第2話 黒薔薇は聖女を檻から連れ出す
1時間もあれば十分ですわ。
そう言った以上、わたくしは1時間を待つつもりなどなかった。
馬車の支度は、後でいい。
まず迎えに行くべき人は、まだ王宮の中にいる。
王宮西棟の祈祷室へ向かう回廊を、わたくしは足早に進んでいた。先導するのは、セレナ殿下付きの侍女。背後には、殿下から遣わされた近衛騎士がふたり。
表向きは、昨夜の事件に関する追加の事情確認ということになっている。
けれど、わたくしが向かっている先にいるのは、事情を聞く相手ではない。
王宮の保護下に置かれているはずの聖女、ミリア=ベル。
命令書に隠されていた行き先は、大神殿地下、封印礼拝堂。
聖女を迎えるには、あまりに冷たい名の場所だった。
やがて、祈祷室へ続く扉が見えてきた。
扉の前には、騎士がふたり立っていた。
その向かいに、白と金の神官服をまとった男たちが3人。中央に立つ年嵩の神官が、こちらへ気づいて眉をひそめる。
「これは、リシア=クロガネ公爵令嬢。何用でこちらへ?」
「ミリア様に会いに参りました」
「聖女様は休養中です。面会は許可されておりません」
「許可ならございますわ」
わたくしは、先導していた侍女へ視線を向ける。
侍女は静かに一歩進み出た。
「王女セレナ殿下のご命令です。リシア=クロガネ公爵令嬢を、ミリア=ベル様のもとへご案内せよとのこと」
神官の目が細くなる。
「聖女様の身柄は、大神殿が預かることになっております」
「まだ王宮内におられる以上、王宮の客人ですわ」
わたくしは微笑んだ。
「それとも、大神殿は王宮の許しなく、客人を連れ出せるほど偉くなりましたの?」
周囲の空気が、わずかに張りつめる。
神官のひとりが不快そうに顔を歪めた。
「言葉にはお気をつけください、公爵令嬢。相手は神に仕える者です」
「では、あなた方も行動にはお気をつけなさいませ」
「何ですと?」
「神に仕える者が、嘘で人を縛るなど、あまり見栄えのよいものではありませんから」
年嵩の神官の眉が、ぴくりと動いた。
次の瞬間、祈祷室の扉を中心に、壁一面へ淡い金色の文字が浮かび上がった。
聖句。
祈り。
祝福。
表向きは、そう見える。
けれど、わたくしの目には違うものとして映っていた。
扉の隙間から、細い糸のような魔力が幾重にも伸びている。それは祈祷室の内側へ絡み、空気に溶け、そこにいる者の思考と感情を少しずつ鈍らせる。
精神安定の祈祷。
そう呼べば、聞こえはいい。
けれど実際には、中にいる者の不安を奪うふりをして、意志まで薄める術式だ。
恐怖を鎮めるのではない。
抵抗する力を眠らせるための、優しい檻。
「……なるほど。これが大神殿の歓迎ですか」
わたくしは左手で鞘を押さえた。
鯉口を切る。
澄んだ音が、回廊に響いた。
「な、何を――」
「動かないで」
声を荒げる必要はなかった。
ただ、静かに告げるだけで十分だった。
「ここから先は、わたくしの間合いです」
騎士たちが息を呑む。
神官たちの顔色が変わる。
斬るべきものは、扉ではない。
壁でもない。
神官でもない。
祈りの形を装い、部屋の内側へ張り巡らされた魔力の糸。
「クロガネ流抜刀術――縁斬り」
閃光が一条、空間を走った。
刀身は神官にも扉にも触れていない。
祈祷室の壁も、聖印も傷つかない。
ただ、ミリア様を縛ろうとしていた悪しき縁だけが、一瞬にして断ち切られた。
ぱきん、と。
ガラスが砕けるような音が響く。
壁一面に浮かんでいた聖句が崩れ、光の粒となって霧散していった。
神官たちは、声もなく立ち尽くしていた。
彼らの祈りが斬られたからではない。
祈りの下に隠していたものを、見抜かれたからだ。
「ば、馬鹿な……我らが祈祷結界を、一太刀で……?」
「祈りではありませんわ」
わたくしは黒椿を鞘へ戻す。
「人の心を縛るものを、わたくしは祈りとは呼びません」
