【死の淵に差す白光】
アリアは短剣を抜き、崩れた入口へ足を踏み入れた。
礼拝堂跡の内部は、外から見るよりも広かった。割れた床石や朽ちかけた長椅子が散乱し、奥の壁には祈りに使われていたらしい紋様がかすかに残っている。崩れた天井から朝日が差し込み、宙を漂う埃を淡く照らしていた。
「足元、気をつけないとね」
「はい。どこが崩れてもおかしくありません」
ルミシェナが周囲を見回した時、倒れた長椅子の陰で何かが蠢いた。
灰黒い甲殻に覆われた小さな魔物が、床石の隙間から這い出してくる。赤く光る複眼がアリアたちを捉え、鋭い牙をかちかちと鳴らした。
細い脚を忙しなく動かしながら石床を駆け、見た目からは想像できない速さで距離を詰めてくる。
名前:ノクルバイト
Lv13 虫系
「来るよ」
アリアは短剣を構え、迫るノクルバイトを正面から迎えた。
小さな体が跳ね上がる。牙が届く寸前、横薙ぎに振るった刃が灰黒い甲殻を断ち切った。
ノクルバイトは床を転がり、細い脚を何度か痙攣させたあと、力を失って動かなくなった。
「……思ったより弱いね」
「はい。主様であれば、問題なく対処できる相手かと」
ルミシェナの言葉に頷き、アリアは短剣を握り直した。
先へ進むにつれて、同じ魔物が何度か姿を見せた。柱の陰から飛びかかるものや、壁の亀裂から這い出すもの、天井近くに張りついていたものもいたが、いずれも動きは単純で、落ち着いて対処すれば苦戦する相手ではなかった。
「……これなら、もう少し奥を見ても大丈夫そうかな」
倒した魔物を見下ろしながら、アリアは呟いた。
無理に深くまで進む必要はない。危険を感じたら、すぐに引き返せばいい。ここまで現れた魔物は弱く、数も少ないうえ、罠らしきものも見当たらなかった。
「主様。先へ進まれますか?」
「うん、少しだけ。何もなさそうなら戻ろう」
「承知しました。周囲の警戒は私が」
ルミシェナが頷き、二人は崩れた通路の奥へ足を進めた。
壁に刻まれた紋様は、礼拝堂に残っていたものよりも風化が進み、床には何者かが長い年月にわたって通ったような擦れ跡が続いていた。
途中で現れたノクルバイトを倒しながら進んでいくと、やがて通路の先に大きな石造りの扉が見えてきた。
扉は半分ほど崩れ、その向こうには礼拝堂をはるかに上回る広間が続いていた。
「……ここが最深部?」
アリアは崩れた扉をくぐった。
割れた石柱や崩れた石像があちこちに残り、壁際には古い燭台が並んでいる。中央には祭壇らしき台もあったが、魔物の気配はなかった。
祭壇の窪みは空で、手がかりになりそうな品も残されていなかった。ルミシェナも瓦礫や柱の裏を確認したが、危険は見つからなかった。
「何もなさそうだね。じゃあ、戻ろうか」
「はい」
出口へ向かって先を歩いていたアリアの足元が沈み、その一帯に無数の亀裂が走った。
「……え?」
足元が崩れた途端、アリアは瓦礫とともに地下へ落下した。
「主様!」
「ルミ!」
アリアが必死に手を伸ばすと、ルミシェナも咄嗟に白紗を放った。しかし、崩れ落ちる瓦礫に阻まれて腕を捉えられず、アリアは穴の奥へ落ちていった。
広間の天井が急速に遠ざかり、穴の縁から身を乗り出すルミシェナの姿も、ほどなく闇へ呑まれていった。
底へ着く気配もないまま、アリアの体は闇の奥へ沈んでいく。
砕けた石が周囲をかすめ、冷たい風が背中へまとわりつく。アリアは短剣を手放さないよう強く握りながら体勢を整えようとしたが、足をかけられる場所はどこにもなかった。
「まずい……!」
暗闇の底に、崩れた岩と土砂が迫る。
アリアは斜面に激しく叩きつけられ、積み重なった石の上を転がった。肩と背中を何度も岩にぶつけ、ようやく止まった時には、呼吸を整えるだけでも精いっぱいだった。
「うぅ……」
痛む肩を押さえながら上体を起こす。
