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第7話 黒薔薇は断罪の舞台へ上がる 前編

 王宮の大広間に、弦楽の調べはなかった。


 磨き抜かれた白亜の床。

 天井から降り注ぐ水晶灯の光。

 壁際に並ぶ銀の燭台。


 数日前、王太子殿下の成人を祝う舞踏会が開かれた場所には、今や華やかな楽団も、踊る貴族たちの姿もない。


 広間の中央には証言台が置かれ、その周囲を囲むように、王族、大神殿の神官、王国法務官、そして審問への立ち会いを許された貴族たちの席が並べられていた。


 優雅な舞踏会のための場所は、誰かを裁くための舞台へ姿を変えている。

 また、この大広間ですか。

 どうやらこの場所は、よほどわたくしを断罪したいらしい。


「リシア様」


 隣から、小さな声が聞こえた。


 ミリア様だった。

 今日の彼女は、聖女として与えられた白一色の衣装ではない。

 淡い空色を基調としたドレスに、クロガネ家が用意した白い肩掛け。金の髪は丁寧に整えられ、その手首には黒と深紅の守り紐が結ばれている。


 けれど、その指先はまだ震えていた。

 広間へ入れば、何十もの視線が彼女へ向けられる。

 聖女、被害者、偽物、神殿に背いた娘――誰もが彼女を、自分に都合のよい名で呼ぼうとするだろう。


「戻りますか?」


 わたくしが尋ねると、ミリア様は一瞬だけ目を伏せた。

 それから、守り紐へ触れる。


「……怖いです」

「ええ」

「でも、戻りたくありません」


 声は震えていた。

 けれど、逃げてはいなかった。


「わたしの名前を、また誰かに勝手に使われるのは嫌です」


 わたくしは静かに頷く。


「では、参りましょう」


 ミリア様が顔を上げた。


「怖くても、大丈夫ですわ」

「……はい」


 彼女は守り紐を握りしめ、自分の足で大広間へ踏み入れた。


 その瞬間、ざわめきが波のように広がる。


「クロガネの黒薔薇だ」

「聖女を連れ去ったというのは本当なのか?」

「王女殿下まで、クロガネ家に味方しているらしい」

「後ろにいる令嬢たちは誰だ?」


 好きに言えばいい。

 噂とは、黙らせようとすればするほど大きくなるものだ。

 ならば今日は、その噂がどこまで真実に耐えられるのか、見届けるとしよう。


 わたくしの右隣にはミリア様。

 少し後ろには、銀髪を揺らすセレナ殿下。


 さらに、緋色のドレスと扇を携えたエルネスタ様。薄藍のドレスに薬箱を持つクラリス様。手帳を胸元へ抱いたヴィオラ様が続いている。


 お茶会の席では、紅茶と焼き菓子を前にしていた令嬢たち。

 けれど今日、彼女たちが持つのは、神殿の嘘を斬るための刃だった。


 大広間の最奥には国王陛下が座していた。

 その右手側には、王太子エリオット殿下。


 殿下はわたくしたちが入ってくるのを見ると、申し訳なさそうに視線を伏せた。

 数日前まで、わたくしの婚約者だった方。


 けれど今の殿下に、声をかけるつもりはない。

 今日この場で問われるべきなのは、すでに終わった婚約ではない。


 ミリア様の名と、大神殿の嘘だ。


 対する大神殿側の席には、白と金の神官服をまとった者たちが整然と並んでいる。

 その中央に座る男の胸元で、黄金の聖印が水晶灯の光を弾いていた。

 翼を広げる女神を象った、古びた意匠。

 神官服の飾りにしては、妙に大きく、物々しい。


 さらに神官たちの列の後ろには、4人の神官が、白布を掛けた台座を守るように立っていた。

 中に何が置かれているのかは見えない。

 けれど、公開審問へ持ち込む品にしては、ずいぶんと厳重だ。


「静粛に」


 王国法務卿の声が響いた。


 広間を満たしていた囁きが、ゆっくりと消えていく。


「これより、大神殿から申し立てられた、聖女ミリア=ベル嬢の処遇ならびにクロガネ公爵家による不当連れ去りに関する公開審問を開始する」


 法務卿が書面へ視線を落とす。


「申し立てを行った大神殿を代表し、ローディス副神官長。前へ」

「はい」


 神官たちの列から、1人の男が進み出た。


 年齢は50を越えているだろう。

 細く整えられた灰色の髪。穏やかに細められた瞳。口元には、慈愛を形だけ貼りつけたような微笑みが浮かんでいる。


 あの夜の舞踏会。

 バルガス卿が呪いを発動させる直前、その背後で袖口へ触れていた男。


 大神殿副神官長、ローディス。


 ヴィオラ様の指が、手帳の上でわずかに強張る。

 どうやら、記憶に間違いはないらしい。


「大神殿からの申し立てを申し上げます」


 ローディス副神官長は、広間全体へ聞かせるように声を張った。


「リシア=クロガネ公爵令嬢は、王宮にて保護されていた聖女ミリア=ベル様を、正当な許可なくクロガネ公爵邸へ連れ去りました」


 連れ去った、ですか――なるほど、わたくしがミリア様へ手を差し出し、彼女が自らその手を取った事実は、ずいぶんと綺麗に省かれている。


「さらに、王宮内において大神殿が施した神聖なる祈祷術式を刀で破壊し、神官たちを威圧。現在は聖女様を公爵邸に拘束し、大神殿に不利な証言をするよう強要しております」


 広間にざわめきが起こる。


 わたくしは、思わず小さく息を吐いた。

 実によくできた筋書きだ。


 ミリア様は怯える被害者。

 大神殿は彼女を救おうとする善良な保護者。

 そして、わたくしは刀と権力で聖女を支配する黒髪の魔女。


 舞踏会で使った脚本の配役を、少し入れ替えただけではないか。


「以上の行為について、大神殿はクロガネ公爵家へ聖女様の即時引き渡しを求めます。また、リシア=クロガネ公爵令嬢には、神殿術式の破壊および聖女への精神的強要について正式な謝罪を――」


「お待ちなさい」


 涼やかな声が、副神官長の言葉を断った。


 セレナ殿下だった。

 王女殿下は席へ向かうことなく、わたくしたちの隣に立っている。


「ローディス副神官長。ずいぶんと興味深い申し立てですこと」

「セレナ殿下。これは大神殿とクロガネ公爵家の問題でございます」

「いいえ」


 セレナ殿下は微笑んだ。


「事件が起きたのは王宮。ミリア様は王宮の保護下にあり、リシア様を彼女のもとへ案内したのは、わたくしの命令を受けた侍女と近衛騎士です」


 ローディス副神官長の眉が、わずかに動く。


「そして、ここは大神殿ではありません」


 セレナ殿下の紫の瞳が、冷たく細められた。


「王宮大広間です。王家の許可なく、あなた方だけで罪人を決めることはできませんわ」

「我々は罪人を決めているのではございません」


 ローディス副神官長は微笑みを崩さなかった。


「神の御心に従い、聖女様を正しき場所へお戻ししようとしているだけです」

「正しき場所、ですか」


 セレナ殿下の合図を受け、王国法務官が1枚の書面を広げた。


「昨日、クロガネ公爵邸を訪れた大神殿の使者は、王女殿下の御前で、クロガネ公爵家を神敵として告発すると発言。さらにリシア=クロガネ公爵令嬢を『黒髪の魔女』と呼び、聖女ミリア=ベル嬢の即時引き渡しを要求しております」


