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第4話 聖女は黒薔薇の邸で息をつく 後編

 湯殿から上がったミリア様は、クロガネ家の客人用に用意された淡い若草色の部屋着に身を包んでいた。


 白い肌と金の髪によく似合っている。先ほどまでの白いドレスより、ずっと柔らかな印象になった。

 ただ、その髪はまだ濡れている。

 侍女が乾かそうとしたところで、ミリア様がちらりとこちらを見た。


 ……なぜ、わたくしを見るのでしょう。


 侍女の方が、ずっと手慣れているはずなのに。


「わたくしでよければ、梳きましょうか」


 気づけば、そう言っていた。

 ミリア様の顔が、ぱっと明るくなる。


「よろしいのですか?」

「ええ。髪を扱うのは嫌いではありませんわ」


 侍女が櫛を差し出す。


 ミリア様は椅子に座り、わたくしはその後ろに立った。

 濡れた金の髪を、布で軽く押さえる。

 指に触れる髪は、細く柔らかい。陽の光を含んだ糸のようだった。


「綺麗な髪ですわね。まるで、陽の光をそのまま紡いだ糸のようですわ」


 何気なく、思ったままを口にしただけだった。


 毛先に残っていた小さな水滴を、布越しにそっと払う。壊れやすいものを扱うように、できるだけ優しく。

 その瞬間、鏡越しに見えるミリア様の頬が、ふわりと赤く染まった。


「ミリア様?」

「あ、あの……何でも、ありません」

「何でもないと言うには、顔が赤いですわね。やはり、熱が?」

「ち、違います。大丈夫です」

「本当に?」

「本当に、大丈夫です……」


 そう言うわりに、ミリア様は両手で膝の上の布をぎゅっと握っている。


 やはり、まだ神殿の術式の影響が残っているのだろうか。

 後で、身体を温める薬草茶を用意させた方がいいかもしれない。


 わたくしは櫛を通しながら、できるだけ声を穏やかにした。


「無理に笑う必要はありませんわ、ミリア様」

「え?」

「ここでは、聖女らしく振る舞わなくて結構です。泣きたいなら泣けばいい。眠いなら眠ればいい。お腹が空いたなら、厨房に言えば何か用意させます」

「……そんなに、自由でいいんですか」

「客人ですもの」

「客人……」


 ミリア様は、鏡の中でわたくしを見た。


 空色の瞳に、まだ迷いはある。

 けれど、さきほどよりも少しだけ光が戻っていた。


「わたし、リシア様に何を返せばいいのでしょう」

「返す?」

「助けていただいて、守っていただいて、こんなに優しくしていただいて……わたし、何も返せません」

「では、まずは眠りなさい」

「え?」

「今のあなたに必要なのは、恩返しではなく休息ですわ」


 ミリア様は、ぽかんとした顔でわたくしを見た。


 それから、ふふ、と小さく笑う。


「リシア様は、やっぱり優しいのか厳しいのか分かりません」

「両方だと、昨日も申し上げたはずですわ」

「はい」


 ミリア様は嬉しそうに頷いた。


「覚えています」


 その声が、妙に大切そうだったので、わたくしは少しだけ櫛を持つ手を止めた。


 覚えています。


 ただそれだけの言葉なのに、彼女はまるで宝物をしまうように言う。

 どうにも、調子が狂う。


 髪を梳き終えると、侍女が寝室へ案内する準備を始めた。


 客間には、柔らかな寝台と温かな毛布が用意されている。窓辺には黒椿の枝が飾られ、香炉には安眠用の香が焚かれていた。


 もちろん、神殿のものとは違う。

 眠りを奪う香ではなく、眠りを許す香だ。


 ミリア様は寝台の前で立ち止まり、少し不安そうにこちらを見た。


「リシア様」

「はい」

「眠ったら……また、あの声が聞こえるかもしれません」

 わたくしは、その言葉に胸の奥が冷えるのを感じた。


 呪いは斬った。

 神殿の術式も斬った。


 けれど、人の心に残った恐怖までは、一太刀で消せない。

 ならば、消えるまで隣にいるしかないのだろう。


