第9話 黒薔薇は神の嘘を斬る 前編
鯉口を切った瞬間、澄んだ音がどよめきに満ちた大広間を貫いた。
ミリア様の身体へ絡みついた暗い糸が、獲物を締め上げる蛇のように脈打つ。
「リシア様……」
掠れた声が聞こえた。
その空色の瞳には、隠しようのない恐怖が浮かんでいる。
それでもミリア様は、水晶から手を離そうとはしなかった。
自分の言葉を、再び偽物にされたくない。
自分で選んだことを、誰かの都合でなかったことにされたくない。
苦痛に耐えながら聖印の前へ立ち続ける姿が、何よりも雄弁にその意思を語っていた。
「愚かなことを」
ローディス副神官長が、胸元の黄金の聖印へ指を添えたまま笑う。
「神の裁定に刃を向ければ、その娘の受ける苦しみはさらに深くなるでしょう」
「ご心配には及びませんわ」
わたくしは黒椿の柄を握った。
「わたくしが斬るのは、ミリア様でも、そちらの聖具でもございません」
「では、何を斬ると?」
水晶から伸びた呪いの糸。
ミリア様の手首から腕へ這い、肩と胸元へ絡みつき、その意思を押さえ込もうとしている。
そして、そのすべてを束ねる糸の先は、水晶を通り、ローディス副神官長の黄金の聖印へ繋がっていた。
「あなたが神の御心と偽った、その薄汚い縁ですわ」
床を蹴った。
「止めろ!」
ローディス副神官長の声に応じ、聖具を囲んでいた4人の神官がわたくしの前へ立ちはだかる。
最初の1人が、両腕を広げて進路を塞いだ。
わたくしは足を止めず、差し出された腕の内側へ黒椿の鞘を滑り込ませる。わずかに手首を返すだけで、神官の身体が横へ流れた。
続く神官が肩を掴もうとする。
身体を沈め、その手を頭上へ通した。
踏み込んだ勢いのまま脇を抜け、3人目の神官が前へ出るより先に、その間合いの内側へ入る。
肩を触れ合わせるように身体を入れ替え、その背後へ抜けた。
誰ひとり斬る必要はない。
傷つける必要もない。
刀を抜くと決めた時には、すでに道は見えている。
最後の神官が聖具を背にして立ち塞がった。
わたくしは鞘尻で床を突き、軸を変える。その脇をすり抜け、ミリア様の正面へ踏み込んだ。
目の前には、彼女の身体へ幾重にも絡みつく呪い。
背後には、墨を流し込まれたように濁った水晶。
斬るべきものを見誤ってはならない。
息を沈める。
視線を定める。
肉ではない。
衣服でもない。
彼女の言葉と意思を、再び奪おうとするもの。
「クロガネ流抜刀術――」
黒椿が鞘を走った。
「縁斬り」
銀の軌跡が、ミリア様の身体を横切る。
大広間のあちこちから悲鳴が上がった。
けれど、刃は彼女の肌にも、淡い空色のドレスにも触れていない。
断ち切ったのは、身体を縛っていた呪いの糸だけ。
張り詰めた無数の弦が、一斉に切れるような音が大広間へ響いた。
ミリア様を拘束していた糸が千切れ、宙で激しくのたうつ。
「なっ……!」
ローディス副神官長の顔から、初めて余裕が消えた。
切断された糸は灰色の霧となり、水晶とミリア様の身体から剥がれ落ちていく。
同時に、彼女の膝から力が抜けた。
「ミリア様」
黒椿が鞘へ収まるのと、崩れ落ちるミリア様を受け止めるのは、ほとんど同時だった。
細い肩が、わたくしの胸元へ触れた。
「リシア、様……」
「もう大丈夫ですわ」
そう告げると、ミリア様の指が、わたくしのドレスを掴んだ。
力は弱い。
それでも、誰かに命じられたものではない。
彼女が自分の意思で伸ばした手だった。
「神の裁定を、斬った……?」
誰かが、呆然と呟いた。
「違います」
わたくしはミリア様を腕に支えたまま、ローディス副神官長へ視線を向ける。
「神の裁定を装った、あの男の呪いを斬ったのですわ」
「詭弁だ!」
ローディス副神官長の声が、大広間に響き渡った。
先ほどまでの穏やかさはない。
「その刀で聖具へ干渉し、裁定を捻じ曲げた! 黒髪の魔女が、神聖なる聖印を穢したのだ!」
「聖具には、傷ひとつございません」
セレナ殿下の冷たい声が、副神官長の叫びを遮る。
王女殿下は、水晶と黄金の台座を順に見渡した。
「リシア様の刀は、水晶にも台座にも触れていません。ここにいる全員が、その目で見ていましたわ」
「目に見えぬ邪法を使った可能性がある!」
「目に見えたものなら、たくさんございましたけれど」
