第二話 汚れた手
翌日。充が目を覚ますと、そこには知らない白色の天井が広がっていた。静まり返った部屋。鼻を撫でる消毒液の匂い。
充は部屋を見渡して、自身が病室のベッドで寝ていることを理解した。
確か昨日、俺は雷人に襲われて死にかけた。でもなんとか倒して、その後あの変な眼帯の女に会って──
「気がついたか、少年」
「あっ、変な眼帯女」
「変とは失礼だな」
充が昨日の出来事を振り返っていると、昨日自宅の前で出会った女、霧崎綾芽が病室に入ってきた。
昨日と同じで右目に眼帯、上下黒色のスーツ姿。そして相変わらずの無表情である。
「ここどこですか?」
「ここは避雷針内にある病棟だ。それと、見舞いの品だ」
綾芽は両手で抱えていた紙袋をテーブルに置いた。
「君の口に合うか分からないが、好きな時に食べてくれ」
袋いっぱいに詰められた沢山のジュースやお菓子。そして豆腐、ねぎ、わかめ、煮干し、味噌……。
「……ん、なんだこれ?」
「味噌汁の材料だ」
「味噌汁好きなんすか?」
「大好きだ。いつも持ち歩いている」
すると綾芽はポケットから小さな水筒を取り出した。そして蓋に中身を注ぐ。湯気と共に出汁が香りが広がった。
綾芽は味噌汁をゆっくりと口に運んだ。
「うん、やはりいつ飲んで美味いな」
「だからってお見舞いに味噌汁の具材持ってくるか? やっぱ変だな、あんた」
充の顔に少し笑みが浮かんだ。
綾芽はベッドの横に設置されていたパイプ椅子に腰掛けて尋ねた。
「身体の調子はどうだ?」
充は伸びをしてみる。その時、充はすぐに自分の身体に起きた変化に気付いた。
身体が驚く程軽い。それから肘から指先にかけて若干痺れがある。充は指を動かした。すると指先からパチパチと音がした。
「手がちょっと痺れてるけど、他はどこも痛くないっすね。むしろ昨日より調子がいいくらいです。でも手から静電気っぽいのが……」
「物凄い電力だな。やはり君は適合者になったようだ。しかもかなり強力な部類だ」
「適合者……?」
充は首を傾げた。
「落雷や電撃を受けた人間は大抵、死ぬか雷人化する。でも稀にそのどちらも免れて雷の力に適応する例外が存在する。それが適合者だ」
充はまだ雷人や適合者についての話が他人事のように感じていた。しかし手から溢れ出る電気を見て、自分の置かれている状況を再認識させられた。
「俺がその適合者……?」
「そう、君は奇跡的に生存し、類稀な力を授かった。だがそれは、使い方を間違えれば周囲の危険になり得る強大なものだ」
「じゃあ、これから俺はどうなりますか?」
充は不安げに問うた。
綾芽は慣れたように続ける。
「雷が暴発する可能性がある以上、君は国の監視下で一生行動を制限され続けるだろう」
「そんな……」
生きているから自分は運が良かった。充はそう思っていたが、同時に運が悪かったということを自覚した。
「だが案ずるな。他にも選べる道がある」
綾芽は人差し指を立てて見せた。
「一つ目は訓練を重ねて雷を自在に制御できるようになる。そうすればある程度の自由が手に入る」
そして次に中指を立てた。
「二つ目は雷を制御する訓練に加え戦闘技術を学ぶ。そして私達と共に、雷を伐る者──雷伐師として任務を遂行することだ」
「あんな化け物と戦うんすか!?」
充は目を丸くして驚いた。対して綾芽は淡々と話す。
「降水量が多い日本は雷人災害が頻発している。でも雷伐師は常に人手不足なんだ。だから君にもこの仕事を手伝ってほしい」
「俺にそんなことできるのか……?」
「もちろん強制はしない。この職は死と隣り合わせの危険なものだからな」
綾芽は眼帯で覆われた右眼に軽く触れた。
充は思い知った。もう自分は普通じゃない。そして普通に戻ることもできないということを。
「いきなりそんなこと言われても俺、どうしたらいいか分かんないですよ……」
「そうだな。まだ分からないことばかりの少年にこんな選択を迫るのは心苦しく思う。だからゆっくり考えてほしい。君自身の未来の生き方を」
人生の分かれ道。それはいつか必ず選ばなければならないと知っていた。だが充は、その時がこのような形で訪れようとは夢にも思わなかった。
しかし漠然とした未来について考える前に、充はどうしても尋ねたいことがあった。
「──母さんは?」
母さん。この言葉を聞いた途端、綾芽の口元が僅かに揺らいだ。病室が沈黙に包まれる。
「母さんは今どうしてますか?」
綾芽は口を噤んだ。そして数秒の沈黙の後、言葉を選ぶように口を開いた。
「……捜査班が調査にあたっている」
「それって……まだ帰ってないってことすか?」
「今私から少年に教えられることはない。だから今日はゆっくり休むといい」
そう言い残して綾芽は足早に病室を立ち去った。
「なんだよ、あの眼帯女……。ま、流石の母さんでも家があんなことになってたら慌てるよな。とりあえず母さんに入院してることを連絡しておこう……。って、スマホ壊れてんじゃん!」
充のスマートフォンは雷人の高電圧でショートしていた。
病室を出た綾芽は、廊下の壁に寄りかかって俯いた。拳を強く握り、胸が締めつけられる感情を噛みしめる。
「高校生とはいえまだ幼い子供。そんな少年に絶望を味わわせるわけにはいかない……」
夕方。充は綾芽の差し入れが喉を通らなくなっていた。壊れたスマートフォンを見つめても不安が募るばかり。
──未来のことが気がかりなのだ。
「もう自分で確かめに行ってやる」
