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第3話 聖女は黒薔薇の邸で息をつく 前編

 クロガネ公爵邸へ向かう馬車の中は、ひどく静かだった。


 窓の外には、王都の街並みが流れていく。石畳を行き交う馬車。朝の商いを始める商人たち。通りの端で花を売る少女。どれも普段と変わらない景色のはずなのに、王宮を出たばかりのわたくしたちには、どこか遠い世界のように見えた。


 わたくしの隣には、ミリア様が座っている。


 白いドレスに薄い肩掛け。乱れた金の髪。胸元で重ねられた細い指。

 その指先は、まだ少し震えていた。


 けれど、祈祷室にいた時よりは呼吸が深い。王宮の空気から離れ、大神殿の使者たちの視線からも離れたことで、ようやく身体が恐怖を思い出し始めたのだろう。


 恐怖とは、ただ危険の中にいる時だけに湧くものではない。

 本当に怖かったと気づくのは、むしろ危険から少し離れた後だ。


 わたくしは、膝の上に置かれた彼女の手を見つめた。

 握るべきか。

 それとも、そっとしておくべきか。


 少し迷った末に、わたくしは何もしないことを選んだ。

 助けることと、囲い込むことは違う。

 彼女はもう、誰かに手を引かれるだけの少女ではない。さきほど、わたくしと来ることを自分で選んだのだ。


 ならば、次にこちらがすべきことは、彼女の選択を邪魔しないこと。

 そう思っていたのだけれど。


「リシア様」


 小さな声がした。


「はい、ミリア様」

「あの……」


 ミリア様はしばらく迷うように視線を伏せ、それから、ほんの少しだけこちらへ手を寄せた。


「手を……握っていても、よろしいでしょうか」


 わたくしは瞬きをした。


 なるほど。


 これは、彼女自身の選択らしい。


「ええ。もちろんですわ」


 わたくしが手を差し出すと、ミリア様は恐る恐るその指を取った。

 細く、まだ冷たい手。

 けれど祈祷室で触れた時より、少しだけ力がある。


 ミリア様はわたくしの手を両手で包むように握ると、ほっとしたように小さく息を吐いた。


「……あたたかいです」

「そうでしょうか」

「はい。昨日も、そう思いました」


 昨日。

 断罪の舞踏会の大広間で、わたくしは彼女に手を差し出した。

 泣き濡れた顔でこちらを見上げていたミリア様。


 その時、彼女が何を思っていたのか、わたくしには分からない。

 けれど、今の彼女の声は、あの時より少しだけ穏やかだった。


「リシア様の手は、冷たくないんですね」

「わたくしを氷か何かだと思っていらしたの?」

「い、いえ、そういう意味では……!」


 ミリア様が慌てて顔を上げる。


 その反応があまりに必死だったので、わたくしは思わず小さく笑ってしまった。


「冗談ですわ」

「リシア様も、冗談をおっしゃるのですね」

「失礼ですわね。わたくしにも冗談くらいあります」

「す、すみません。でも……」


 ミリア様は、わたくしの手を見つめたまま、柔らかく微笑んだ。


「少し、安心しました」


 その言葉に、胸の奥がわずかに温かくなる。


 困ったものだ。

 わたくしは、別に誰かを安心させるために生きてきたわけではない。


 クロガネの娘として、斬るべきものを斬る。

 ただ、それだけのつもりだった。


 それなのに、こうして誰かがわたくしの手を握り、安心したと言う。

 それは少し、悪くないと思ってしまうのだから。


 馬車が、クロガネ公爵邸の門をくぐった。


 王都の北区画に建つクロガネ公爵邸は、王都の貴族邸宅の中では異質な造りをしている。

 白い石壁と尖塔を備えた西方風の屋敷でありながら、庭には黒椿の木が植えられ、廊下には異国風の細い格子窓が並ぶ。玄関広間の壁には、先祖代々の肖像画と並んで、古い刀掛けが飾られていた。


 華やかさよりも、静けさ。

 飾り立てるよりも、研ぎ澄ますこと。

 それが、クロガネ家の気風である。


 馬車が止まると、屋敷の使用人たちがすでに玄関前に整列していた。


 さすがに手回しが早い。

 おそらく、王宮からの報せより早く、わたくし付きの侍女が先触れを出していたのだろう。


 扉が開き、わたくしが先に降りる。

 続いてミリア様に手を差し出した。


「足元にお気をつけくださいませ」

「はい……」


 ミリア様はわたくしの手を取り、ゆっくりと馬車を降りた。


 その瞬間、使用人たちが一斉に頭を下げる。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 先頭に立つ老執事のグレイが、いつも通りの落ち着いた声で告げた。