エルネスタ様が、開いた扇の陰から微笑む。
「水晶から伸びた呪いの糸も、副神官長が胸元の聖印へ触れた直後に聖具が反応したことも、こちらにいる皆様がご覧になりましたわ」
貴族たちの視線が、一斉にローディス副神官長の胸元へ集まった。
黄金の聖印へ添えられていた指が、ゆっくりと離れる。
「偶然です」
「いいえ」
ヴィオラ様が声を上げた。
顔は青ざめている。
手帳を胸元へ抱える指も、白くなるほど強張っていた。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「舞踏会の時も、同じでした」
ローディス副神官長が、鋭い視線を向ける。
ヴィオラ様の肩が小さく揺れた。
それでも彼女は一歩も下がらない。
「舞踏会では、バルガス卿が術式を発動させる直前に、副神官長様が袖口へ触れました」
「触れた場所が違うではないか」
「場所は違います。でも、指の動かし方も、術が動くまでの間も同じでした」
ヴィオラ様は、胸元の手帳を開いた。
「舞踏会では袖口の内側。先ほどは胸元の聖印。どちらも、右手の人差し指と中指を揃えて触れ、その直後に術式が発動しています」
ざわめきが広がる。
ローディス副神官長は、ヴィオラ様を見据えたまま何も答えなかった。
「こちらにも、偶然とは思えないものがございます」
クラリス様が真実の聖印へ近づいた。
先ほどまで水晶を覆っていた霧は、ほとんど消えている。
けれど、水晶と黄金の枠の継ぎ目には、淡い灰色の粉がわずかに残っていた。
クラリス様は手袋を着け、細い銀の匙で粉を採取する。
小瓶の薬液へ落とすと、透明だった液体がゆっくりと濁った紫色へ変わった。
「この反応は……」
クラリス様は、以前採取した香粉の小瓶と並べて光へ透かした。
「ミリア様の衣服と、大神殿から届いた香袋に含まれていたものと同じ成分です」
「そのような粉が、なぜ聖具に?」
王国法務卿が尋ねる。
「この成分は、魔力を流すことで人の思考や抵抗する意志を鈍らせます」
クラリス様は断定を急がず、水晶の継ぎ目を見つめた。
「術式そのものについては、わたくしの専門外です。ですが、大神殿がミリア様へ使用していた香と同じ成分が、この聖具へ組み込まれている。それだけは間違いありません」
薬学で証明できる範囲だけを、彼女は事実として告げた。
誰の目にも映った、聖具とローディス副神官長を結ぶ呪いの糸。
術が発動した瞬間を記憶していた、ヴィオラ様。
そして、聖具へ仕込まれていた成分を明らかにした、クラリス様。
異なる3つの事実が、同じ一点を示している。
ローディス副神官長が、聖印を操作していた。
「で、でたらめだ!」
副神官長の隣にいた神官が叫んだ。
「聖具にそのようなものが仕込まれていた証拠にはならない! 黒髪の魔女が刀で斬った際に、何かを付着させたのだ!」
「それは不可能ですわ」
セレナ殿下が即座に切り返す。
「リシア様は水晶へ触れていません。そして、その聖具を王宮へ運び込んだのは大神殿の神官たちです」
逃げ道が、ひとつずつ塞がれていく。
ローディス副神官長は黙ったまま、大広間を見渡していた。
その時だった。
黒く濁っていた水晶の奥で、小さな光が生まれた。
淡く、柔らかな白い光。
ひと筋。
また、ひと筋。
水晶の内側を満たしていた濁りが、白い光に押し流されていく。
大広間が静まり返った。
「これは……」
王国法務卿が息を呑む。
白い光は水晶全体へ広がり、翼を広げる女神の像を内側から照らした。
ミリア様の指は、すでに水晶から離れている。
だが、呪いの糸を断たれた聖具は、本来の術式を取り戻したかのように輝きを増していった。
一度受け取った彼女の言葉へ遅れて応えるように、清らかな光を放ち続けている。
ローディス副神官長自身が説明した通りなら。
真なる聖女が、真実を語ったうえで触れた時に灯る光。
「白い、光……」
ミリア様が、わたくしの腕の中で呟いた。
空色の瞳に、聖具の光が映り込む。
「わたしは……間違って、いなかった……」
「ええ」
わたくしは答えた。
「あなたは、自分で選び、自分の言葉で真実を話しました」
ミリア様が、わたくしのドレスを掴む指へわずかに力を込める。
「それを、誰にも偽物とは言わせませんわ」
