【魂を賭けた契約】
メルヴァリスたちは、アリアの返事を待っていた。
王都を守れと命じながら、全員に生きて帰れと求める。それがどれほど都合のいい願いなのか、アリアにも分かっている。
それでも、どちらかを諦めることなどできなかった。
「わかったわ。この王都を守って」
「ただし、必ず生きて帰ってくること」
三人は顔を見合わせ、覚悟を決めたように頷いた。その中から、メルヴァリスが一歩前へ出る。
「アリア様のことは、宿の者にお願いしてあります」
メルヴァリスは三人を代表して、深く頭を下げた。
「しばしおそばを離れることを、お許しください」
そう言い残し、三人は宿を後にした。
誰かが命を落とすかもしれない。それでも、自分にはここで帰りを待つことしかできない。
その無力さが、悔しくてたまらなかった。
遠くで鐘や爆音が響くたび、胸の奥が締めつけられた。
それでも三人は戻らず、気づけば窓の外は闇に沈んでいた。
不意に、部屋の扉がゆっくりと開いた。
「誰……?」
返事はない。
扉の向こうから姿を現した男を見た途端、アリアの顔から血の気が引いた。
忘れるはずがない。
かつて村を襲い、アリアの魂を奪うと告げた男だった。
「どうして、あなたがここに……!?」
「何を驚いている。六か月後、お前の魂をもらいに来ると告げたはずだ」
アリアは何も言えず、男を見つめた。頭では分かっていたはずなのに、約束の日が来たという実感だけがなかった。
「……もう、六か月経っていたのね」
視線が、幾重にも包帯を巻かれたアリアの身体へ落ちた。
「その有様では、抵抗することもできまい」
男は不満げに顔をしかめながら、寝台へ歩み寄った。
「これほど弱りきった魂を奪っても、期待していた価値は得られそうにないが……」
そして、アリアの前で足を止めた。
「では約束どおり、その魂をもらい受けよう」
「待って……」
差し出されかけた手が止まった。
「この王都が今、どんな状況にあるか知っているの?」
「何を言い出すかと思えば」
男は興味を失ったように言い放つ。
「この国がどうなろうと、私の知ったことではない」
アリアは男を睨み返した。
「だったら、取引をしない?」
「取引だと?」
「何も知らないまま魂を奪うより、私の力を知ってからの方がいいはずよ」
それまで冷淡だった目に、初めて興味が宿った。
「あなた、言っていたわよね。私には魂へ干渉する異能があるって」
アリアは怯みそうになる心を押さえ込み、言葉を続けた。
「私がこの戦いを乗り越えれば、魂はさらに変化するかもしれない。今ここで奪うより、あなたにとっても価値が上がるはずよ」
「随分と都合のよい話だな。魂の質が上がるという確証でもあるのか?」
「魔星種って、知ってる?」
男の目つきが鋭く変わった。
「小娘……その名をどこで知った?」
「やっぱり、何か知っているのね」
「あれは人間にどうこうできる存在ではない。だが、お前がすでに接触しているのなら、魂に変化が生じる可能性はあるか」
男はしばらく考え込んだ末、アリアの提案を受け入れるように頷いた。
「……面白い。ならば契約だ」
男は口元に薄い笑みを浮かべた。
「一時的に、その身体を動かせるようにしてやろう。この戦いが終わった後、お前の魂を私に差し出せ」
「いいわ」
「契約成立だ」
男がアリアへ指先を向けると、黒い光が首元へ走り、見慣れない紋様が焼きつくように刻まれた。
「それは黒魂蝕。お前の魂を縛る、契約の証だ」
首元に刻まれた黒い紋様が脈打ち、そこから闇色の光が全身へ広がっていく。
