エピローグ 聖女は黒薔薇の隣を選ぶ
ローディス副神官長が拘束されてから、3日が過ぎた。
砕けた黄金の聖印は王宮魔導師団へ引き渡され、バルガス卿とローディス副神官長は、それぞれ厳重な監視下で取り調べを受けている。
クレメル香油商会の帳簿は押収され、大神殿に対しても、王国法務院による調査が始まった。
すべての罪が明らかになり、正式な裁きが下るまでには、まだ時間がかかるだろう。
それでも、王宮を覆っていた淀んだ空気は、ようやく薄れ始めていた。
そして少なくとも、ミリア様を大神殿へ連れ戻そうとする者は、もういない。
わたくしたちは今、王宮の小謁見室へ呼ばれている。
正面には国王陛下。その隣にはセレナ殿下とエリオット殿下が控え、王国法務卿も壁際で書類を手にしていた。
わたくしの隣では、ミリア様が緊張した様子で両手を重ねている。
淡い空色のドレス。
その手首には、わたくしが貸した黒と深紅の守り紐が、今も結ばれていた。
王宮へ向かう前には、父からの返書も受け取っている。
ミリア様が望むのであれば、クロガネ公爵家の客人として迎え入れること。彼女が自ら未来を選べるよう、必要なものはすべて整えること。
短い文面ではあったが、父らしい返答だった。
「まず、王家を代表して礼を言おう」
国王陛下が、重々しく口を開いた。
「リシア=クロガネ。そなたが王太子に掛けられた呪いを見抜き、聖女を守り、王宮に潜んでいた企てを暴かなければ、被害はさらに広がっていたであろう」
「身に余るお言葉にございます」
静かに頭を下げる。
「わたくしは、斬るべきものを斬っただけですわ」
「その結果、王国が救われたのだ。謙遜だけで済ませられては、褒賞を与える側が困る」
セレナ殿下が口元へ笑みを浮かべた。
「お父様。リシア様へ金銀を積み上げても、あまり喜ばれないと思いますわ」
「セレナ」
「間違ってはおりませんでしょう?」
国王陛下はわずかに眉を寄せた後、諦めたように息を吐いた。
そのやり取りに、ミリア様の指から少しだけ力が抜ける。
「褒賞については、クロガネ公爵とも改めて協議しよう」
国王陛下は咳払いをすると、再び厳かな表情へ戻った。
「そして、リシア=クロガネ。そなたの名誉回復を、王家が正式に宣言する」
室内の空気が引き締まる。
「王太子による婚約破棄の宣言と、そなたへ向けられた数々の非難は、呪詛によって歪められた状況下で発せられたものだ。そなたにも、クロガネ公爵家にも非がなかったことを、王国の名において明らかにしよう」
「ありがたく存じます」
失った婚約を取り戻したいとは思わない。
けれど、クロガネの名に着せられた汚名が、ようやく公の場で拭われる。
胸の奥に残っていた硬いものが、ほんの少しだけほどけた。
「リシア」
エリオット殿下が、静かにわたくしの名を呼んだ。
以前よりも、少し痩せたように見える。
呪いから解放されても、自らの口で何を告げ、何をしてしまったのか。その記憶まで消えるわけではない。
「改めて、謝罪させてほしい」
エリオット殿下が深く頭を下げる。
「呪いを言い訳にはしない。私の口から出た言葉と、その結果に、王太子として責任を負う」
わたくしは黙って、その言葉を受け止めた。
失ったものは、もう元には戻らない。
だからといって、過去をなかったことにする必要もなかった。
「では、どうか王太子として責任をお果たしくださいませ」
「必ず」
殿下が顔を上げる。
それ以上、互いに告げるべき言葉はなかった。
婚約は、正式に解消されたままとなった。
わたくしたちは過去へ戻るのではなく、それぞれが背負うべきものを抱えて、別の道を歩いていく。
「さて」
国王陛下の視線が、わたくしの隣へ移った。
「聖女ミリア=ベル」
「はい」
ミリア様の肩が、わずかに強張る。
「大神殿がそなたへ行った行為は、信仰の名を借りた許されざるものだった。そなたを大神殿へ戻すことはない」
空色の瞳が、大きく見開かれた。
「聖女として王宮の保護を受ける道もある。別の修道院や、後見となる貴族家を選ぶこともできよう」
国王陛下はそこで言葉を切った。
「そなたは、どこで暮らすことを望む?」
ミリア様が息を呑んだ。
今回、答えを与える者はいない。
彼女自身が、これからの居場所を選ぶのだ。
空色の瞳が不安そうに揺れ、それから、わたくしへ向けられた。
助けを求める眼差しではない。
胸の内に生まれた答えを確かめるような、真っ直ぐな視線だった。
「わたしは……クロガネ公爵邸へ戻りたいです」
