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第1話 王女は黒薔薇に微笑む

 断罪の舞踏会から一夜。


 王宮へ向かう馬車の中で、わたくしは早くも自分の新しい二つ名を知ることになった。


 ――抜刀令嬢。


「……もう少し、可愛らしい呼び名にはならなかったのかしら」


 窓の外へ視線を向けたまま、わたくしは小さく呟いた。


 向かいに座っていた侍女が、聞こえなかったふりをして視線を逸らす。実に優秀な侍女である。主人が真顔で妙なことを言った時に、余計な反応をしない程度には。


 とはいえ、噂というものは一度走り出せば、本人の望む形になど決して落ち着かない。


 昨日まで人は、わたくしを「クロガネの黒薔薇」と呼んだ。黒髪は不吉。赤い瞳は冷酷。腰に帯びた黒椿は、令嬢にあるまじき野蛮の証。そう囁いていたはずの口が、今朝には揃って別の噂を運んでいる。


 王太子殿下を呪いから救った公爵令嬢。

 聖女ミリア様を悪しき魔導師の手から救った黒髪の乙女。

 王宮の大広間で魔法陣を一太刀に斬り伏せた、クロガネ家の姫君。


 そして、抜刀令嬢。


 ……やはり、可憐さが足りない。


 わたくし自身は、何も変わっていないというのに。


 ただ、鞘に手を添え、斬るべきものを斬っただけだ。王太子殿下を縛っていた呪いを斬り、ミリア様に絡みついていた嘘を斬り、バルガス卿の仕掛けた魔法陣を斬った。それだけのこと。