砕かれた腕の痛みが薄れ、力の入らなかった指先が、意思どおりに動いた。
「身体が……動く」
「黒魂蝕は痛覚を麻痺させ、傷ついた身体を強制的に動かす。治ったわけではないが、今のお前でも戦うことくらいはできよう」
「ただし、お前が戦いの途中で死ねば、その魂は黒魂蝕を通じて私のもとへ届く。逃げることも、契約を破ることもできぬ」
「後は好きにするがいい」
その言葉を残し、男の姿は闇へ溶けるように薄れていった。
男が完全に消えると、アリアは寝台を降り、急いで宿を飛び出した。
通りでは王都の騎士たちが住民を避難させていた。泣き出す子供の手を引く者や、最低限の荷物を抱えて急ぐ者たちが、騎士の誘導に従って城の方角へ向かっている。
夜の通りを、松明を掲げた騎士たちが駆け回っていた。遠くでは炎が立ち上り、黒煙の向こうで魔法の光が何度も弾けている。
周囲に魔物の姿はなく、戦いの音だけが遠くから絶え間なく響いていた。
「まだ、ここまでは来ていないようね」
アリアは数字変換で身体能力を引き上げた。
傷が治ったわけではない。黒魂蝕によって、壊れた身体を無理やり動かしているだけだ。
それでも、今は立ち止まっていられなかった。
アリアは避難する人々の間を抜け、王都の南門を目指して走り出した。
南門と東門へ押し寄せる魔物は、合わせておよそ二万。一度にすべてが押し寄せているわけではないが、倒しても後続が途絶えず、防衛側の消耗だけが積み重なっていた。
戦いはすでに長時間に及び、騎士たちの隊列は崩れ始めている。交代要員も底をつき、南側の戦線は少しずつ市街地へ押し込まれていた。
戦場の一角に、ひときわ騎士たちの視線を集める魔物がいた。
黒ずんだ外殻に覆われた巨体が腕を振るうたび、近づいた騎士や冒険者が次々と弾き飛ばされていく。
「なんだ、あいつは……!」
「ばらばらに攻めても駄目だ! 一斉に仕掛けるぞ!」
周囲から声が上がるものの、ゼルグレムは数人がかりの攻撃をものともせず、迫る者たちを力任せに薙ぎ払っていた。
そこへ、戦場を駆け抜けてきたメルヴァリスが足を止めた。
「あの魔物は……」
名前:ゼルグレム
Lv42 魔骸種
筋力:260
敏捷:300
魔力:220
体力:430
メルヴァリスは周囲の騎士や冒険者を庇うように前へ出ると、赤黒い血の鞭を構え、ゼルグレムと向き合った。
腕を振り抜き、緋刃鞭をゼルグレムの脚へ絡みつかせる。
巨体が体勢を崩した隙を狙い、騎士たちが左右から斬りかかる。だが、ゼルグレムは強引に脚を振り上げ、鞭ごとメルヴァリスを引き寄せた。
「くっ……!」
地面を強く踏みしめて耐えたものの、振り下ろされた腕を避けきれず、メルヴァリスの身体が大きく弾かれた。それでも倒れた騎士の前へ回り込み、追撃を防ぐように紅血刃を構えた。
周囲の騎士たちまで庇いながらでは、攻めに転じる隙など生まれない。
王都への侵攻は南門と東門に集中しており、防衛側は戦力を二分していた。メルヴァリスはクラウスの守る南側へ、ルミシェナとロゼリアは東側へ振り分けられていた。
二人の援護を望めないまま、メルヴァリスはゼルグレムの猛攻に少しずつ押し込まれていった。
ゼルグレムと刃を交えていたメルヴァリスの頭に、突如として声が響いた。
(メルヴァリス……我が娘よ)
聞いた記憶などないはずだった。
それなのに、その声はひどく懐かしく、張り詰めていた心を包み込むような安らぎを与えてくる。
(この声は……)
(メルヴァリス。お前は、私の娘だ)
途切れていた記憶の奥で、何かが呼び覚まされる。
(この声は、お父様?)
