【迫り来る王都の危機】
アリアが目を覚ますと、見覚えのない天井が視界に映った。
「……ここは?」
身を起こそうと腕に力を込めた途端、全身を激しい痛みが駆け抜けた。アリアは声を漏らし、力なく寝台へ沈み込んだ。
砕かれた腕は厚い布と添え木で固定され、肩や脇腹にも幾重もの包帯が巻かれていた。指先にさえまともに力が入らない。
呼吸のたびに傷ついた身体が鈍い痛みを返してきた。
鼻をかすめる薬草の匂い。窓の外からは、人々の話し声や馬車の車輪が石畳を叩く音が聞こえてくる。
首をわずかに動かすと、開かれた窓の向こうに王都の街並みが見えた。
「……王都?」
「お目覚めになられましたか、主様」
声のした方へ視線を動かすと、寝台の脇にルミシェナが座っていた。
緑の髪は整えられていたものの、腕や頬には包帯が巻かれ、光衣の代わりに宿屋で用意されたらしい簡素な服を身につけている。
「ルミ……私たち、戻ってきたの?」
「はい。あの遺跡を脱出したあと、主様を王都までお運びしました」
ルミシェナはアリアの手を両手で包み込み、張り詰めていた表情をようやく緩めた。
「主様は、十日ものあいだ眠り続けておられたのです」
「十日……?」
十日も眠っていたことが信じられず、アリアは言葉を失った。
四本の腕を持つ黒い巨体。何もできないまま打ちのめされ、胸へ振り下ろされた爪。
途切れていた記憶が蘇り、アリアの指先がわずかに震えた。
あれが夢ではなかったことを、全身に残る痛みが嫌というほど伝えていた。
「あの黒い魔物は、どうなったの?」
ルミシェナは暗い表情を浮かべ、少し間を置いてから答えた。
「主様が気を失ってからは、逃げることしか考えられませんでした。抱きかかえたまま、必死に走り続けて……」
ルミシェナは当時を思い返すように視線を落とした。
「遠くに光が見えたので、夢中でそこを目指しました。気づいた時には、遺跡の外へ出ていたのです」
「よく逃げ切れたね」
「はい。なぜか、追ってはきませんでした」
アリアは首を傾げた。
追ってこなかった理由は分からない。見逃されたのか、遺跡の外へ出られなかったのか。いずれにせよ助かったのは偶然に近かった。
「今回の件は、すでにギルドへ報告してあります。依頼自体は達成扱いになりましたが……」
ルミシェナは答えに迷うように唇を結んだ。
「魔物をどうするかは、まだ決まっていないそうです」
「そうなんだ……」
アリアが黒い魔物について考えていると、窓の外から慌ただしい声が聞こえてきた。
「何かあったのでしょうか」
ルミシェナは窓へ目を向けると、椅子から立ち上がった。
「廊下の者に状況を確認してまいります。すぐに戻りますので、どうか動かれませんように」
そう告げ、部屋を出ていった。
ルミシェナと入れ替わるように、扉を叩く音が響いた。
アリアが返事をすると、数人の騎士が部屋へ入ってきた。その最後に、クラウスの姿もあった。
「アリア殿、ご無事で何よりです」
クラウスは寝台のそばまで歩み寄ると、すぐに表情を引き締めた。
「本来なら、まず事情をお聞きしたいところですが、今は急を要します」
「ギルドの依頼を受けアリア殿が遺跡に向かわれたことは聞きました」
「何かあったのですか?」
「はい。拘束しているラゼルムを尋問したところ、アリア殿が向かわれた遺跡は、かつて彼の研究に使われていた場所だと判明しました」
「それって……あの黒い魔物も、ラゼルムが作ったものなの?」
クラウスは答える前に、わずかに表情を曇らせた。
「いえ。彼の証言によれば、それは別の場所から運び込まれたものだそうです」
「おそらく、ラゼルムが生み出していた魔物は、その個体をもとにしたのでしょう。そして今、その遺跡から大量の魔物があふれ出し、王都へ迫っています」
「すでに騎士団とギルドの冒険者が応戦しています。しかし報告によれば、強力な個体も多く、各所で苦戦を強いられているようです」
「遺跡の中に、そんなにたくさんの魔物がいたの?」
「分かりません。今となっては、内部を確かめることすらできませんので」
「もしかして、私が遺跡に入ったから……」
「いえ、おそらく違います」
クラウスは首を横に振った。