 もっとも、その「それだけ」が王宮の大広間で行われたせいで、クロガネ公爵家には朝から手紙と使者が押し寄せていた。


 謝罪。弁明。祝い。探り。そして、今さらながらの招待状。


 どれもこれも、昨日までの沈黙が嘘のように丁寧な言葉で飾られていた。まったく、貴族社会とは香水よりも濃い建前でできている。


 その中で、最も早く届いたのが王宮からの使者だった。

 表向きの名目は、昨夜の一件についての事情聴取。


 だが、昨夜の大広間には、王族も貴族も宮廷魔導師も騎士もいた。わたくしが何を斬ったのか、誰が何を仕掛けたのか、少なくとも表面上の事実はすでに明らかになっている。


 それでもなお、王宮がわたくしを呼ぶ。


 ならば、事情聴取などではない。


 誰かが、わたくしに会いたがっているのだ。


 馬車が王宮の正門をくぐる。

 昨日とは、空気が違っていた。


 門を守る騎士たちは、わたくしの乗る馬車を見るなり背筋を正した。礼は丁寧。だが、その奥にあるのは敬意だけではない。


 恐れ。

 好奇心。

 警戒。

 そして、期待。


 王宮の人間は、恐れるものには礼儀正しくなる。実に分かりやすい。


 馬車を降りると、王宮の廊下はいつもより静かだった。大理石の床に、わたくしの靴音と黒椿の鞘が揺れる微かな音だけが落ちていく。


 案内役の侍従は、必要以上に丁寧な所作で先を歩いていた。彼の肩が少しばかり強張っているのは、きっと気のせいではないのだろう。


 廊下の先で、ふたりの近衛騎士とすれ違った。


 その瞬間、片方の騎士の指が、無意識に腰の剣の柄へ伸びる。


 わたくしは足を止めず、ただ視線だけを向けた。

 騎士は我に返ったように顔を青ざめさせ、慌てて頭を下げる。


「し、失礼いたしました、リシア様」

「構いませんわ」


 わたくしは微笑んだ。


 別に、怒ってはいない。

 ただ少し、困っているだけだ。


 ……わたくし、今日はまだ何も斬っておりませんのに。


 とはいえ、昨夜の大広間で魔法陣を斬った令嬢が、何食わぬ顔で王宮を歩いているのだ。彼らが身構えるのも、無理からぬことかもしれない。


 黒椿は人を斬るためだけの刀ではない。

 人を縛る呪いを斬るための刀だ。


 けれど、その違いを誰もが理解してくれるとは限らない。


 案内されたのは、王宮の東棟にある小さな応接室だった。


 豪奢ではあるが、広すぎない。外から声が届きにくく、窓の外には中庭が見える。密談には向いている部屋だ。


 扉が閉じられると、室内にいた銀髪の少女がこちらを向いた。


 王女セレナ殿下。


 王太子エリオット殿下の妹君であり、昨夜の舞踏会でただひとり、騒ぎに呑まれることなくわたくしを見ていた方。

 紫の瞳が、面白いものを見るように細められる。


「お待ちしておりました、リシア=クロガネ公爵令嬢」

「事情聴取と伺って参りましたが」

「ええ。表向きは」


 セレナ殿下は、部屋の隅に控えていた侍女たちへ視線を向けた。

 それだけで、部屋の中から人の気配が消えていく。扉が閉じられ、足音が遠ざかり、やがて静寂だけが残った。


 人払い。

 やはり、ただの事情聴取ではない。


「昨夜の件、改めてお礼を申し上げます。兄を、ミリア様を、そして王家を救ってくださったことに」

「わたくしが斬ったのは、ただの呪いです」

「そう言うと思っていました」


 セレナ殿下は微笑んだ。


 その笑みは可憐だったが、ただ可憐なだけではない。柔らかい花弁の奥に、鋭い棘を隠している。王宮で生まれ、王宮で育った者だけが持つ、静かな警戒の匂いがあった。


 なるほど。

 この方は、花に見えて刃を持つ類の人間だ。


「では、単刀直入に申し上げます。バルガスは黒幕ではありません」

「でしょうね」


 セレナ殿下が、ほんのわずかに目を見開いた。


「驚かれないのですね」

「あの男は小物でしたもの」


 わたくしは静かに答える。


「王太子殿下とミリア様に呪いをかけ、わたくしを罪人に仕立て、クロガネ家を王家から遠ざけようとした。確かに手は込んでいました。ですが、あれだけの舞台を整えた者にしては、肝心の幕引きがあまりに雑です」

「では、バルガスは?」

「切られるために差し出された尻尾。あるいは、火をつけた導火線を持たされた愚か者、といったところでしょうか」


 セレナ殿下は、今度こそ楽しげに笑った。


「やはり、あなたに声をかけて正解でした」

「買いかぶりですわ、王女殿下」

「いいえ。あなたは呪いを斬るだけではなく、筋書きの粗も見抜く方だ」


 筋書き。


 その言葉に、わたくしはわずかに目を細める。

 昨夜、わたくしは断罪されるはずだった。

 聖女に嫉妬し、罪を重ね、王太子に婚約破棄を告げられる黒髪の公爵令嬢。


 よくできた役回りだ。


 ただし、わたくしはその役を演じるつもりがなかった。


「王宮の婚姻、聖女の認定、王位継承。ここ数年、そのすべてに不自然な動きがあります」


 セレナ殿下の声が、少しだけ低くなる。


「兄とミリア様の件は、その一端にすぎません。誰かが、人に役割を押しつけている。王太子には愚かな断罪者を。ミリア様には清らかな聖女を。そしてあなたには、嫉妬に狂う悪女を」

「ずいぶんと趣味の悪い脚本家ですこと」

「ええ。ですが、その脚本家はまだ筆を折っていません」


 セレナ殿下は、机の上に一枚の紙を置いた。


 そこには、ミリア様の名があった。


 わたくしの指が、ほんのわずかに鞘へ触れる。


「ミリア様に、何か?」

「昨夜、彼女は王宮の保護下に入りました。ですが今朝、その保護先を変更せよという命が出ています」

「どちらへ?」

「大神殿です」


 大神殿。

 聖女認定を司る神官たちの本拠。


 ミリア様が本物の聖女であるならば、本来なら保護先として不自然ではない。だが、昨夜あれほどの精神干渉を受けたばかりの少女を、王宮から切り離すように移すには早すぎる。


