とも檻ともつかない細い金色の筋が無数に走り、呼吸するように淡く明滅していた。
ミリア様が、聖印の前へ立つ。
「中央の水晶へ手を」
ローディス副神官長が促した。
ミリア様の手が伸び、指先が水晶へ触れた。
その瞬間。
ローディス副神官長が、胸元の黄金の聖印へ指を添えた。
「駄目です!」
ヴィオラ様の声が響く。
「その仕草、舞踏会の時と同じです!」
彼女の警告と同時だった。
聖具の水晶が、強く輝いた。
「ミリア様!」
白い光ではない。
水晶の内側から、墨のような黒い筋が爆発的に伸びる。
魔力で編まれた細い糸がミリア様の手首へ巻きつき、腕を這い、身体へ絡みついた。
「っ……!」
ミリア様が苦痛に顔を歪める。
「直ちに中止せよ!」
王国法務卿が立ち上がった。
「近衛、聖女を聖具から離しなさい!」
セレナ殿下の命令を受け、壁際に控えていた近衛騎士たちが駆け出す。
だが、聖具を運んできた4人の神官が前へ出て、その進路を塞いだ。
「退きなさい!」
「神聖なる裁定の最中です!」
「ここは王宮です!」
近衛騎士が剣の柄へ手を掛ける。
神官たちは聖具を囲み、両腕を広げたまま動こうとしない。
「ローディス副神官長! 今すぐ術式を止めなさい!」
セレナ殿下の声が大広間を震わせる。
「我々は何もしておりません」
ローディス副神官長の指は、胸元の聖印に触れたままだ。
「女神の裁定を、人の都合で止めるおつもりですか?」
黒い糸がミリア様の身体をさらに強く締めつける。
透明だった水晶の中心に、墨を落としたような染みが広がった。
女神の顔が、黒く濁っていく。
大広間に、どよめきが起きた。
「これは……」
ローディス副神官長が、悲痛そうに目を伏せる。
「なんということでしょう」
芝居がかった声。
周囲の神官たちは、示し合わせたように一斉に声を上げた。
「聖印が黒く染まった!」
「女神が、聖女を拒絶された!」
「やはり、あの娘は――」
ローディス副神官長が、ゆっくりとミリア様を見上げる。
「神の裁定は下されました」
その声から、慈愛の仮面が消えていた。
「この娘は、聖女ではございません」
ミリア様の瞳が見開かれる。
「そん、な……」
「邪法によって聖女の座を騙り、大神殿を貶めようとした偽りの娘。そして、その背後で彼女を操った黒髪の魔女」
副神官長の視線が、わたくしへ向けられる。
「リシア=クロガネ。あなたの罪は、もはや明白です」
神官たちが、ミリア様を囲もうと前へ出た。
「動かないでください!」
ヴィオラ様が叫ぶ。
青ざめながらも、ローディス副神官長を指さしている。
「今、水晶が反応したのは、あの方が聖印に触れた直後です!」
「怯えた令嬢の見間違いでしょう」
ローディス副神官長は、冷たく切り捨てた。
わたくしは、ミリア様へ絡みつく黒い糸を見つめる。
あの夜、王太子殿下を縛っていた呪いと同じ色、同じ不快な揺らぎだ。
そして糸の先は、水晶を通り、ローディス副神官長の胸元にある黄金の聖印へ集まっていた。
神の裁定などではない。
あの男が望む結果を、神の名で押しつけるための術式だ。
わたくしは黒椿の柄へ手を添えた。
「リシア=クロガネ」
ローディス副神官長が、わたくしの動きを見て笑う。
「神の裁定に、刀を向けるとでも?」
「いいえ」
親指を、黒椿の鍔へ掛ける。
「神の名を騙る嘘を、斬るだけですわ」
親指で、黒椿の鍔を押す。
鯉口が切れた。
澄んだ音が、断罪の舞台に響いた。
「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。
この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」