自分が落ちてきた穴は、頭上に小さく見えるだけで、ルミシェナの姿はなかった。壁面は切り立ち、上へ戻れそうな足場や階段も見当たらない。
「ルミ! 聞こえる!?」
呼び声だけが暗闇に反響し、返事はなかった。
「……完全にはぐれちゃった」
アリアは短剣を支えに立ち上がった。
上へ戻れないなら、別の出口を探すしかない。痛みをこらえながら瓦礫を越え、暗がりへ進んでいく。
地下には、礼拝堂の下とは思えないほど巨大な洞窟が広がっていた。むき出しの岩肌は湿って黒ずみ、足元には砂利と崩れた石が積もっている。奥へ進むほど空気は冷たくなり、どこかで流れる水の音だけが響いていた。
岩肌のところどころに青白い光苔が生え、その弱い光が暗い洞窟をぼんやりと照らしている。
「……出口、どこかにあるよね」
不安を押し込めるように呟き、短剣を握り直す。
しばらく進むと、天井の高い空洞へ出た。
天井から垂れ下がる岩の影が幾重にも重なり、その奥に巨大な何かが座り込んでいる。
岩の塊にも見えたが、青白い光に目が慣れるにつれ、異様に大きな人型であることが分かった。
全身は黒ずんだ外殻に覆われ、四本の長い腕の先には、石すら容易に切り裂きそうな鉤爪が伸びている。背中からは角に似た棘がいくつも突き出し、後方へ延びた太い尾が地面を這っていた。大きく裂けた口には鋭い牙が並び、尖った耳を持つ頭部は深く伏せられている。
巨体は古い石像のように動かない。
眠っているというより、何百年ものあいだ、この場所で目覚める時を待ち続けていたかのようだった。
アリアは呼吸を抑え、鑑定を向ける。
名前:ゼノヴァルグ
Lv86 魔星種
筋力:1430
敏捷:1280
魔力:820
体力:2400
状態:休眠・魔封印
特性:不死・異常再生
「……魔星種?」
聞いたことのない種族だった。
それ以上に、表示された能力が異常だった。これまで対峙してきた魔物とは比較にすらならず、特性には不死と異常再生まで並んでいる。
さらに、状態欄には魔封印の文字があった。
本来の力を抑え込まれているにもかかわらず、この数値なのだ。
戦っていい相手じゃない。
アリアが音を立てないよう後退しかけた時、伏せられた顔の奥に赤い光が灯った。
ゼノヴァルグの首が持ち上がり、乾いた外殻の擦れ合う音が地下洞へ広がっていく。四本の腕のうち一本が地面へ伸び、鉤爪が石床へ食い込んだ。
アリアは反射的に後ろへ跳ぶ。
黒い巨体が揺らいだ。
直後、腹部を押し潰すような衝撃を受け、アリアの体は大きく弾き飛ばされた。崩れた柱へ背中から激突し、腹の奥が激しく痙攣する。
「かはっ……!」
何をされたのか、まるで分からなかった。
視界が捉えたのは、巨腕がわずかに動いたところまでだった。それだけで体の芯まで軋み、立ち上がろうとしても脚に力が入らない。
ゼノヴァルグが顔を向けた。
外殻の隙間から紫の光を漏らし、倒れたアリアを見下ろした。赤い眼には、感情らしいものが何一つ浮かんでいなかった。
「くっ……!」
アリアは柱に手をついて身を起こし、短剣を構え直す。
ゼノヴァルグの腕が動いた。
振り上げたように見えた時には、鉤爪がすでに眼前へ迫っていた。アリアは咄嗟に短剣を差し込み、軌道を逸らそうとする。
刃は外殻へ食い込むことすらなく、甲高い音を響かせて跳ね返された。
爪先が肩をかすめ、衣服ごと皮膚を切り裂く。アリアは勢いを受け止めきれず、片膝をついた。
避けられたわけではない。
狙いがわずかに外れただけだった。
「硬すぎる……!」
別の腕が頭上から迫る。
受ければ終わる。
アリアは残った魔力を自分の数字へ叩き込み、筋力と敏捷、体力を一気に引き上げた。
筋力:655
敏捷:654
魔力:100/1900
体力:358
並の魔物なら、これほどの強化を必要とすることすらない。
だが、それでもゼノヴァルグには遠く及ばなかった。
「これで……!」
強化された脚で地面を蹴る。