 貴族たちの間に、先ほどとは異なるざわめきが広がる。


 公爵家を神敵と呼ぶ。

 王女殿下の目の前で。


 それがどれほど重い意味を持つのか、ここにいる者たちなら理解できる。


「その使者が、多少感情的になったことは認めましょう」


 ローディス副神官長は、動じた様子もなく答えた。


「ですが、末端の神官が口にした言葉と、聖女様が不当に拘束されている事実は別問題です」


 切り捨てるつもりか。

 昨日の使者も、バルガス卿と同じ。

 役目を終えれば、尻尾として切られる。


 副神官長の表情には、末端の者を守ろうという意思など、欠片も見えなかった。


「不当に拘束されているかどうかは、ご本人へ尋ねればよいのではありませんか?」


 わたくしが口を開くと、広間の視線が一斉にこちらへ向いた。

 ローディス副神官長は、初めてわたくしを正面から見る。


「聖女様は、あなたを恐れておられます」

「そうなのですか、ミリア様?」


 わたくしは隣へ尋ねた。


 ミリア様の肩が、わずかに揺れる。

 けれど、彼女が答えるより早く、ローディス副神官長が声を重ねた。


「リシア=クロガネ公爵令嬢。聖女様へ発言を強要するのは、お控えいただきたい」

「尋ねただけですわ」

「あなたが隣に立っている限り、聖女様は自由に答えられないでしょう」


 実に便利な理屈だ。


 ミリア様が神殿に有利な証言をすれば、それが彼女の本心。

 神殿に不利な証言をすれば、わたくしに強要された言葉。


 最初から、彼女自身の意思を認めるつもりなどないのだ。


「では、まずは客観的な事実から確認いたしましょう」


 王国法務卿が言った。


「大神殿側は、王宮西棟の祈祷室で使用された香について、聖女ミリア=ベル嬢の精神を安定させるためのものだったと主張している。それを証明する者は?」

「私が」


 神官たちの後方から、商人風の男が進み出た。


 丸みを帯びた身体。

 指にはいくつもの宝石。

 鼻を刺すほど強い香油の匂いを漂わせている。


「クレメル香油商会の主人、ハインツ=クレメルでございます」


 エルネスタ様が扇の陰で、小さく笑った。

 獲物が自分から罠へ入ってきた時の顔だ。


「当商会は、大神殿へ長年香を納めております。王宮西棟で使用されたものも、聖女様の不安を和らげるための、ごく一般的な鎮静香にございます」

「思考や判断力へ影響する成分は?」

「ございません」

「抵抗する気力を削ぐ作用も?」

「断じてございません」


 クレメルは迷いなく答えた。


 おそらく、何度も練習してきたのだろう。

 言葉には淀みがなく、表情にも怯えはない。


「ミリア様の衣服と、大神殿から届けられた香袋。双方から採取した香粉は、香りこそ異なります」


 クラリス様が静かに立ち上がった。

 その手には、昨日採取した香粉を収めた小瓶がある。


「ですが、人の意思を鈍らせる成分の配合と製法は同じです」


 同時に、エルネスタ様が扇を閉じた。


 乾いた音が広間に響く。

 そして扇の陰から取り出した1枚の書面を、王国法務官の机へ滑らせた。


「こちらは、クレメル香油商会が王国商業院へ提出した製法登録書ですわ」


 クレメルの視線が、小瓶と書面の間を揺れる。


「鎮静作用を持つ香へ、人の意思を鈍らせる成分を混ぜる特殊な製法」


 クラリス様が小瓶を光へ透かす。


「この製法を登録している商会は、王都ではクレメル香油商会だけです」

「なぜ侯爵令嬢が、そのような書面を……」


 クレメルが掠れた声を漏らす。


 エルネスタ様はにこやかに微笑んだ。


「噂の出所を追うのなら、商会の登録書まで辿るのは当然でしょう?」

「そ、その書面が本物であるという保証が――」

「王国商業院の印章がございます」


 セレナ殿下が即座に告げる。


「記録官。書面を確認し、証拠として記録へ」

