【失われた親子の記憶】
ネルガディスが歩み寄り、アリアの腕の中にいるメルヴァリスへ声をかけた。
「……メルヴァリス」
呼ばれたメルヴァリスは、ゆっくりと視線を上げた。
「あなたは、誰ですか?」
「私が分からないのか」
問い返す声が、わずかに揺れた。
メルヴァリスは赤い瞳で、ネルガディスの顔を確かめるように見つめた。しかし、懐かしむ様子はどこにもなかった。
「申し訳ありません。お会いした覚えがありません」
「メル、この人は……」
アリアは胸に残るわだかまりを抑え、そばに立つ男へ視線を向けた。
「メルのお父さんだよ」
「お父様……?」
メルヴァリスの表情に戸惑いが浮かんだ。
ネルガディスは傍らに膝をつき、娘と向き合った。
「ネルガディスだ。お前は幼い頃、よく私の後ろをついて城の中を歩いていた。眠れない夜には、私の部屋を訪ねてきたこともある」
メルヴァリスは思い出そうとするように黙り込んだ。
しかし、何一つ浮かばなかったのか、やがて首を横に振った。
「何も……思い出せません」
ネルガディスの表情が、初めて大きく揺らいだ。
数え切れない命を奪ってまで取り戻そうとした娘は、父である自分のことを何一つ覚えていなかった。
「……なぜだ」
低く漏れた声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
ルミシェナはメルヴァリスの身体を流れる魔力を探り、アリアとの間に生じている力の流れを捉えた。
「蘇生した際、欠けた魂を主様との繋がりが支えたのかもしれません」
「どういうことだ」
「魂が大きく欠けたまま命を与えられたことで、メルヴァリスの記憶にも影響が及んだのでしょう」
ルミシェナは言葉を選びながら続ける。
「断定はできませんが、主様と出会って以降の記憶だけは、その繋がりに守られているようです。ですが、それ以前のものまでは留められなかったのでしょう」
メルヴァリスはアリアに支えられたまま、ネルガディスへ向き直った。
「あなたが私のお父様なのですね。覚えていないことを、お許しください」
丁寧な言葉だったが、そこに家族へ向ける親しさはなかった。
ネルガディスは何も返せず、メルヴァリスから視線を逸らした。
娘を取り戻したはずだった。
それでも、共に過ごした年月は、彼女の中に何一つ残っていなかった。
やがてネルガディスは感情を押し込めるように立ち上がり、地面へ片手をかざした。
「ここに留まる必要はない。地上へ戻るぞ」
メルヴァリスも立とうとしたが、まだ脚に力が戻っておらず、体勢を崩した。
「無理しないで」
アリアが身体を支えると、反対側にルミシェナが回る。
「私もお支えします」
「申し訳ありません……」
二人に助けられながら、メルヴァリスはどうにか立ち上がった。
足元に黒い紋様が現れ、幾重もの線を描きながら五人を囲んでいく。
「中央から出るな」
低い声が響いた直後、魔法陣から闇が立ち上った。
周囲の瓦礫も、頭上を塞ぐ土砂も、一瞬で闇に呑まれた。
わずかな浮遊感の後、再び足裏に硬い地面の感触が伝わった。
闇が晴れると、五人は王都南門の崩れた城壁の前に立っていた。
城壁の向こうでは、騎士や職人たちが行き交い、崩れた石材を片づけていた。
突如姿を現した五人に気づき、周囲の者たちが驚いて手を止めた。
ネルガディスは周囲に構わず、隣の娘へ向き直った。
「メルヴァリス」
メルヴァリスがネルガディスへ顔を向ける。
「記憶を取り戻す方法は、私が探す」
「私のために、ですか?」
「ほかに理由があると思うか」
メルヴァリスは答えられず、アリアに寄りかかったまま父の姿を見上げていた。
「私はここで別れる」
「王城には来ないの?」
「王城へ姿を見せれば、余計な争いになる。今のお前たちに付き合う気もない」
普段通りの尊大な口調だったが、声からは力が失われていた。
アリアも、彼を引き止めようとはしなかった。
ネルガディスが片手を上げる。
黒い霧が足元から広がり、長衣の裾を包み込んだ。
「記憶が戻らずとも、お前が私の娘であることは変わらん」
メルヴァリスは一瞬迷った後、深く頭を下げた。
「助けていただいたことには、感謝いたします」
望んでいた返事ではなかったのだろう。
ネルガディスの表情がわずかに曇ったが、それ以上は語らなかった。
黒霧が全身を覆い、やがて風にほどけるように散った。そこにネルガディスの姿はなかった。
ネルガディスが消えた場所を見つめながら、メルヴァリスが呟いた。
「私は、あの方に何と申し上げればよかったのでしょう」
「今はそれでいいよ。覚えてないのに、無理をする必要はないから」
アリアがそう告げると、メルヴァリスは頷いた。




