【揺れる心と新たな縁】
クラウスに案内され、アリアたちは客室へ戻った。
応接室での話は終わったものの、胸の奥にはまだ重いものが残っていた。ラゼルムのこと、助け出した者たちのこと、そして王家が動くという言葉。どれも簡単に整理できる話ではない。
けれど、扉をくぐった途端、アリアは思わず足を止めた。
部屋の奥に、湯気の立つ浴室が用意されていたのだ。
「……え、これ使っていいの?」
白い石で造られた浴槽には、澄んだ湯が満たされている。壁には淡い色の石細工が施され、棚には香りの良い石鹸や柔らかな布まで揃えられていた。セレミリアの宿とは比べものにならないほど立派で、アリアはしばらく声も出なかった。
「王城の客人として扱われている以上、遠慮なさる必要はないかと」
ルミシェナが落ち着いた声で告げる。
「でも、さすがに豪華すぎない?」
「主様がそれだけ大切に扱われている、ということでしょう」
そう言われると、かえって身の置き場に困った。
それでも、街を歩き、王に話を聞かれ、気づかないうちに体は疲れていたのだろう。湯に身を沈めると、張り詰めていた肩の力がゆっくりと抜けていった。
温かな湯が肌を包み、香草のほのかな匂いが浴室に広がる。
「……王城って、すごいね」
思わず漏れた声に、脱衣所の方で控えていたルミシェナが答えた。
「はい。私も、ここまで整えられた浴室は初めて見ました」
「ルミも後で入ってね。せっかくだし」
「主様のお世話が終わりましたら」
「もう、そうじゃなくて。ちゃんと休んでって意味」
アリアがそう返すと、少し間を置いてから返事が届いた。
「……承知いたしました」
その声に、アリアは湯の中で頬を緩めた。
入浴を終えると、用意されていた寝間着も驚くほど上質だった。柔らかな布地は肌触りがよく、袖を通すだけで自分には不相応なものを借りているような気分になる。
部屋へ戻ると、卓の上には軽い食事と温かな飲み物が並べられていた。
アリアは椅子に腰を下ろし、焼き菓子を一つ手に取る。
「……なんだか、至れり尽くせりすぎて怖いかも」
「警戒は必要ですが、今はご厚意として受け取ってよいと思います」
「ルミがそう言うなら、そうする」
甘さ控えめの焼き菓子を口に運ぶと、昼間の広場で食べたものとはまた違う、上品な味が広がった。
王都の街は賑やかで、王城はどこまでも整っている。
けれど、どちらも同じ国の一部なのだと思うと、不思議な感覚があった。
アリアは窓辺へ移り、夜の王都を見下ろした。
通りにはまだ灯りが残り、遠くから人の声も聞こえる。昼間ほどの賑わいはないが、王都は夜になっても眠りきってはいないらしい。
「今日だけで、いろいろありすぎたね」
「主様は、よくお応えになりました」
「うまく話せてたかな」
「はい。少なくとも、陛下にも殿下にも、主様のお考えは伝わったはずです」
ルミシェナの言葉は、いつも過剰に飾らない。
だからこそ、アリアは少しだけ安心できた。
やがて夜も更け、アリアは用意された寝台に横になった。
ふかふかの寝具に体が沈み込み、慣れない感触に戸惑いはしたものの、疲れの方が勝った。助け出した者たちや、王都で見た人々の笑顔が頭をよぎる。
それでも、湯の温もりがまだ体に残っていたおかげか、アリアの意識はゆっくりと眠りへ引き込まれていった。
翌朝。
窓から差し込む光で目を覚ましたアリアは、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井。
広すぎる部屋。
柔らかすぎる寝台。
「あ……王城だった」
体を起こすと、すでに身支度を整えたルミシェナが控えていた。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ルミ。早いね」
「主様より遅く起きるわけにはまいりませんので」
「別にいいのに……」
アリアが困ったように笑った時、扉の外から控えめなノックが響いた。
ルミシェナがすぐに扉の方へ向かう。
「どなたでしょうか」
「セリオン・レグナベルです。朝早くに申し訳ありません。アリア殿はお目覚めでしょうか」
聞こえてきた声に、アリアは思わず背筋を伸ばした。
「王子様!?」
昨日会ったばかりの相手が、朝から自分の客室を訪ねてきたのだ。
ルミシェナが確認するように振り返る。
アリアは慌てて髪を整え、服の乱れを直した。
「だ、大丈夫。入ってもらって」
ルミシェナが扉を開けると、セリオンが穏やかな表情で立っていた。
