第5話 黒薔薇はお茶会で刃を研ぐ 前編
翌朝。
クロガネ公爵邸の朝は、いつもより少しだけ騒がしかった。
昨夜のうちに大神殿から王宮へ抗議文が届き、明日の正午には王宮大広間で公開審問が開かれることになった。名目は、聖女ミリア様の保護と、クロガネ公爵家による不当な連れ去りの追及。
要するに、神殿は貴族たちの前で、わたくしを罪人に仕立てるつもりらしい。
ずいぶんと丁寧なことだ。
わざわざ舞台を整え、観客を集め、こちらを断罪するための筋書きまで用意してくれるというのだから。
それなら、こちらも相応の礼を尽くすべきだろう。
用意された筋書きは、丁寧に斬る。
できれば、二度と縫い合わせられないほど綺麗に。
そう考えていたところで、控えめな足音が部屋の外で止まった。
「リシア様」
扉越しに聞こえたのは、ミリア様の声だった。
昨日より、少しだけ芯がある。
「お入りなさいませ」
扉が開く。
淡い若草色の部屋着に身を包んだミリア様が、両手を胸元で重ねるようにして立っていた。昨夜は不安げに揺れていた空色の瞳も、今朝はわずかに落ち着きを取り戻している。
けれど、その指には黒と深紅の組紐が大切そうに巻かれていた。
わたくしが黒椿から外して渡した、守り紐だ。
「おはようございます、リシア様」
「おはようございます、ミリア様。少しは眠れましたか?」
「はい。何度か目は覚めましたけれど……でも、昨日よりは、ずっと」
「それは何よりですわ」
ミリア様は、そっと胸元の守り紐に触れた。
「あの、これ……まだ、お借りしていてもよろしいでしょうか」
「よく眠れた後で構わないと申し上げたはずです」
「でも、少し眠れました」
「では、よく眠れるまではお持ちなさい」
ミリア様の頬が、ほんのりと赤くなる。
「……はい。ありがとうございます」
そう言って、彼女は守り紐を両手で包み込んだ。
まるで、小さな火を消さないように守っているようだった。
わたくしは思わず目を細める。
黒椿に結んでいた時には、ただの守り紐だった。けれど、ミリア様がそうして抱いていると、まるで別の意味を持つもののように見える。
不思議なものだ。
物は、人の手に渡った瞬間から、少しだけ姿を変えるらしい。
「リシア様」
「何でしょう」
「昨日、言ったことを……覚えていらっしゃいますか」
「どれのことでしょう」
「その……ちゃんと眠れたら、自分の足でお礼を言いに行くと」
「ああ」
わたくしは頷いた。
「覚えていますわ」
ミリア様は、少しだけ背筋を伸ばした。
そして、深く頭を下げる。
「リシア様。昨日は助けてくださって、本当にありがとうございました」
その声は、まだ震えていた。
けれど、誰かに言わされた言葉ではなかった。
彼女自身が選び、彼女自身の足でここへ来て、彼女自身の声で口にした言葉だった。
それだけで、十分だ。
「顔をお上げなさい、ミリア様」
ミリア様が、おそるおそる顔を上げる。
「よくできました」
「え……?」
「昨日より、ずっと良い顔ですわ」
何気なく言っただけだった。
けれどミリア様は、なぜか頬を赤くして視線を揺らした。
「そ、そうでしょうか」
「ええ。少し、息がしやすそうです」
「リシア様の邸だから、だと思います」
「クロガネ邸が?」
「はい」
ミリア様は守り紐を抱えたまま、小さく微笑んだ。
「リシア様がいてくださる場所なので」
わたくしは、一瞬だけ言葉を失った。
まただ。
この方は時折、まっすぐすぎる言葉を何の構えもなく差し出してくる。
受け取る側の心構えというものを、もう少し考えてほしい。
どう返すべきか迷っていると、背後から小さな咳払いが聞こえた。
「朝から大変仲睦まじいことで」
振り返れば、王女セレナ殿下が当然のように部屋の入口に立っていた。
銀髪に紫の瞳。朝の光の中でも、王女殿下の微笑みは実に涼やかである。
なぜ王女殿下が他家の屋敷の廊下に、ここまで自然に馴染んでいるのかは、いまだによく分からない。
「王女殿下。いつからそこに?」
「『リシア様がいてくださる場所なので』のあたりから」
「ほとんど一番よろしくないところではありませんか」
「あら、わたくしはとてもよろしいところだと思いましたけれど」
ミリア様が、耳まで赤くして俯いた。
……本当に、この王女殿下は油断ならない。
「セレナ殿下。朝からお越しになるとは、公開審問の件でしょうか」
「ええ。それと、もうひとつ」
セレナ殿下が視線を部屋の外へ向ける。
「お客様をお連れしました」
「お客様?」
わたくしが問い返すより早く、廊下の向こうから華やかな声が響いた。
「ごきげんよう、リシア様。ご無事そうで何よりですわ」
最初に姿を見せたのは、緋色のドレスをまとった侯爵令嬢だった。
明るい栗色の巻き髪に、よく通る琥珀色の瞳。扇を手にした姿は優雅だが、その瞳の奥には社交界の噂を余さず拾う者特有の鋭さがある。
「エルネスタ=ヴェルナー侯爵令嬢」
「まあ。覚えていてくださいましたのね。光栄ですわ」
「社交界で、あなたほどよく喋る令嬢を忘れる方が難しいですわね」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
エルネスタ様はころころと笑った。
その後ろから、眼鏡をかけた細身の令嬢が静かに一礼する。薄藍のドレス。整えられた銀灰色の髪。手には小さな薬箱を持っていた。
「クラリス=ミード伯爵令嬢です。お招きいただき、ありがとうございます」
「まだ招いた覚えはありませんが」