年嵩の神官の顔が、怒りと恐怖で歪む。
「貴様……!」
「それ以上はお控えなさい」
凛とした声が、回廊に響いた。
振り返ると、セレナ殿下が歩み寄ってくるところだった。
いつの間に、と言うべきか。
あるいは、最初からこのタイミングを見計らっていたと言うべきか。
銀髪を揺らし、紫の瞳を細めたセレナ殿下は、神官たちへ柔らかな微笑みを向ける。
けれど、その声音は少しも柔らかくなかった。
「王宮内で、わたくしの許可なく神殿術式を展開するとは。大神殿は、我が王家の権限を軽んじているのかしら?」
「お、王女殿下……これは、その、聖女様のご心労を和らげるための祈祷でして……」
「リシア様が、今しがた斬りました」
セレナ殿下は微笑む。
「祈祷ではなく、心を縛る術式だと」
神官たちが言葉を失う。
「神殿が聖女を案じる心は尊いものです。ですが、その尊さを盾に王宮内で勝手な術式を敷くというのなら、こちらも王家として正式に問いたださねばなりません」
「そ、それは……」
「それとも」
セレナ殿下の笑みが、少しだけ深くなる。
「大神殿は、王家に知られては困る何かを、ミリア様へ施していたのかしら?」
沈黙。
神官たちは、誰ひとりとして答えられなかった。
さすがは王女殿下。
わたくしが刀で斬るなら、この方は言葉で相手の逃げ道を斬る。
騎士のひとりが、緊張した面持ちで祈祷室の扉へ手をかけた。
「リシア様、開けます」
「お願いいたします」
扉が開く。
祈祷室の中は、白い光に満ちていた。
高い窓から差し込む陽光。壁に掛けられた聖印。小さな祭壇。淡い香の匂い。
その中央で、ミリア様は椅子に座っていた。
白いドレスの上から薄い肩掛けを羽織り、両手を胸元で握りしめている。顔色は悪く、金の髪は少し乱れていた。
わたくしを見るなり、ミリア様の空色の瞳が大きく揺れる。
「リシア様……?」
その声は、ひどく小さかった。
けれど、わたくしの胸にははっきり届いた。
昨日、彼女はわたくしの手を取った。
けれど、震えはまだ消えていない。
当然だ。
呪いを斬られたからといって、怖かった記憶まで消えるわけではない。人前で泣き、罪を着せられ、誰かに言葉を奪われた事実は、そう簡単にほどけるものではない。
聖女は、まだ震えている。
わたくしは祈祷室へ足を踏み入れた。
「お迎えに参りました、ミリア様」
「お迎え……?」
「ええ。どうやら大神殿の方々は、あなたを少々居心地の悪い場所へ招くおつもりのようでしたので」
ミリア様の指が、ぎゅっと肩掛けを掴む。
「わ、わたし……また、何か悪いことをしたのでしょうか」
「いいえ」
わたくしは即座に否定した。
そこに迷いを挟んではならないと思った。
ミリア様は、まだ自分を疑っている。自分の言葉が、誰かを傷つけたのではないか。自分が存在すること自体が、騒ぎを招いたのではないか。そんな目をしている。
だから、わたくしは彼女の前で膝を折った。
目線を合わせるために。
「あなたが悪いのではありませんわ」
「でも……」
「でも、ではありません」
少し強く言いすぎたかしら。
そう思ったけれど、ミリア様は怯えるのではなく、むしろわたくしの言葉に縋るように顔を上げた。
乱れた金の髪が、頬にかかっている。
わたくしは無意識に手を伸ばし、その一房をそっと耳の後ろへ流した。
指先が、ほんのわずかにミリア様の頬へ触れる。
彼女の肩が、ぴくりと震えた。
「ミリア様?」
「い、いえ……何でも、ありません」
何でもないと言うには、ミリア様の頬はほんのり赤く染まっていた。
熱でもあるのだろうか。
この祈祷室の空気は、先ほどまで神殿の術式に満たされていた。精神に作用するものなら、身体にも多少の負担があっておかしくはない。
「顔が赤いですわね。やはり、ここから出た方がよさそうです」
「は、はい……」
なぜかミリア様は、さらに顔を赤くした。