「扉の外に侍女を置きます。何かあれば、すぐ呼びなさい」

「はい……」


 ミリア様は頷いたが、まだ不安そうだった。


 わたくしは少し考え、腰の黒椿から小さな守り紐を外した。鞘に結んでいた黒と深紅の組紐だ。

 それを、ミリア様の手にそっと渡す。


「これは?」

「黒椿に結んでいた守り紐です。大した力はありませんが、気休めにはなるでしょう」

「そんな、大事なものを……」

「返すのは、よく眠れた後で構いません」


 ミリア様は、その組紐を両手で包み込んだ。


 そして、胸元へそっと抱く。


「……ありがとうございます」


 その声は、少し震えていた。

 けれど今度は、恐怖だけではない。


「リシア様」

「何でしょう」

「わたし、ちゃんと眠れたら……明日、リシア様にお礼を言いに行ってもいいですか」

「今も言っていますわ」

「そうではなくて」


 ミリア様は、ほんの少しだけ笑った。


「ちゃんと、自分の足で」


 その言葉に、わたくしは静かに頷いた。


「ええ。待っていますわ」


 ミリア様は寝台に入った。


 侍女が灯を落とし、部屋を出る。

 扉が閉まる直前、ミリア様はもう一度こちらを見た。


 その瞳はまだ不安げだったけれど、昨日よりも、そして王宮の祈祷室にいた時よりも、確かに前を向いていた。


 扉が閉じる。

 わたくしは、廊下で小さく息を吐いた。


「ずいぶん丁寧にお世話をなさるのね、リシア様」


 背後から声がした。

 振り返ると、セレナ殿下がいつの間にか廊下の壁にもたれていた。


 王女殿下。


 いくらクロガネ邸とはいえ、なぜそんなに自然にいらっしゃるのですか。


「殿下。いつからそこに?」

「ミリア様の髪を梳いていらしたあたりから」

「ほとんど最初ではありませんか」

「邪魔をしては悪いかと思いまして」

「絶対に楽しんでいましたわね」

「ええ」


 そこは否定しないらしい。


 セレナ殿下はくすりと笑い、それから表情を少しだけ引き締めた。


「大神殿が動きました」


 空気が変わる。


「早いですわね」

「ええ。先ほど、大神殿より王宮へ正式な抗議文が届きました。内容は、クロガネ公爵家が聖女を不当に連れ去った、というものです」

「攫ったと言わないだけ、まだ品がありますわね」

「表向きは、です」


 セレナ殿下は一枚の封書を差し出した。


 白い封蝋に、神殿の印。

 清らかな外見。


 けれど、その奥にあるものは、清らかとはほど遠い。


「明日の正午、大神殿は王宮大広間で公開審問を開くつもりです」

「公開審問、ですか」

「ええ。名目は、聖女ミリア様の保護と、クロガネ家による不当な連れ去りの追及。神殿は貴族たちの前で、あなたを罪人に仕立てるつもりでしょう」

「随分と親切ですこと」

「親切?」

「ええ」


 わたくしは、黒椿の鞘に指を添えた。


「神殿の嘘を斬るための舞台を、向こうから用意してくださるなんて」


 セレナ殿下が、楽しげに目を細める。


「では、出ますか?」

「もちろんですわ」


 聖女を守る者として振る舞いながら、聖女本人の心を見ようとしない者たち。

 神の名を掲げながら、人に役割を押しつける者たち。


 彼らがまた、筋書きを用意するというのなら。

 わたくしの答えは、決まっている。


「その罪状ごと、斬り返して差し上げます」


 明日の正午。

 王宮大広間。

 神殿は、わたくしを罪人に仕立てるための舞台を整える。


 ならばその舞台で、神殿の嘘を斬るだけだ。

「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。


 この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」

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