昨日の応接室で見た時よりも、いくらか柔らかい雰囲気に見える。王族らしい品はあるが、威圧するような空気はなかった。
「おはようございます、アリア殿。突然訪ねてしまい、失礼しました」
「お、おはようございます。いえ、大丈夫です」
アリアは少しぎこちなく頭を下げた。
セリオンはそれを見て、控えめに笑う。
「昨日、気楽な場で話しましょうと言ったばかりですから。まずは、その約束を守りに来ました」
「えっと……それで、私に何か?」
「よろしければ、朝食をご一緒しませんか。父上の前では聞けなかった話もありますし、私も王都を案内する立場として、少しは役に立てると思います」
王子からの朝食の誘い。
少なくとも、アリアが冒険者として過ごしてきた日々には、こんな朝は一度もなかった。
アリアは返事に迷い、背後のルミシェナへ視線を向けた。
ルミシェナは一礼し、落ち着いた声で告げる。
「主様のお心のままに」
そう言われ、アリアは覚悟を決めた。
「……分かりました。ご一緒します」
「ありがとうございます。では、支度が整いましたらお声がけください」
セリオンは丁寧に会釈し、扉の前で一歩下がった。
昨日まで遠くに見えていた王族が、少しずつ自分の近くへ来ている。
それが良いことなのか、危ういことなのか、アリアにはまだ分からない。
けれど、少なくとも今は逃げる場面ではなかった。
アリアは寝間着の袖を握りしめ、王城で迎える二日目の朝へ向き直った。
支度を終えたアリアが部屋を出ると、セリオンは廊下で待っていた。
護衛の騎士も控えていたが、昨日ほどの堅苦しさはない。セリオンはアリアの姿を見ると、礼を崩さずに微笑んだ。
「お待ちしておりました。では、こちらへ」
「はい。よろしくお願いします」
アリアが歩き出すと、ルミシェナも当然のように後ろへ続いた。
案内されたのは、大きな食堂ではなく、庭に面した明るい小部屋だった。窓の外には手入れされた草花が広がり、朝の光を受けた噴水がきらめいている。
卓の上には焼きたてのパン、果物、卵料理、香草を使った温かなスープが並べられていた。どれも丁寧に作られているのが一目で分かり、アリアは席へ着く前から肩に力が入ってしまう。
「すごい……朝からこんなに」
「王城の朝食としては控えめな方です。アリア殿が緊張なさらないよう、なるべく人数も減らしました」
「お気遣い、ありがとうございます」
そう答えたものの、声は少し硬かった。
セリオンは向かいの席へ座り、給仕に合図を送った。ルミシェナはアリアの背後へ控えようとしたが、セリオンがそちらへ視線を向ける。
「ルミシェナ殿も、よろしければ席を用意させます」
「お気遣い感謝いたします。ですが、私は主様の従者として控えさせていただきます」
「分かりました。無理にとは言いません」
セリオンはそれ以上踏み込まず、アリアへ向き直った。
食事が始まると、最初は当たり障りのない話が続いた。王都の店のこと、昨日見た広場のこと、香油を買った露店のこと。セリオンは王族らしく整った話し方をしながらも、アリアの反応を急かすことはなかった。
「香油を買われたのですね」
「はい。露店の人に勧められて。いい匂いだったので、つい」
「よく似合いそうです」
「えっ」
思わぬ言葉に、アリアはパンを持った手を止めた。
セリオンはからかう様子もなく、落ち着いた顔で続ける。
「昨日も思いましたが、アリア殿は華やかなものを身につけても、きっと負けない方だと思います」
「そ、そういうことを急に言われると困ります……」
「失礼しました。ですが、嘘を言ったつもりはありません」
アリアは返す言葉に迷い、視線を料理へ落とした。
背後にはルミシェナがいる。
何も言わないが、きっとセリオンの言葉一つ一つを見極めているに違いない。
しばらく食事を進めたあと、セリオンは手元の杯を置いた。
「アリア殿。昨日、あなたの話を聞いてから、考えていました」
「昨日の話、ですか?」
「はい。助けを求める者を見つけたから助けた。あなたはそう言いました」
アリアは黙って頷く。
「王族として生まれると、多くの言葉を聞きます。正義、責任、民のため、国のため。どれも大切なものです。けれど、言葉が大きくなるほど、本当に見ているものが何なのか分からなくなる時がある」
セリオンの声は穏やかだったが、その奥には真剣さがあった。
「だからこそ、あなたの答えが忘れられませんでした。理由を飾らず、目の前にいたから助けたと言える人に、私は初めて会った気がします」
