第6話 黒薔薇はお茶会で刃を研ぐ 後編
神殿の嘘を、彼女たちはそれぞれの刃で切り分けてみせた。
香袋に仕込まれていたものが、ただの見舞いではないと分かった瞬間、サロンの空気は静かに変わっていた。
ここにあるのは、優雅なお茶会ではない。
明日の公開審問に向けた、戦の支度だ。
「ミリア様」
わたくしは、隣に座るミリア様へ声をかけた。
「怖がらせてしまいましたね」
「い、いえ……」
ミリア様は守り紐を握りしめたまま、ゆっくり首を横に振る。
「でも、少しだけ分かりました」
「何がでしょう」
「わたしが怖いと思っていたものは、見えないから怖かったのだと」
ミリア様は、卓上の香袋を見る。
「こうして見つけてもらえるなら……ちゃんと、怖がることができます」
ちゃんと、怖がる。
その言葉に、わたくしは少しだけ目を細めた。
恐れを消すのではなく、恐れるべきものを見極める。
昨日より、ずっと良い目だ。
「あなたがわたくしを悪者にするのではありません。彼らが、あなたの名前を勝手に使うだけですわ」
わたくしは、改めて言った。
「けれど、今のあなたなら分かるでしょう。使われた名前は、取り返せます」
「……はい」
ミリア様は小さく頷いた。
「取り返したいです。わたしの名前を。わたしの言葉を」
その返事はまだ弱い。
けれど、確かに前へ向くための声だった。
セレナ殿下が紅茶を一口含み、優雅にカップを置く。
「では、公開審問に向けて材料を整理しましょうか」
「材料?」
「ええ。神殿が用意するのは断罪の舞台。こちらが用意するのは、嘘を斬るための刃ですわ」
そこからのお茶会は、もはや完全に作戦会議だった。
エルネスタ様は、大神殿が流した噂の経路を書き出した。
クラリス様は、ミリア様の衣服から検出した香と、先ほど届いた香袋の成分を照合した。
ヴィオラ様は、昨夜の舞踏会での人物配置を手帳に再現した。
王太子殿下が婚約破棄を宣言した時、バルガス卿は大広間の西側、柱の陰にいた。
その少し後ろに、大神殿の副神官長。
そして、バルガス卿が術式を発動する直前、副神官長が袖口に触れた。
合図。
その可能性は高い。
茶菓子の隣に並ぶには、いささか物騒な話題ばかりだ。
だが、不思議と悪くない。
これまで、わたくしは斬るべきものを見つけたら、自分で斬ればよいと思っていた。
呪いも、嘘も、筋書きも。
だが、社交界には社交界の戦い方がある。
噂を読む者。
香を暴く者。
場を記憶する者。
王宮の権限を使う者。
そして、守られるだけではなく、自分の名を取り返そうとする者。
「リシア様」
エルネスタ様が扇を閉じた。
「明日の公開審問、わたくしたちも同行いたしますわ」
「危険ですわよ」
「社交界に危険でない場などございません」
エルネスタ様は楽しげに笑う。
「それに、リシア様。社交界の戦場で、刀だけでは足りませんわ」
クラリス様が続ける。
「噂には噂を。証言には証言を。香には分析結果を」
ヴィオラ様が、小さな声で言う。
「わ、わたしも……覚えていることなら、話せます」
ミリア様が守り紐を握りしめた。
「わたしも、行きます」
「ミリア様」
「怖いです。でも……わたしの名前を、また勝手に使われるのは嫌です」
ミリア様は、わたくしを見た。
その瞳はまだ揺れている。
けれど、逃げてはいなかった。
「わたしも、リシア様の隣に立ちたいです」
隣。
またこの方は、真っ直ぐな言葉を使う。
わたくしは少しだけ返答に困った。
困ったけれど、悪い気はしなかった。
「……分かりました」
わたくしは静かに頷く。
「ですが、無理はしないこと。怖くなったら、すぐに下がること。よろしいですか?」
「はい」
ミリア様は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「リシア様がそう言ってくださるなら、怖くなっても大丈夫な気がします」
「怖くならない、ではなく?」
「はい。怖くなっても、大丈夫です」
その答えに、わたくしは小さく目を見開いた。
恐れを消すのではなく、恐れたまま立つ。
昨日より、ずっと良い答えだ。
その時、サロンの外が少し騒がしくなった。
グレイが静かに近づき、わたくしへ耳打ちする。
「お嬢様。大神殿の使者が参りました」
「早いですわね」
「正式な抗議ではなく、大神殿からの最後通告を名乗っております」
「最後通告」
わたくしはカップを置いた。
セレナ殿下が面白そうに微笑む。
「どうします、リシア様。刀を持って出ますか?」
「それが一番早いでしょうけれど」
「ここは、令嬢の武器を試してみませんか?」
セレナ殿下の視線が、エルネスタ様たちへ向く。
なるほど。
わたくしは黒椿から手を離した。
「では、お願いいたします」
玄関広間には、大神殿の使者が2人立っていた。
白と金の神官服。胸元には大神殿の紋章。表情には、怒りと焦りが混じっている。