 まるで、誰かが彼女を急いで手元へ戻したがっているように。


「名目は保護です」


 セレナ殿下は続けた。


「ですが、彼らが守りたいのはミリア様ではありません。彼女の力と、彼女の名です」

「聖女という肩書き、ですか」

「ええ。そして、もし彼女が意に沿わなければ――」


 セレナ殿下は、そこで言葉を切った。


 言わずとも分かる。

 聖女とは、清らかでなければならない。

 ならば、扱いにくい聖女を黙らせる方法など、いくらでもある。


 偽りの聖女。


 王太子を惑わせた女。

 公爵令嬢を陥れた罪人。


 昨日の断罪の舞台で使われた嘘は、向きを変えれば、そのままミリア様を縛る鎖になる。

 あの子は、ようやく息を吸えたばかりなのに。

 わたくしの脳裏に、涙に濡れたミリア様の顔が浮かぶ。


 差し出した手を見て、ようやく息を吐いた少女。


 恐る恐るわたくしの手を取り、細く冷たい指先を震わせていた少女。

 あの子を、また誰かの都合のよい役に押し込めるというのなら。


 それは、少しばかり不愉快だ。


「いつですか」

「1時間後。ミリア様は、秘密裏に大神殿へ移されます」

「随分と急ですこと」

「急がなければならない理由があるのでしょう。たとえば、あなたが動く前に手を打ちたい、とか」

「それをわたくしに知らせている時点で、王女殿下もなかなか悪い方ですわね」

「褒め言葉として受け取ります」


 セレナ殿下はにこりと微笑んだ。

 その笑みは美しく、そしてどこか楽しげだった。


「リシア様。あなたに斬っていただきたいものがあります」

「呪いですか?」

「いいえ」


 王女は、机に置かれた紙へ指を添えた。


 そこには、ミリア様を大神殿へ移すという命令書がある。王家の印章が押され、神殿側の署名も添えられていた。


 だが、その魔力の流れは不自然だった。

 紙そのものに、薄い膜のような術式が重なっている。


 命令書を正当なものに見せかけるための偽装。

 人の目を欺き、疑念を鈍らせるための嘘。


「まずは、この命令書に仕込まれた嘘です」


 セレナ殿下が言った。


 わたくしは静かに立ち上がる。

 黒椿の柄に指を添えた。


 鯉口を、わずかに切る。


 澄んだ金属音が、応接室に小さく響いた。


「殿下」

「はい」

「その命令書、机に置いたままで構いませんわ」


 セレナ殿下の紫の瞳が、愉快そうに細められる。


「斬れますか?」

「ええ」


 わたくしは息を整える。

 斬るべきものを見極める。


 紙ではない。

 印章ではない。

 命令そのものでもない。


 その上に重ねられた、偽りの膜。


「わたくしの刀に、斬れぬ嘘などございません」


 抜いた。


 銀の線が、机の上を走る。


 命令書は、破れない。

 王家の印章にも、神殿の署名にも傷はつかない。


 ただ、紙の上に貼りついていた薄い魔力だけが、音もなく裂けた。


 次の瞬間、命令書の文字が揺らぐ。


 隠されていた一文が、黒く浮かび上がった。


 ――聖女ミリア=ベルを大神殿地下、封印礼拝堂へ移送すること。


 セレナ殿下の表情から、笑みが消えた。


「封印礼拝堂……」

「保護、というには物々しい場所ですわね」

「ええ。あそこは、罪人となった神官を閉じ込めるための場所です。聖女を迎える場所ではありません」


 部屋の空気が冷える。


 大神殿は、ミリア様を保護するつもりなどない。

 あの子を閉じ込めるつもりだ。


 そして、おそらくは。

 聖女という名を、彼女から奪うつもりなのだ。


 わたくしは黒椿を鞘へ納めた。

 澄んだ音が、静かな応接室に落ちる。


「殿下」

「はい、リシア様」

「馬車を一台、ご用意くださいませ」


 セレナ殿下が、ゆっくりと微笑む。


「大神殿へ?」

「いいえ」


 わたくしは、まだ机の上に残る命令書を見下ろした。


「その前に、ミリア様を迎えに参ります」


 誰かが用意した筋書きで、あの子を再び泣かせるつもりなら。


 その筋書きは、ここで終わらせる。


「1時間もあるのでしょう?」


 わたくしは微笑んだ。


「十分ですわ」

「ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


 少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいですわ。


 この先も、わたくしの一太刀を見届けてくださいませ」

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