体調が悪いのか、恥ずかしいのか。
判断が難しい。
背後から、小さな咳払いが聞こえた。
振り返ると、扉の外に立つセレナ殿下が、実に楽しそうな目でこちらを見ていた。
「続けてくださって構いませんわ」
「殿下」
「はい。黙ります」
まったく黙る気のない顔で、セレナ殿下は微笑んだ。
……困りましたわね。
何か、誤解されている気がする。
わたくしは視線をミリア様へ戻した。
「ミリア様。あなたは昨日、誰かに言葉を奪われました。今度は、誰かに居場所を奪われようとしている。それだけです」
「居場所を……」
「ええ。ですから、選び直しましょう」
わたくしは手を差し出した。
昨日と同じように。
けれど、昨日とは少し違う。
あの時は、彼女を床から立たせるための手だった。
今は、彼女自身に選ばせるための手だ。
「わたくしと来ますか、ミリア様」
ミリア様は、わたくしの手を見つめた。
長い沈黙。
窓から差し込む光が、彼女の睫毛を淡く照らしている。
やがて、彼女は震える指を伸ばした。
指先が、わたくしの手に触れる。
細く、まだ少し冷たい。
けれど昨日よりも、ほんのわずかに力があった。
「……行きたいです」
ミリア様は、小さな声で言った。
「リシア様の、そばに」
わたくしは、一瞬だけ言葉を失った。
そばに。
なんというか。
ずいぶんと真っ直ぐな言葉を使う方ですわね。
わたくしが返す言葉を探していると、背後でセレナ殿下が、もう一度小さく咳払いをした。
「仲睦まじいところを失礼いたします」
「殿下」
「はい。今度こそ黙ります」
やはり黙る気のない顔だった。
ミリア様はようやく自分の言葉の意味に気づいたのか、耳まで赤くして俯いている。
これは、叱るべきなのか。
それとも、何も気づかなかったふりをするべきなのか。
わたくしは結局、後者を選んだ。
「行きますわよ、ミリア様」
「は、はい……!」
ミリア様は、わたくしの手を握ったまま立ち上がる。
その手を離すべきか、一瞬迷った。
けれど、彼女の指先がまだ震えていたので、わたくしはそのままにし、回廊へ出ると、神官たちが道を塞いでいた。
年嵩の神官が、顔を強張らせたまま言う。
「お待ちください。聖女様は大神殿へお連れすることになっております」
「その命令書は偽装されていました」
「何を根拠に」
「わたくしが斬りました」
「……意味が分かりません」
「分からなくて結構ですわ」
わたくしは、ミリア様の手をそっと自分の後ろへ導き、彼女を庇うように一歩前へ出る。
「ただ、ひとつだけ理解なさいませ」
神官たちが身構える。
わたくしは黒椿に触れた。
「この方を再び泣かせるおつもりなら――」
黒椿の鯉口を、ほんの一寸だけ切った。
ちりん、と澄んだ音が回廊に落ちる。
ただそれだけで、神官たちの足が止まった。
刃を恐れたのではない。
彼らはきっと、自分たちの嘘がすでに見透かされていることを悟ったのだ。
「その筋書き、わたくしが斬ります」
神官たちは、誰ひとりとして言葉を返せなかった。
わたくしは彼らを一瞥もせず、繋いだ手にほんの少しだけ力を込める。
「参りましょう、ミリア様」
「……はい」
ミリア様は、わたくしの手を握り返した。
細く、まだ少し冷たい指先。
けれどそこには、確かな意志が宿っている。
「リシア様……どちらへ?」
「わたくしの邸です」
わたくしは微笑んだ。
「クロガネの名にかけて、あなたをお守りいたしますわ」
大神殿という巨大な権威を敵に回すことになる。
けれど、構わない。
誰かが用意した筋書きで、この方を再び泣かせるつもりなら。
その筋書きは、ここで終わらせる。
「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。
この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」