「お客様のお部屋と湯殿の用意は整っております」

「早いですわね」

「お嬢様が王宮から聖女様をお連れになる可能性は、十分にございましたので」

「……わたくしの行動は、そんなに読みやすいかしら」

「お嬢様は、斬るべきものを見つけた時、迷われませんので」


 それは褒めているのか、呆れているのか。


 たぶん両方だろう。


 ミリア様は、目を丸くしてグレイを見つめていた。


「あ、あの……わたし、本当にこちらにいてよろしいのでしょうか」

「もちろんでございます、ミリア様」


 グレイは深く一礼した。


「クロガネ家は、お嬢様が守ると決めた方を、客人として最大限にもてなします」

「リシア様が、守ると……」


 ミリア様が、わたくしを見る。


 その瞳が、少しだけ潤んでいた。

 泣きそう、というよりは、何かを大事に受け取ってしまったような顔だった。


 わたくしは咳払いをする。


「グレイ、余計な言い方をしないでくださいませ」

「失礼いたしました」


 少しも悪びれない顔で、老執事はもう一度頭を下げた。


 まったく。

 この屋敷には、わたくしをからかう者が多すぎる。


「ミリア様。まずは湯殿をお使いください」

「湯殿、ですか?」

「ええ。王宮の祈祷室には神殿の香が残っていました。あれは人の心を落ち着ける香ではなく、思考を鈍らせるためのものです。肌や髪に匂いが残っているかもしれません」


 ミリア様の肩が、わずかに震えた。

 自分の身体に何かが残っていると想像してしまったのだろう。


 失言だったかしら。

 わたくしは声を和らげた。


「心配なさらないで。湯で洗い流せる程度のものですわ」

「……はい」

「それに、温かい湯に浸かれば、少しは息もしやすくなるでしょう」


 ミリア様は小さく頷いた。


 けれど、その指先はまだわたくしの袖を掴んでいる。

 離すきっかけを失っている、というよりは、離したくないように見えた。


 使用人たちは気づかないふりをしている。

 実に優秀だ。

 グレイなど、完全に何も見えていない顔をしている。


「侍女に案内させますわ」

「リシア様は……」


 ミリア様は、そこで言葉を止めた。


 言ってはいけないことを言いかけた、という顔だった。

 わたくしは彼女の続きを待つ。


 急かしてはならない。

 誰かに言葉を奪われたばかりの少女に、言葉を急がせるべきではない。


 やがてミリア様は、震える声で言った。


「近くに、いてくださいますか」


 その声は、あまりにも小さかった。


 けれど、逃げなかった。

 自分が望むことを、ちゃんと言葉にした。


 それだけで十分だ。


「ええ。湯殿の外で待っておりますわ」

「ご、ご迷惑では……」

「迷惑ではありません」


 わたくしは即座に答えた。


 ミリア様の瞳が揺れる。

 それから彼女は、ほんの少しだけ安心したように頷いた。


「ありがとうございます、リシア様」


 湯殿の支度は、屋敷の奥にある小さな浴室で整えられていた。


 クロガネ邸には客人用の湯殿がいくつかあるが、その中でも一番静かな場所を選ばせたらしい。白い石の浴槽に、湯気が柔らかく立ち上っている。窓の外には黒椿の庭が見え、湯の表面には椿の香油がわずかに落とされていた。


 ミリア様は侍女に付き添われ、湯殿へ入った。


 わたくしは扉の外に椅子を置かせ、そこで待つことにした。


 しばらくして、湯の揺れる音が聞こえた。

 続いて、細い吐息。

 それが安堵なのか、不安なのかまでは分からない。


 ただ、少なくとも悲鳴ではなかった。


「リシア様」


 扉の向こうから、ミリア様の声がした。


「はい」

「そこに、いらっしゃいますか」

「おりますわ」


 少し間が空いた。


「……本当に?」

「本当に」

「ずっと?」

「必要なら」


 また、間が空いた。


 湯気が扉の隙間からわずかに漏れ、椿の香りが廊下へ広がる。


「すみません。子どもみたいなことを言って」

「怖い時に、誰かがそばにいてほしいと思うのは、子どもだけの特権ではありませんわ」


 扉の向こうで、小さな水音がした。


 ミリア様が、湯の中で身じろぎしたのだろう。


「リシア様は、怖い時がありますか」

「ありますわ」

「リシア様にも?」

「もちろんです」


 意外そうな声だった。


 たしかに、社交界の者たちはわたくしを怖れ知らずの黒薔薇か何かだと思っているらしい。けれど、怖れを知らぬ者が強いわけではない。


 恐れた上で、何をするか。


 そこに、その人間の芯が出る。


「わたくしも怖いものはあります。失うこと。間に合わないこと。斬るべきものを見誤ること」

「……リシア様でも、迷うのですね」

「迷いますわ。迷った上で、鞘に手をかけるのです」


 湯殿の中が、少し静かになった。


 少し離れた廊下の角で、グレイと侍女たちが何とも言えない顔をしてこちらを見守っているのに気づいたのは、その時だった。


「お嬢様は、扉越しでも騎士の顔をなさいますね」

「聞こえていますわよ、グレイ」

「失礼いたしました」


 そう言いながら、グレイはまったく失礼した顔をしていなかった。

 侍女たちも、そっと目を伏せている。


 ……まったく。


 この屋敷には、わたくしをからかう者が本当に多すぎる。


 扉の向こうから、ミリア様の小さな笑い声が聞こえた。

 それがあまりに柔らかかったので、わたくしはグレイたちを咎める言葉を飲み込んだ。


 まあ、いい。

 今の笑い声が聞けたのなら。


 やがて、ミリア様がぽつりと言う。


「わたしは、まだ怖いです」

「ええ」

「また、誰かに言葉を奪われたらどうしようって。自分が知らないうちに、誰かを傷つけていたらどうしようって。目を閉じると、あの大広間の視線を思い出します」

「ええ」

「でも……」


 水音。

 小さく、けれど確かな声。


「リシア様の声が聞こえると、少しだけ息がしやすいです」


 わたくしは、返す言葉をすぐには見つけられなかった。


 扉一枚を挟んでいるというのに、その言葉はあまりに真っ直ぐ届いた。

 誰かの声が、誰かの息を楽にする。

 そのようなことが、あるのだろうか。


 いや、あるのだろう。


 今、彼女がそう言ったのだから。


「では、必要な間は、何度でも返事をいたしますわ」


 扉の向こうで、ミリア様が小さく笑った気がした。


「ありがとうございます」


しばらくして、ミリア様は湯殿から上がった。

用意された淡い若草色の部屋着に身を包んだ彼女は、先ほどより少しだけ、息をしやすそうに見えた。


けれど、その金の髪は、まだ濡れたままだった。

「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。


 この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」

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