ゼノヴァルグの輪郭がわずかに揺れた。
そう感じた時には、肩口を深く裂かれていた。
焼けつくような痛みが全身を駆け抜け、アリアは岩壁へ打ちつけられた。肺の中の空気が一息に押し出され、声すらまともに出せなかった。
「がっ……!」
強化しても、爪の軌道どころか、腕を振るう動きさえ捉えられない。
何をされたのか理解できたのは、傷を負ったあとだった。
アリアは壁に手をつき、震える脚をどうにか立たせる。
ゼノヴァルグは待たなかった。
一本の巨腕が胴を薙ぎ払い、宙へ浮いた体を別の腕が背後から叩き落とした。地面へ転がったアリアを追い、太い尾が横薙ぎに振るわれた。
咄嗟に腕で庇ったものの、衝撃で体が何度も転がる。
握っていた短剣が手から離れ、ゼノヴァルグの足元へ滑り込んだ。
ゼノヴァルグは短剣を踏み砕き、刃を粉々にした。
「……っ」
散らばった破片を見つめる間もなく、鋭い鉤爪がアリアへ振るわれる。
脇腹を深く抉られ、喉の奥から声にならない息が漏れた。傷口を押さえようとしても腕が震え、膝から力が抜けていく。
逃げなければならない。
頭では分かっているのに、手足が思うように動かなかった。砂利を掴んで前へ進もうとしても、指先が地面を引っかくだけで、傷ついた体を引きずることすらできない。
ゼノヴァルグの手がアリアの腕を掴み、軽々と宙へ吊り上げると、力任せに握り込んだ。骨が砕ける鈍い音とともに激痛が全身を貫き、アリアの喉から絶叫が迸った。
「ぁああっ……!」
続けて岩肌へ打ちつけられ、アリアは地面へ崩れ落ちた。砕かれた腕にはもはや感覚すらなく、起き上がろうとしても体は動かなかった。
強化した数字は、この化け物を倒すための力にはならなかった。ただ殺されるまでの時間を、わずかに引き延ばしただけだった。
魔力も底をつきかけ、書き換えを維持する意識さえ途切れ始めている。
ぼやけたステータスが宙に浮かんでいた。
数字はまだ残っている。
けれど、それを変える力は、もうどこにもなかった。
「ル……ミ……」
唇からこぼれた声は、暗がりへ消えていく。
助けを求めたわけではない。最後に浮かんだ名前が、口から漏れただけだった。
白い光衣をまとい、いつも自分の前に立ってくれた背中が頭から離れない。
重い足音が近づいてくる。
ゼノヴァルグは急ぐ様子もなく、倒れたアリアの前まで歩み寄った。抵抗する力が残っていないと分かっているのか、四本の腕をゆっくりと広げ、鉤爪を胸元へ向ける。
アリアは動こうとした。
だが、腕は上がらず、足にも力が入らない。すぐそばには砕けた短剣の破片が落ちていたが、そこへ指を伸ばすことさえできなかった。
ここで死ぬわけにはいかない。自分の帰りを待っている、大切な仲間たちのもとへ戻らなければならない。
ゼノヴァルグの鉤爪が振り下ろされる。
避けられない。
防ぐこともできない。
胸を貫かれる寸前、白い光がアリアの前へ割り込んだ。
幾重にも重なった白紗が鉤爪を受け止め、凄まじい衝撃が地下洞を揺らす。光の布は大きくたわみ、今にも引き裂かれそうになりながらも、アリアへ届くはずだった一撃を食い止めていた。
「主様!」
聞き慣れた声が、沈みかけていたアリアの意識を引き戻した。
ぼやけた視界の先に、白紗結界を広げたルミシェナの背中がある。緑の髪は乱れ、聖衣の裾は裂けていた。
露出した腕には無数の擦り傷が走り、裂けた白紗には岩の欠片がいくつも絡みついていた。
「……ル、ミ……?」
かすれた声で名を呼んでも、ルミシェナは振り返らない。鉤爪に押し込まれる白紗を両腕で支え、傷ついたアリアを背に庇い続けている。
「お待たせして、申し訳ありません」
苦しげな声だったが、その意志にはわずかな揺らぎもなかった。
「これ以上、主様には指一本触れさせません」
その言葉を最後に、白紗を支えるルミシェナの背中が闇に滲み、アリアの意識は途絶えた。