「もちろんです」
セレナ殿下が、わたくしたちの前へ歩み出た。
「いいえ。聖女であるかどうか以前に、あなたが自分の言葉で真実を話したことを、この場にいる全員が聞いています」
ミリア様が、ゆっくりと顔を上げる。
「あなたの価値を決めるのは、大神殿でも、あの聖具でもありません」
セレナ殿下の紫の瞳が、穏やかに細められた。
「ですが、大神殿が聖具の裁定を持ち出した以上、その結果は受け入れていただかなくてはなりませんわね」
貴族たちの間から、低いざわめきが広がる。
「白く光っている……」
「では、先ほどの濁りは何だったのだ?」
「副神官長が操作していたというのか?」
「神殿が、聖女を偽物へ仕立てようとした……?」
疑念は、噂よりも速く大広間を満たしていく。
神の名を盾にしてきた者ほど、その盾へ傷が入った時には脆い。
ローディス副神官長は周囲を見渡した。
クレメルは俯いたまま、顔を上げようとしない。
神官たちは白く輝く聖具と、副神官長の胸元を交互に見ている。
誰も、彼の言葉を待ってはいなかった。
「ローディス副神官長」
王国法務卿が、硬い声で呼びかける。
「聖女ミリア=ベル嬢へ危害を加え、王宮内における正式な審問を不正に操作しようとした疑いがあります」
「疑い、ですと?」
「聖印を操作したという目撃証言。ミリア=ベル嬢を拘束した術式。聖具から検出された精神干渉成分。そして、術式を切断した後に示された白い光」
法務卿は一つずつ、確認するように告げた。
「審問を継続するためにも、あなたの身柄と胸元の聖印を王宮の管理下へ置く必要があります」
「大神殿副神官長である、このわたしを拘束すると?」
「法務卿として、国王陛下へ許可を求めます」
王国法務卿が、最奥の玉座へ向き直った。
これまで国王陛下は、審問の進行を法務卿へ委ね、証言と証拠を黙って見届けていた。
最初から結論を決めたと神殿側へ言わせないために。
王家の怒りで審問を曲げたと、逃げ道を与えないために。
そして今。
証言と物証、大神殿自身が持ち込んだ聖具の結果までが、同じ真実を示している。
国王陛下が、初めて口を開いた。
「許可する」
低く、重い声が大広間へ響く。
「ローディスの身柄を拘束し、胸元の聖印を押収せよ。大神殿に属する者であろうと、王宮内で聖女を害し、王国の審問を欺いた疑いを見過ごすことはできぬ」
近衛騎士たちが一斉に姿勢を正した。
「御意!」
聖具の周囲には、先ほどわたくしの前へ立ちはだかった4人の神官が残っていた。
「退け」
近衛騎士が命じる。
神官たちは、すぐには動かなかった。
白く輝く真実の聖印を見る。
次に、胸元の黄金の聖印を押さえるローディス副神官長を見る。
神の裁定を守るべき副神官長と、聖具が示した白い光。
その2つが、彼らの中で正面から食い違っている。
「何をしている!」
ローディス副神官長が怒鳴った。
「神敵どもを近づけるな!」
4人の神官のうち、最も若い1人がびくりと肩を揺らした。
それでも彼は、白い光から目を逸らさなかった。
やがて両腕を下ろし、俯いたまま一歩後ろへ退く。
「……申し訳、ございません」
「貴様……」
残る神官たちも互いの顔を見合わせた。
1人が目を伏せる。
さらに1人が、聖具の前から離れる。
最後の神官はしばらく動けずにいたが、近衛騎士の足音が迫ると、唇を噛んで道を開けた。
もはや、ローディス副神官長を守る者はいない。
近衛騎士たちが、左右から迫る。
その時。
ローディス副神官長が笑った。
先ほどまで浮かべていた、慈愛を装う微笑みではない。
嘲りと憎悪を隠そうともしない、歪んだ笑みだった。
「神を畏れぬ愚か者どもめ」
右手が、胸元の黄金の聖印を強く握りしめる。
「その手を離しなさい!」
セレナ殿下が命じた。
近衛騎士が、一斉に踏み込む。
けれど、ローディス副神官長の指はすでに聖印へ食い込んでいた。
黄金の表面に、細い亀裂が走る。
不吉な破砕音が、静まり返った大広間へ響き渡った。
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この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」