「そんな、私は立派なことを言ったわけじゃ……」
「分かっています。だからこそ、胸に残ったのです」
アリアの鼓動が、妙に大きく聞こえた。
セリオンはアリアをまっすぐ見ていた。
王子として客人に向ける礼儀ではなく、目の前の一人へ向ける眼差しだった。
「アリア殿」
「はい」
「まだ出会って間もないことは分かっています。けれど私は、あなたのことをもっと知りたいと思っています」
アリアは言葉を失った。
それは、ただの社交辞令ではなかった。
王子としての礼儀でも、客人への気遣いでもない。セリオン自身の気持ちとして告げられた言葉だと分かった。
「……それは、どういう意味で」
「あなたに惹かれています」
迷いのない声だった。
アリアは頭の中が真っ白になり、すぐには言葉を返せなかった。
前世の感覚が残る自分には、王子から向けられる好意をどう受け止めればいいのか分からない。ただ気持ちだけが落ち着かず、まともに顔を上げることもできなかった。
「ご、ごめんなさい。急に言われても、私……」
「返事を急がせるつもりはありません」
セリオンはすぐにそう告げた。
「ただ、隠したまま普通に接するほど器用ではありませんでした。迷惑であれば距離を取ります。ですが、あなたをもっと知りたいと思ったことだけは、伝えておきたかったのです」
アリアは膝の上で手を握った。
断るべきなのか、受け止めるべきなのか、今は何も決められない。
ただ、セリオンの言葉が軽いものではないことだけは分かった。
「……嫌、ではないです」
ようやく出せた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
「でも、まだ分かりません。セリオン殿のことも、私は昨日会ったばかりですし……それに、私は冒険者で、王子様とは立場も違います」
「ええ。分かっています」
「だから、今すぐ答えは出せません」
「それで十分です」
セリオンの表情が少し和らいだ。
「嫌ではない、と言っていただけただけで、今日のところは救われました」
「そんなふうに言われると、余計に困ります……」
アリアが顔を伏せると、セリオンはそれ以上言葉を重ねず、そっと表情を和らげた。
朝食はその後、妙にそわそわした空気の中で終わった。
料理の味は確かに美味しかったはずなのに、アリアには後半の記憶があまり残っていない。セリオンが何か話してくれていた気もするが、自分がまともに返事をできていたかさえ怪しかった。
やがて席を立つ時間になり、セリオンは扉の前までアリアを送った。
「今日はありがとうございました。突然のことで困らせてしまったことは、改めて謝ります」
「いえ……驚きましたけど、ちゃんと話してくれたのは分かりました」
「また話す機会をいただけますか」
アリアは返事に迷ったあと、短く頷いた。
「はい。落ち着いてからなら」
「ありがとうございます」
セリオンは深く礼をした。
その仕草は王子として完璧だったのに、顔を上げた時の表情には、年相応の緊張が残っていた。
アリアはそれを見て、落ち着きかけていた心がまた揺れた。
朝食の小部屋を離れ、アリアとルミシェナは客室へ戻った。
扉が閉まった途端、アリアは力が抜けたように椅子へ腰を下ろす。
「……ルミ」
「はい、主様」
「今の、夢じゃないよね」
「夢ではございません」
即答され、アリアは両手で顔を覆った。
「王子様に告白された……」
「そのようですね」
「そのようですね、じゃないよ……どうしよう」
ルミシェナはしばし考えたあと、アリアのそばへ歩み寄った。
「主様がすぐに答えを出す必要はございません。殿下も、それを望んではおられませんでした」
「うん……」
「ただ、誠実な言葉ではあったと思います」
「ルミもそう思う?」
「はい。少なくとも、戯れであのようなことを口にする方には見えませんでした」
アリアは顔を上げ、窓の外へ視線を向けた。
王家の問題、ラゼルムの調査、助け出した者たちの保護。
それだけでも大きな話なのに、そこへセリオンの告白まで加わってしまった。
「……本当に、王都に来てから色々ありすぎるよ」
アリアが力なく呟くと、ルミシェナはいつもの声で答えた。
「主様の進まれる道には、多くの縁が集まるのかもしれません」
「縁、か……」
セリオンのまっすぐな言葉が、何度も頭の中でよみがえる。
返事は、まだできない。
けれど、なかったことにはできそうになかった。
アリアは窓の外へ視線を向けたまま、しばらくその場から動けずにいた。




