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第10話 黒薔薇は神の嘘を斬る 後編

 ローディス副神官長の手の中で、黄金の聖印が砕けた。


 亀裂の奥から覗いたのは、金属ではない。

 煤を固めたような小さな核が、鼓動を刻むように脈打っていた。


「全員、離れなさい!」


 セレナ殿下の命令が響き、近衛騎士たちが一斉に足を止める。


 次の瞬間、核から濁った波紋が広がった。


 水晶灯が明滅し、大広間の扉が重い音を立てて閉ざされる。

 甘く重い香りが、息を吸う間もなく広間を満たした。


「香です! 吸い込まないでください!」


 クラリス様が叫ぶと同時に、薬箱から布を取り出し、ミリア様の口元を覆った。

 わたくしも袖で鼻と口を押さえたが、わずかに吸い込んでしまったらしい。


 視界の端が霞み、思考へ薄い膜がかかる。

 身体が重い。

 それとは別に、頭の奥へ自分ではない声が入り込んできた。


 逆らうな。

 考えるな。

 頭を垂れろ。


 床の装飾に沿って煤色の光が這い、広間にいる者たちの影へ絡みつく。


 影から足へ。

 足から背へ。


 見えない手が関節を折り曲げるように、身体を床へ押しつけてきた。


「っ……!」


 王国法務卿が机へ手をついた。

 近衛騎士たちは剣を杖代わりに踏みとどまろうとしたが、1人、また1人と膝を落としていく。

 貴族たちから苦しげな声が上がった。


 国王陛下も玉座の肘掛けを強く掴み、身体を沈めようとする力へ耐えている。

 セレナ殿下は片膝をつきながらも、顔を伏せなかった。


「これは……神罰などでは、ありませんわね」


 エルネスタ様が扇を大きく広げ、口元を覆う。

 床へ片手をついたまま、それでも周囲の貴族たちへ声を張った。


「皆様、口元を覆いなさい! ローディス副神官長による攻撃です! 神罰だと思い込んではなりませんわ!」


 恐怖へ名を与えれば、人はその正体を見失わずに済む。

 エルネスタ様は言葉で、広間に満ちかけた混乱を押しとどめていた。


「その通りだ」


 ローディス副神官長が、砕けた聖印を掲げる。

 慈愛を装った微笑みは、もうどこにもなかった。


「迷える者は導かれねばならない。王も、貴族も、聖女も同じだ。与えられた役目を果たし、正しき声に従えばよい」


 核が大きく脈打つ。


「跪け」


 その一言が、広間の空気を震わせた。


 背中へかかる圧力が増し、関節が悲鳴を上げる。

 同時に、思考を覆う霞が濃くなった。


 もう抗わなくていい。

 従えば楽になる。

 刀を捨ててしまえ。


 わたくしの膝が、わずかに沈んだ。


 なるほど。

 香で考える力を鈍らせ、術式で身体を押さえつける。


 抵抗できなくなった者へ、服従だけが救いだと思い込ませる。

 それが、この男の祈りらしい。


「ミリア様……!」


 クラリス様の声が聞こえた。


 ミリア様は床へ両手をつき、浅い呼吸を繰り返している。

 空色の瞳が苦痛に揺れていた。


「祈りなさい、聖女よ」


 ローディス副神官長が告げる。


「神へ背いた罪を認め、教えられた通りに赦しを乞うのだ」


 ミリア様の唇が震えた。


 彼女の意思を奪い続けてきた言葉。


 わたくしは彼女を見つめる。


「ミリア様」


 名だけを呼んだ。


 立ちなさいとも、抗いなさいとも言わない。

 ここで選ぶのは、彼女自身だ。


 ミリア様の指が、手首の守り紐へ触れた。


 震えながら息を吸い、ゆっくりと顔を上げる。


「……嫌です」

「何?」

「わたしは、もう……教えられた通りには祈りません」


 声は細い。

 けれど、ローディス副神官長の命令に押し潰されることなく、大広間へ届いた。


「祈り方も、信じるものも、わたしが自分で決めます」


 真実の聖印が、白い光を放った。


 先ほどとは異なり、白光は水晶の内側に留まらなかった。


 広間へ溢れた光が、床を這う呪いの輪郭を鮮明に浮かび上がらせる。

 そのすべてが、ローディス副神官長の掌にある核へ繋がっていた。


「リシア様!」


 ヴィオラ様が、手帳を胸へ抱いたまま顔を上げる。


「副神官長様が命令するたび、あの核から広がった呪いが強く脈打っています!」


 呪いは無数に枝分かれしている。

 けれど、根は1つ。


 わたくしは息を整えた。


「クラリス様。ミリア様をお願いいたします」

「承知しました」


 クラリス様がミリア様の肩を支え、エルネスタ様も反対側から手を添える。


 ミリア様の指は、まだわたくしのドレスの裾を掴んでいた。

 わたくしがその手へ触れようとすると、彼女は自ら指を解いた。


「行ってください、リシア様」


 恐怖は消えていない。

 それでも彼女は、自分を守るためにわたくしを縛ろうとはしなかった。


「ええ」


 わたくしは立ち上がる。