「ラゼルムの証言では、自分が捕らえられた場合に備え、あの黒い魔物が目覚めるよう、あらかじめ部下に手を打たせていたそうです」
クラウスの声に、これまで以上の重さが加わった。
「詳しいことは分かっていません。ただ、あの魔物が目覚めた直後に大量発生が起きた以上、無関係とは考えにくいでしょう」
「それじゃあ、捕まった後のことまで考えていたってこと……?」
「……はい。自らが動けなくなった場合にも備え、策を残していたのでしょう」
「その黒い魔物のことをもっと詳しく聞きたかったのですが今は時間がありません」
「我々もこれより、城壁付近の防衛に向かいます」
アリアは不安を抑えきれずに尋ねた。
「王都は、守り切れそうなんですか?」
「はっきり申し上げて、状況はかなり厳しいかと……」
クラウスはそう言い残し、騎士たちとともに部屋を後にした。
(ルミ、遅いな……何かあったのかな)
外の騒ぎは収まる気配がなく、遠くから怒号や金属のぶつかり合う音まで聞こえてくる。傷と薬の影響に抗えず、アリアの意識は再び深く沈んでいった。
どれほど眠っていたのだろう。
目を覚まして室内を見回したが、ルミシェナの姿はなかった。
「まだ帰ってきてない……」
不安が膨らみ始めた時、扉を叩く音が響いた。
「はい……」
扉が開き、血に染まった光衣をまとったルミシェナが部屋へ入ってきた。
「ルミ、その傷……!」
「申し訳ございません、主様。廊下へ出たところ、城下へ魔物が侵入したとの知らせが届きました」
ルミシェナは傷を隠すように腕を引いた。
「近くで騎士たちが応戦していると聞き、見過ごすことができませんでした。おそばを離れてしまったこと、どうかお許しください」
「そんなことより、傷は大丈夫なの?」
「はい。これくらいなら問題ございません」
そこへ、メルヴァリスとロゼリアに続き、ぼろぼろになった服をまとい、全身に傷を負った者たちが入ってきた。
「メル……ロゼも? どうして王都に……」
「ああ、アリア様……なんと痛々しいお姿に」
メルヴァリスは寝台のそばへ駆け寄ったものの、傷だらけのアリアを前に手を伸ばすことさえためらった。
事情を尋ねると、メルヴァリスたちはアリアの身を案じ、セレミリアのギルドで話を聞いて王都まで駆けつけたらしい。
アリアの居場所を尋ねるため王城へ向かう途中、ルミシェナと合流したものの、すでに王都の一部へ魔物が侵入しており、戦っていた騎士たちに加勢することになったのだという。
周辺の魔物を退けたあと、メルヴァリスたちはルミシェナの案内で、アリアが療養している宿屋へ向かったらしい。
「ご主人様なら、きっと王都の方々を見捨てることはなさらないと思いましたので」
ロゼリアの言葉を聞きながら、アリアはメルヴァリスたちの後ろにいる者たちへ目を向けた。
「そっちの人たちは?」
尋ねると、彼女たちはロゼリアと同じく、あの器に囚われていた者たちだという。
アリアから命を与えられたことで戦えるようになり、メルヴァリスとロゼリアに同行して王都まで来たらしい。
見た目は人間とほとんど変わらないが、その種族は魔物や亜人などさまざまだった。
メルヴァリスは胸元に手を添えた。
「アリア様。現在、王都は極めて危険な状況にございます。騎士団とギルドの冒険者たちが応戦しておりますが、魔物の数が多く、このままでは押し切られるかと」
メルヴァリスは迷いのない声で続けた。
「アリア様のご命令もなく戦いに加わったこと、いかなる処罰もお受けいたします。ですが、あの場で騎士たちを見捨てることだけはできませんでした」
「どうかこの先も戦うことをお許しください」
「メル……」
メルヴァリスたちが加われば、戦況を変えられるかもしれない。
けれどアリアの脳裏には、四本腕の魔物に一方的に蹂躙された記憶が焼きついていた。
もしあれが王都へ現れれば、メルヴァリスたちでさえ無事では済まないだろう。
戦うことを許せば、大切な仲間を失うかもしれない戦場へ送り出すことになる。
だが許さなければ、その間にも王都で多くの命が奪われていく。
どちらを選んでも、誰かを危険にさらすことになる。
アリアは返事を待つ仲間たちを前に、答えを出せずにいた。