次第にメルヴァリスの意識は遠のいていった。
その頃、王都南側の別の戦場では、アリアがクラウスと合流していた。
「クラウスさん!」
「アリア殿!? その怪我で、なぜここへ……」
「……今は大丈夫です。それより、魔物を何とかしないと」
アリアの言葉を受け、クラウスも頷いた。
「メルヴァリス殿も、この南側のどこかで戦っているはずです」
「メルもここにいるのね」
「アリア殿、これを」
クラウスが腰から予備の短剣を抜き、柄を向けて差し出した。
「ありがとうございます。借りますね」
短剣を握り締め、アリアはクラウスとともに魔物の群れへ向かった。
アリアは遠くにメルヴァリスの姿を見つけた。
「クラウスさん、メルとも合流しましょう」
「分かりました」
クラウスが進路を塞ぐ魔物を斬り伏せ、アリアも短剣を振るいながらメルヴァリスのもとへ急いだ。
アリアたちがたどり着いた先では、先ほどまで騎士たちを圧倒していたゼルグレムが、全身を無残に切り裂かれて倒れていた。
「メル、大丈夫?」
「アリア様……」
返ってきた声には、どこか力がない。
「メル?」
アリアが近づこうとした時、メルヴァリスの足元から黒い瘴気が立ち昇り、その身体を覆い始めた。
やがて瘴気が薄れ、その中から変わり果てたメルヴァリスの姿が現れた。
全身を走る赤黒い紋様から血の霧が噴き上がり、背後で巨大な翼の形を成していく。頭部から伸びた双角は王冠のように湾曲し、足元には触れた石畳を蝕む瘴気が渦巻いていた。
アリアはメルヴァリスの姿を見るとすかさず鑑定した。
名前:メルヴァリス
Lv52 皇血魔族
筋力:330
敏捷:350
魔力:380
体力:450
状態:魔王化
リンク:アリア
「魔王化……?」
メルヴァリスの瞳が、アリアを捉えた。
そこにいつもの穏やかさはない。
メルヴァリスが地面を蹴った途端、その姿がアリアの視界から消えた。
アリアは反射的に短剣を持ち上げる。
直後、赤黒い血の刃が短剣へ叩きつけられ、凄まじい衝撃が腕を突き抜けた。黒魂蝕によって痛みは遠ざけられているはずなのに、砕かれた骨が軋む感覚までは消えていない。
アリアの身体が後方へ弾かれ、石畳を何度も転がった。
「アリア殿!」
駆け寄ろうとしたクラウスの足元へ、赤黒い鞭が振り下ろされる。石畳が砕け、飛び散った破片に阻まれてクラウスは足を止めた。
「メル! 私よ、分からないの!?」
アリアの声にも、メルヴァリスは答えない。
赤く染まった瞳がアリアだけを見据え、両手には新たな紅血刃が形作られていく。
左右から振るわれた刃を、アリアは身を屈めてかわす。続けて迫った蹴りを短剣の腹で受け止めたが、衝撃を殺しきれず、身体ごと後方へ吹き飛ばされた。
「くっ……!」
建物の壁へ背中を打ちつける。
息を整える暇もなく、緋刃鞭が横薙ぎに迫った。アリアは壁を蹴って前へ飛び込み、鞭の内側へ潜り込む。
短剣の柄を脇腹へ叩き込み、わずかに開いた隙を逃さず後ろへ跳ぶ。
しかし、メルヴァリスは一歩よろめいただけで踏みとどまり、すぐにアリアへ向き直った。
「アリア……様」
掠れた声が漏れた。
「メル?」
呼びかけが届いた。
そう思った途端、メルヴァリスが石畳を蹴り、一息に間合いを詰めてくる。
アリアは咄嗟に片腕で喉元を庇ったが、容易く払いのけられ、伸ばされた手が首へ迫った。
「目を覚まして、メル……!」
短剣を手放し、アリアは両手でメルヴァリスの手首を掴んだ。
完全に別の存在へ変わったわけではない。どれほど魔王の力に呑まれていようと、あの身体にはまだメルヴァリスの心が残っている。
「私を守るって、いつも言ってたでしょう……!」
首へ迫っていた手が止まり、赤い瞳が迷うように揺れた。
だが、全身を覆う紋様が激しく輝くと、メルヴァリスは苦痛に顔を歪め、掴まれた腕を振り抜いてアリアを放り投げた。
石畳へ背中を打ちつけたアリアの眼前で、紅血刃が高々と振り上げられた。
「メルヴァリス殿、やめろ!」
クラウスが横合いから斬り込むが、剣に緋刃鞭を絡められ、武器ごと地面へ引き倒された。
今のメルヴァリスを、正面から止められる者はこの場にはいない。
それでも、アリアは震える脚を踏ん張り、落とした短剣を拾って立ち上がった。
「何度でも言うわ」
短剣を構え、迫り来るメルヴァリスを正面から迎え撃つ。
「あなたは魔王なんかじゃない。私の大切な仲間よ」