 肩へ岩を載せられたような重みがかかり、膝を折れという命令が頭の奥で繰り返される。


 それでも、一歩を踏み出した。


 ローディス副神官長の顔が歪む。


「なぜ立てる」

「立つと決めたからですわ」

「選ぶ自由など、人を迷わせるだけだ。従っていれば、傷つかずに済んだものを」


 さらに一歩、前へ進む。

 足元へ絡みついた呪いが、靴を床へ縫いつけようとした。


 鞘で払い、間合いを縮める。


「傷つかぬために、自分であることまで捨てろと?」

「人は己で選べば、必ず誤る!」

「ええ。迷いもすれば、誤りもするでしょう」


 核が脈打つ。


 身体へかかる圧力がさらに増し、視界が大きく揺れた。


 それでも、足は止めない。


「だからといって、その道をあなたが決めてよい理由にはなりません」

「跪け!」


 床が軋み、広間のあちこちから苦鳴が上がる。


 わたくしの身体も深く沈んだ。

 けれど、膝は床へつかない。


「お断りしますわ」


 左手で鞘を押さえる。

 右手を柄へ添えた。


 斬るべきものは、ローディス副神官長ではない。

 煤色の核ですらない。


 あの男の命令と、この場にいる者たちの身体と意思を無理に結びつけた、支配の縁。

 その繋がりだけを断つ。


「人の意思を奪うことを、救いとは呼びません」


 ローディス副神官長が後ずさる。


「来るな……!」


 ようやく、その声に恐怖が混じった。


 わたくしは踏み込む。


「クロガネ流抜刀術――」


 鞘走る音が、重圧に沈んだ空気を裂く。


縁斬り(えにしぎり)


 銀の軌跡が、煤色の核から四方へ広がる呪縛を横切った。


 黒椿の刃は、ローディス副神官長の身体にも、手の中の核にも触れていない。

 斬ったのは、命じる者と従わされる者を結ぶ偽りの縁。


 一瞬の静寂。


 次いで、床を覆っていた呪いが、根元から一斉に断ち切られた。


 身体を押さえつけていた圧力が消える。

 思考を覆っていた霞が晴れ、誰かの命令ではない呼吸が胸へ戻ってきた。


 閉ざされていた扉が開き、水晶灯が元の明るさを取り戻す。

 大広間のあちこちで、深く息を吸う音が重なった。


 支配する相手を失った煤色の核が、ローディス副神官長の手の中で崩れ、灰となって床へ落ちる。

 彼は呆然と、自分の掌を見つめていた。


「導きを失えば、人は迷う……」

「迷っても、自分で選びます」


 ミリア様の声だった。


 クラリス様たちの手を借りながら、ゆっくりと立ち上がっている。


 まだ足は震えていた。

 それでも、自分の足で床を踏みしめた。


「祈りは、誰かに命じられるものではありません」


 ローディス副神官長が、信じられないものを見るようにミリア様を見上げる。


「わたしは、あなた方のために聖女になったのではありません」


 ミリア様は守り紐を握り、はっきりと言った。


「苦しんでいる人を助けたいと思ったから、祈ったのです」

「ローディスを拘束しなさい」


 セレナ殿下が立ち上がる。


「今度こそ、聖印の欠片にも触れさせてはなりません」

「御意!」


 解放された近衛騎士たちが、ローディス副神官長を左右から取り押さえた。


 砕けた黄金の聖印を回収し、両手へ拘束具を嵌める。


 ローディス副神官長は抵抗しなかった。

 ただ、自分へ背を向ける神官たちと、ミリア様を交互に見つめていた。


「連行せよ」


 国王陛下の命令を受け、近衛騎士たちがローディス副神官長を大広間から連れ出していく。

 神官たちは、誰ひとりとして彼を庇わなかった。


 重い扉が閉じる。


 広間に残されたのは、白く輝く真実の聖印と、張りつめていた糸が切れた後のような静けさだった。


「リシア様」


 振り返ると、ミリア様がこちらへ歩いてくる。

 足取りはまだ頼りない。


 わたくしは手を差し出しかけ、途中で止めた。

 今の彼女が、自分で歩こうとしていることに気づいたからだ。


 ミリア様は一歩ずつ進み、わたくしの前へ立った。


「お怪我はございませんか?」

「はい」


 彼女は自分の足で立ったまま、微笑んだ。


「まだ少し怖いです。でも、大丈夫です」

「そうですか」


 わたくしは黒椿を鞘へ納める。


 澄んだ音が、静けさを取り戻した大広間へ響いた。


 ミリア様は、白い光を放つ聖印へ目を向ける。


「わたしは、もう誰かに決められた言葉では祈りません」


 守り紐へ触れ、ゆっくりと息を吸う。


「これからは、自分の言葉で祈ります」


 その声はもう、誰にも命じられていなかった。

「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。


 この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」

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