「セレナ殿下から、リシア様のお茶会は少々物騒だと伺いましたので」
「王女殿下」
「必要な方々だと思いまして」
セレナ殿下は悪びれもしない。
さらにその後ろに、薄紫のドレスを着た小柄な令嬢が隠れるように立っていた。淡い茶色の髪を胸元でまとめ、手帳をぎゅっと抱えている。
「ヴィオラ=ランベルト子爵令嬢……です。あの、お邪魔でしたら、すぐ帰ります……」
「いえ。来てくださったのなら歓迎いたしますわ」
ヴィオラ様はほっとしたように小さく息を吐いた。
「なるほど」
わたくしはセレナ殿下を見た。
「王女殿下。これはお茶会ですか、それとも作戦会議ですか」
「両方ですわ」
セレナ殿下は微笑んだ。
「せっかくですもの。美味しいお茶と共に、神殿の嘘を暴きましょう」
こうして、クロガネ邸のサロンには、急遽お茶会の支度が整えられることになった。
白磁の茶器。焼き菓子。果実のジャムを添えた小さな菓子。淡い香りの紅茶。
どこから見ても、優雅な令嬢たちのお茶会である。
ただし、卓上に並ぶ話題は少しばかり物騒だった。
「大神殿は昨夜から、かなり露骨に噂を流しておりますわ」
最初に口を開いたのはエルネスタ様だった。
彼女は扇で口元を隠しながら、楽しげに言う。
「曰く、聖女ミリア様はリシア様に脅されている。曰く、クロガネ家は聖女の力を王家から奪おうとしている。曰く、リシア様は黒髪の魔女として神殿術式を穢した」
「随分と賑やかですこと」
「ええ。あまりに賑やかなので、逆に流した者が分かりやすいほどですわ」
「どこから?」
「大神殿に出入りする香油商、その妻の妹が通う刺繍教室、そこから昨日の夜会に出た令嬢たちへ。実に古典的な流し方です」
エルネスタ様は扇を閉じる。
「噂は水のようなものですわ。流れる道さえ見えれば、源もだいたい分かります」
「頼もしいこと」
「リシア様にそう言っていただけるなんて、今夜はよく眠れそうですわ」
大げさに胸に手を当てるエルネスタ様を、クラリス様が横目で見た。
「あなたはいつもよく眠っているでしょう」
「クラリス様、そういう細かいところを突くと殿方に嫌われますわよ」
「殿方に好かれるために薬学を学んでいるわけではありません」
「まあ、格好いい」
どうやら、この2人は旧知の仲らしい。
ミリア様はそのやり取りを不思議そうに見ていた。
その時、グレイがサロンへ入ってきた。
銀盆の上には、小さな白い香袋が載せられている。淡い金糸で聖印が刺繍された、いかにも神殿らしい品だった。
「お嬢様。先ほど、大神殿より見舞いの品が届きました」
「見舞い?」
「聖女様のご心労を鎮めるため、とのことです」
ミリア様の指が、守り紐をぎゅっと握りしめた。
わたくしは香袋へ視線を向ける。
白い布。
金の聖印。
清らかな祈りの品に見せかけたそれは、ひどく整いすぎていて、かえって不自然だった。
グレイが香袋を卓上へ置こうとした、その時。
「開けないでください」
クラリス様の声が、静かに響いた。
決して大きな声ではない。
けれど、その一言でサロンの空気が止まった。
グレイの手が、香袋に触れる直前で止まる。
「クラリス様?」
「その香袋は、鎮静香ではありません」
クラリス様は席を立ち、薬箱から小さな銀の針を取り出した。
香袋に触れぬよう、針先で布の端をほんの少しだけ擦る。次に、透明な液体を一滴落とした。
すると、針先に付いたわずかな香粉が、淡い金色から濁った灰色へ変わった。
「昨日、ミリア様の衣服から検出した香と同系統です。人の心を落ち着けるのではなく、思考を鈍らせ、抵抗する気力を削ぐ調合です」
ミリア様の顔色が青ざめる。
「わたしに……また……?」
「吸わせる前に分かりました。問題ありません」
クラリス様は淡々と言った。
その冷静さが、かえって頼もしい。
エルネスタ様が扇を閉じる。
「まあ。香袋を手配したのは、大神殿御用達のクレメル香油商会でしょう? 昨夜から噂を流している商家と同じですわ」
「なぜ分かりますの?」
わたくしが尋ねると、エルネスタ様はにこりと笑った。
「刺繍の癖ですわ。聖印の金糸の留め方が、クレメル商会の贈答品と同じです。それに今朝、そちらの番頭が大神殿の裏門に出入りしていたという話も聞いております」
「耳が早いですわね」
「淑女の耳は、飾りではありませんもの」
そこで、ヴィオラ様が小さく手を上げた。
「あ、あの……それを届けた下男の方、さきほど裏門の近くで見ました」
全員の視線がヴィオラ様へ向く。
彼女はびくりと肩を震わせたが、手帳を抱きしめて続けた。
「左の袖口に、小さな聖印が縫い込まれていました。背は5フートと少し。右足をほんの少し引きずっていて……昨夜の舞踏会で、副神官長様の後ろに控えていた方と同じです」
セレナ殿下が、楽しげに目を細める。
「素晴らしいですわ、ヴィオラ様」
「い、いえ……見えたものを、覚えていただけで……」
「それが一番難しいのです」
わたくしは、卓上の香袋を見た。
噂を読む者。
香を暴く者。
一度見た光景を忘れない者。
なるほど。
この3人は、説明されるよりずっと分かりやすい。
刀とは違う。
けれど、確かに斬れる。
神殿の嘘を、彼女たちはそれぞれの刃で切り分けてみせたのだ。
「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。
この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」