こちらがサロンから姿を見せると、年若い方の神官が声を荒げた。
「クロガネ公爵家は、ただちに聖女ミリア=ベル様の身柄を大神殿へ引き渡すべきである! さもなくば、大神殿は貴家を神敵として正式に告発する!」
玄関広間の空気が、冷えた。
神敵。
その言葉を、王都の公爵家の玄関で吐いたのだ。
この神官は、その重さを理解しているのか。
理解していないのなら愚かで、理解しているのならなお悪い。
「聖女様は、黒髪の魔女に惑わされているのだ。神殿は、その歪みを正さねばならない!」
ミリア様の指が、ぎゅっと守り紐を握る。
わたくしは一歩前に出ようとした。
けれど、その前に。
「――お黙りなさい、無礼者」
凛とした声が響いた。
セレナ殿下だった。
王女殿下は優雅に歩み出ると、冷ややかな紫の瞳で使者たちを見た。
「わたくしの目の前で、王国の盾たるクロガネ公爵家を神敵と呼ぶのですね。それは大神殿の総意かしら。それとも、そこの哀れな使い走りの妄言?」
「セ、セレナ王女殿下……!」
使者たちの顔から、さっと血の気が引いた。
「しかも、王宮で呪いを斬り、聖女を神殿術式から救ったリシア様を黒髪の魔女と呼ぶ。よほど明日の公開審問で、その言葉を記録に残したいようですわね」
「そ、それは……!」
「まあ」
続いて、エルネスタ様が一歩前に出た。
扇を広げ、口元を隠す。
「大神殿は、クロガネ公爵家の客人を神敵とお呼びになるだけでなく、王女殿下の御前で公爵令嬢を魔女呼ばわりなさるのですね。それはそれは。明日の審問で、そのままご証言いただけます?」
神官の口が止まる。
「今のお言葉、ここにいる全員が聞きましたわ。王女殿下も、ヴェルナー侯爵家のわたくしも、ミード伯爵令嬢も、ランベルト子爵令嬢も」
エルネスタ様は微笑む。
「神殿の使者が、王都貴族の屋敷に乗り込み、正式な審問を待たずに神敵と断じ、魔女と罵った。大変興味深い発言ですわね」
「そ、それは言葉のあやで……!」
「言葉は刃ですわ」
エルネスタ様は扇を閉じた。
「抜いた後で、あやでした、では済みません」
クラリス様が静かに小瓶を掲げる。
「それから、ミリア様の衣服および大神殿から届けられた見舞いの香袋から、思考を鈍らせる成分が検出されました。明日の審問では、調合の詳細と共に報告いたします」
使者たちの顔色が変わる。
「なぜ、それを……」
「否定なさらないのですね」
クラリス様は淡々と言った。
最後に、ヴィオラ様が震える手で手帳を抱えながら、それでも一歩前に出た。
「こ、この発言も、先ほどの見舞い品を届けた方の特徴も、昨夜の舞踏会で副神官長様がバルガス卿に合図を送っていたことも、全部、書き留めました」
「なっ……!」
「日付と、時刻と、場所も……あの、必要でしたら、明日の審問で証言します」
使者たちは、完全に言葉を失っていた。
攻守は、完全に逆転している。
彼らはミリア様を奪い返すために来たのではない。
自分たちの不利な証言を、わざわざ増やしに来たのだ。
わたくしは、その様子を静かに見つめる。
なるほど。
刀を抜かずとも、ここまで斬れるものなのか。
「どうやら」
わたくしは微笑んだ。
「わたくしが黒椿を抜くまでもありませんでしたわね」
使者たちは返す言葉を持たなかった。
やがて、苦々しい顔で踵を返す。
「……よかろう。明日の公開審問で、大神殿に逆らった報いを思い知るがいい」
わたくしは頷いた。
「ええ。楽しみにしておりますわ」
神官たちが去ると、玄関広間に静けさが戻った。
エルネスタ様が扇を閉じ、ふうと息を吐く。
「……ああ、緊張しましたわ」
「とても楽しそうに見えましたけれど」
「緊張と高揚は、社交界では似たようなものですもの」
クラリス様は小瓶をしまい、ヴィオラ様はその場でへなへなと座り込みかけた。
ミリア様が慌てて手を伸ばす。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
「は、はい……足が少し……」
ミリア様はヴィオラ様の手を取った。
その姿を見て、わたくしは少しだけ息を吐く。
彼女はもう、守られるだけではない。
誰かを気遣うことができるくらいには、自分の足で立ち始めている。
セレナ殿下が、隣で静かに言った。
「明日の大広間は、神殿が用意した処刑台ではありません」
「では、何ですの?」
「リシア様」
セレナ殿下は微笑んだ。
「嘘を斬るための舞台です」
わたくしは黒椿の鞘に指を添えた。
「では、舞台に上がりましょう」
明日の正午。
王宮大広間。
神殿が用意した断罪の舞台で、今度はこちらが筋書きを斬る。
聖女を人形のように扱い、わたくしを罪人に仕立てようとした報いだ。
大神殿が誇る清らかな筋書きごと、明日は綺麗に斬り開いて差し上げましょう。
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