小謁見室に、ミリア様の声が響く。
「リシア=クロガネの庇護を求めるということか?」
「それも、あります」
一度頷き、それでもミリア様は言葉を終えなかった。
「あの邸では、誰もわたしに、聖女らしく話せとは言いませんでした」
守り紐へ指先が触れる。
「祈れとも、笑えとも、黙れとも命じられませんでした。わたしが何を望んでいるのか、待っていてくださいました」
声は、まだ少し震えている。
それでも国王陛下から目を逸らすことなく、ミリア様は続けた。
「だから、あの場所へ戻りたいです」
胸の前で重ねられた手へ、力が込められる。
「これからどう生きるのかを、自分の言葉で考えられる場所へ」
それは、誰かから与えられた答えではない。
ミリア様が選んだ、これからの居場所だった。
「リシア=クロガネ」
国王陛下が、わたくしを見る。
「聖女の望みを受け入れられるか?」
「もちろんですわ」
迷う理由などなかった。
「父からも、ミリア様がお望みならばお迎えするよう申しつかっております。クロガネ公爵家の名において、彼女の安全と自由をお守りいたします」
「自由を、か」
「守るという名目で意思を奪っては、大神殿と変わりませんもの」
国王陛下は、わずかに目を細めた。
「よかろう。聖女ミリア=ベルの保護は、本人の希望に基づき、クロガネ公爵家へ委ねる」
「ありがとうございます」
ミリア様が深く頭を下げた。
顔を上げると、今度はわたくしだけに届くほどの声で付け加える。
「それに……リシア様のおそばに、いたいですから」
「わたくしのそばに?」
身体の具合は、まだ万全ではない。
大神殿に関する聴取も、しばらく続くだろう。慣れ親しんだ者が近くにいる方が安心できるに違いない。
「ええ。見知らぬ場所へ移るより、クロガネ邸で静養なさる方がよろしいでしょう」
「……はい」
なぜか、セレナ殿下が額へ指を当てた。
「リシア様は、本当にリシア様ですわね」
「何か問題でも?」
「いいえ。今は、そのままでいてくださいませ」
意味は分からなかったが、ミリア様が微笑んでいるので、悪いことではないのだろう。
◇ ◇ ◇
謁見を終えたわたくしたちを、小謁見室の外で待っていた者たちがいた。
「お話は無事に終わりまして?」
エルネスタ様が、扇を開きながら尋ねる。
その隣には、クラリス様とヴィオラ様も並んでいた。
「ミリア様は、クロガネ公爵邸へ戻ることになりましたわ」
「まあ。王宮へ残るより、ずっと賢明な選択ですわね」
エルネスタ様は、いかにも予想していたという顔で微笑む。
ヴィオラ様は、少し離れたところからミリア様を見ていた。
わたくしと目が合うと、慌てて背筋を伸ばす。
「あ、あの……ミリア様」
「はい」
「また、お会いしても……よろしいでしょうか」
胸元の手帳を抱き締め、勇気を振り絞るように続ける。
「事件の証言ではなくて、その……普通に、お話をしてみたくて」
ミリア様の表情が、柔らかく綻んだ。
「わたしも、ヴィオラ様とお話ししたいです」
「ほ、本当ですか?」
「はい。手帳には、いつも何を書いていらっしゃるのかも気になります」
ヴィオラ様の顔が、一気に赤くなる。
「そ、それは……お見せできるところだけでしたら」
「見せられないところには、何が書かれているのかしら」
エルネスタ様が楽しそうに尋ねる。
「な、何もございません!」
その反応では、何かあると言っているようなものだ。
クラリス様が、小さく息を吐いた。
「次は、事件の証拠ではなく、お菓子について記録できるとよいのですが」
「では、正式なお茶会を開きませんこと?」
エルネスタ様が、すぐに扇を閉じる。
「事件の相談でも、証拠集めでもないお茶会ですわ」
「わ、わたしも参加してよろしいでしょうか」
「もちろんです」
答えたのはミリア様だった。
「皆様と、ゆっくりお話ししたいです」
エルネスタ様が、満足そうに頷く。
「では、決まりですわね」
どうやら、わたくしの知らないところで次のお茶会が決定したらしい。
けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「エルネスタ様。クラリス様。ヴィオラ様」
3人の視線が集まる。
「改めて、お礼を申し上げます」
扇が止まり、クラリス様が目を瞬き、ヴィオラ様の腕からわずかに力が抜けた。
「皆様のお力がなければ、ローディス副神官長の嘘を、公の場で暴くことはできませんでした」