「承知いたしました」


 クラリス様が小瓶を掲げ、エルネスタ様が証拠書類を差し出し、セレナ殿下がそれを王国の正式記録へ変える。

 3人の動きに、迷いはなかった。

 昨夜のお茶会で、それぞれの役割を確かめたからだ。


「加えて」


 エルネスタ様は、今度はクレメル本人へ扇を向けた。


「あなたの商会の番頭は、舞踏会の翌朝だけで3度、大神殿の裏門へ出入りしております」

「商会の者が取引先へ出向くことに、何の問題があるのです?」

「問題などございません」


 エルネスタ様は笑みを深めた。


「ですが、単なる一般的な鎮静香だというには、ずいぶんと慌ただしく打ち合わせをなさっていたようですわね」

「わ、私は……」


 クレメルの額に、汗が滲んだ。


 助けを求めるように大神殿の席を見る。

 けれど、ローディス副神官長は視線すら返さなかった。

 その横顔には、役目を終えた駒を顧みる気配など、初めからなかった。


 そして、わたくしは気づく。


 香の製法を暴かれようと、商会との繋がりを示されようと、ローディス副神官長にはまだ余裕がある。


「……なるほど」


 ローディス副神官長が、ゆっくりと口を開いた。


「香に、通常より強い鎮静作用があったことは認めましょう」


 クレメルが驚いたように振り返る。


「ふ、副神官長様……!」


 ローディス副神官長は、クレメルを見なかった。


「ですが、それが何だというのです?」


 広間が静まる。


「強い恐慌状態にあった聖女様を守るため、必要な処置として使用した。聖女様を鎮めるための香であると、大神殿は初めから申し上げています」

「意思を鈍らせる成分が含まれていたのですよ」


 クラリス様が静かに言う。


「薬とは、使い方次第で毒にもなります」


 ローディス副神官長は微笑んだ。


「必要な処方であったか否かは、薬学を嗜む伯爵令嬢ではなく、聖女様の状態を診た神官たちが判断することです」


 証拠を否定するのではない。

 証拠の意味を、自分たちに都合よく塗り替える。


 それがこの男の戦い方らしい。


「そこに悪意があったとするのは、令嬢方の憶測にすぎません」

「ならば、祈祷室の結界についてはいかがです?」


 セレナ殿下が尋ねる。


「あれもまた、聖女様を守るためのものです」

「王宮内で、王家の許可を得ずに展開した術式が?」

「緊急事態でしたので」

「ミリア様本人の許可は?」


 ローディス副神官長は答えなかった。


 セレナ殿下の紫の瞳が、冷たく細められる。


「結局、あなた方は一度も、本人へ尋ねていないのですね」


 貴族たちの間から、囁きが起こる。


 ローディス副神官長は、しばらく黙っていた。

 追い詰められたからではない。


 次の一手を、最も効果的な瞬間まで待っているように見えた。


 やがて、副神官長の目がミリア様へ向けられる。

 穏やかな微笑みが、再びその顔に戻った。


「では、ご本人に証言していただきましょう」


 ミリア様の指が、守り紐を強く握りしめた。


 大広間に集うすべての者が、彼女へ顔を向ける。

 誰もが、それぞれに都合のよい答えを待っていた。


 わたくしは黒椿の柄から、静かに手を離した。

 今ここで神殿の嘘を斬るのは、わたくしの刀ではない。


 彼女自身の言葉だ。


 けれど、もしその言葉を再び奪おうとするものが現れたなら。

 その時は、わたくしが斬る。


 だから今は、彼女を信じて待つ。

「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。


 この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」

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