呪いを斬ることなら、わたくしにもできる。
けれど、斬った後に残る真実を、人々へ示すことはできなかった。
噂を読み、証拠を調べ、記憶を言葉に変えた彼女たちがいたからこそ、神殿は逃げ道を失ったのだ。
「本当に、ありがとうございました」
一礼すると、しばらく誰からも返事がなかった。
やがてエルネスタ様が、穏やかに笑う。
「そのお礼は、お茶会への招待で受け取りますわ」
◇ ◇ ◇
「お帰りなさいませ、リシアお嬢様」
クロガネ公爵邸へ戻ると、玄関前でグレイが深く頭を下げた。
そして、隣に立つミリア様へ顔を向ける。
「お帰りなさいませ、ミリア様」
ミリア様が、玄関の前で足を止めた。
初めてこの邸へ来た時、彼女は大神殿から逃れたばかりだった。
ここにいてよいのかも分からず、誰かの許しを待つように立っていた。
今は違う。
「ただいま、戻りました」
自ら選んだ場所へ帰ってきた者の言葉だった。
グレイの目元が、わずかに柔らかくなる。
「お部屋は、以前のまま整えてございます」
「ありがとうございます」
「夕食まで、まだ少々お時間がございます。お茶をご用意いたしましょうか」
「お願いするわ」
わたくしたちは、庭園を望む居間へ向かった。
窓の外では、夕暮れの光を受けた黒薔薇が、静かに風へ揺れている。
長椅子へ腰を下ろすと、ミリア様は向かいの椅子ではなく、わたくしの隣へ座った。
以前より、ほんの少しだけ距離が近い。
「リシア様」
「はい」
ミリア様は手首の守り紐を解き、両手で大切そうに持ち上げた。
「こちらを、お返ししなければと思って」
「まだ、よく眠れていないのでしょう?」
「それは……」
視線が泳ぐ。
図星らしい。
「よく眠れるようになるまで、お持ちなさいと申し上げたはずですわ」
「ですが、事件は終わりました」
「事件が終わっても、無理に元へ戻る必要はございません」
守り紐を受け取らず、ミリア様の手首へ結び直す。
「返したいと思える日まで、お持ちくださいませ」
「では……もう少しだけ、お借りします」
「ええ」
グレイが運んできた茶器から、穏やかな湯気が立ち上った。
甘い香りが漂った瞬間、ミリア様の肩が強張る。
わたくしは何も尋ねず、彼女の前から紅茶を退けた。
代わりに、新しい杯へ水を注ぐ。
「今日は、こちらになさいますか?」
ミリア様は水の入った杯を見つめ、やがて小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
無理に慣れる必要はない。
飲みたいと思える日が来た時に、もう一度選べばよいのだ。
「リシア様」
「何でしょう」
「わたしは、まだ何をしたいのか、よく分かりません」
ミリア様は、窓の外の黒薔薇を見つめた。
「聖女として、これから何ができるのかも。大神殿を離れたわたしが、祈り続けてもよいのかも」
「分からないのでしたら、これから考えればよろしいのですわ」
「間違えても、よいのでしょうか」
「もちろんです」
わたくしは紅茶のカップを置いた。
「間違えたと気づいた時に、もう一度選び直せばよろしいでしょう」
ミリア様が、こちらを向く。
「選び直しても、よい……」
「一度選んだ道だけを、生涯歩き続ける必要はございませんわ」
少なくとも、わたくしは誰かの決めた筋書きに従うつもりなどない。
ミリア様はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。
「では、最初に1つだけ、決めてもよろしいでしょうか」
「何をです?」
「これからも、リシア様のお隣にいてもよろしいですか?」
すでに隣へ座っているのに、改めて許可を求める必要があるのだろうか。
けれど、ミリア様にとっては大切な選択なのかもしれない。
「もちろんですわ」
そう答えると、ミリア様は守り紐へ触れながら、幸せそうに微笑んだ。
窓の外では、黒薔薇の花びらが夕風に揺れている。
その日、聖女は初めて、自分で選んだ場所へ帰った。
――黒薔薇の隣へ。
――第1部・王宮陰謀編 完
「わたくしの人生を一冊の本に例えるならば、これにて第1部が完結いたしましたわ。
ここまでお付き合いくださった皆様には、心より感謝申し上げます。
もし、この先のわたくしの人生も気になるとおっしゃるのでしたら、感想や評価、ブックマークなどで応援のお手紙をお寄せくださいませ。
皆様のお声が届きましたら、わたくしも再び筆を執ることを検討いたしますわ。
それでは皆様、ごきげんよう」