居ても立ってもいられなくなった充は、入院着のまま病室を抜け出した。
無我夢中で走った。すれ違う通行人の視線にさえ気づかないほどに。
日没前の外はまだ、まとわりつくような暑さだった。だが充は、どうしようもなく寒気がした。
大丈夫……絶対に無事だ。いつもの時間、いつもの家で必ず俺を待ってる。
雷人が今際に見せた不可解な行動。綾芽の態度。不安に蓋をしようと思うほど、今まで目を背けていた違和感が一本の糸で結ばれていく。
「……ここだ」
夕日が半身を隠した頃、充は現場に到着した。家とその前の道路には規制線が張られていた。
規制線の内側では、十人ほどの捜査員が慌ただしく行き交っている。
その黄色と黒のテープは、一般人の立ち入りを強く拒んでいた。
「母さん、どこに居るんだ?」
充は周囲を見回した。
散らかった玄関。割れた窓ガラス。壊された塀。全てが昨日のままだった。
だがそれは充が求めた光景ではない。未来の姿が欠けていては意味がなかった。
「母さん、居るなら返事してくれ……! 母さん!」
段々と増す声量。やけにうるさいひぐらしの声。額に染みる冷や汗を、夏の暑さのせいにしたくなる。
「居ないのか……」
諦めかけたその時、何かを覆った一枚のブルーシートが目についた。その端からは何かがはみ出ている。
「あれって……」
それは、充が昨日倒した雷人の右手だった。よく目を凝らすと、手首の辺りが夕日に反射して光っていることに気付いた。
充の視線がその一点に吸い寄せられる。
規制線を潜ってブルーシートが掛けられた雷人の死体に近づく。一歩進む度、"それ"は徐々に輪郭を帯びる。そしてその正体を確信した瞬間、激しい焦燥に駆られた。
「おい坊や、危ないよ!」
充は捜査員の制止に耳を貸さなかった。絡まれる腕を振り払って、雷人の死体の傍まで駆け寄る。そして死体の右手首に着けられた"それ"を手に取った。
「これって母さんの……」
それは金属製のブレスレット。ただし、ただのブレスレットではない。
──未来がいつも身に着けていたものだった。
「嘘だ……」
ブレスレットは煤で黒く汚れていて、見た目は全く異なっている。しかし忘れもしない重さと手触りが充に認め難い事実を突きつける。
「じゃあ、俺が……俺が母さんを……」
全てを悟った充はその場に膝から崩れ落ち、言葉にならない叫びが溢れ出した。
どうしてこんなことになった。どうしてもっと早く気付けなかった。どうして母さんがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
いや……理解ってる。問うまでもなかった。
「全部俺のせいだ……」
日が沈み、辺りは闇に包まれた。
夜の闇に包まれたアスファルトの上で、充は悔やみきれない後悔と絶望に苛まれた。
人々が寝静まった頃、充は数人の捜査員に付き添われて病棟に戻った。
すると、俯いた充の姿に気付いた綾芽が慌てて駆け寄って来た。
「少年! 探したぞ、どこに行っていたんだ!?」
充は喉が詰まって声を出せなかった。
暫くの沈黙の後、力の抜けた小さい声で答えた。
「……俺はもう取り返しのつかないことをした」
「何を言っているんだ、少年……?」
「あんたも聞いてたんでしょ。あの雷人、母さんなんだろ。それに……俺が母さんを殺したことも」
そう言って充は汚れたブレスレットを取り出した。
綾芽は思わず息を呑んだ。
「……嘘つき」
「違う、君は誰も殺してなどない。君の母は不慮の事故に見舞われた。それだけだ。だから……少年が自分を攻める必要はないんだ……」
綾芽の無表情は崩れていた。
「もう放っておいてください。俺の汚れた手はもう元には戻らないんだから……」
充は重たい足どりで綾芽の横を通り過ぎる。
「待て、少年……!」
綾芽は遠ざかっていく充の背中を追えなかった。
充の姿が見えなくなると、綾芽は自身の掌を見た。
「……私の手は、君よりもずっと汚いよ」
病室に籠った充はベッドで布団に潜り、枕に顔を擦り付ける。ブレスレットを握ると充の目が再び潤み、滴が溢れ出る。
「昔俺が母の日にあげたやつ、ずっと大事にしてくれてたんだな……」
充はブレスレットを見つめながら在りし日の未来の姿を瞼の裏に浮かべた。
◇◇
ある暖かい春の日、充と未来は手を繋いで歩いていた。幼く小さい充の手を、未来の大きく温かい手が包む。
前には親子連れが歩いていた。子の両手を左右から母親と父親が握っている。
充にはその三人の姿がやけに眩しく光って見えた。
「おかあさん。おれ、おとうさんに会いたいよ。おとうさんはどこにいるの?」
「充……」
未来は幼い充の突然の言葉に驚いたが、茶を濁すことなく優しく答えた。
「お父さんはね、沢山の困ってる人を助けに行ってるの」
「なんで?」
「お父さんは困ってる人を放っておけない人なのよ」
未来は昔日の思い出を振り返りながら更に続ける。
「お父さんはいつもこう言ってたのよ。『目の前に困っている人が居たら、自分にできることを精一杯して助けてあげなさい』って」
「どうして?」
「誰かを助けたらね、助けたいって気持ちがいろんな人に伝わるの。それが巡り巡って、いつか自分が困った時に返ってくるのよ」
「そうなの?」
「そう。だから充も困ってる人が居たら助けてあげるのよ。そうやって誰かを助け続けたら、そのうちお父さんに会えるかもね」
充の瞳にはその時の未来の穏やか笑顔が、どんなに美しい宝石や景色よりも輝かしく映った。
「わかった、おれもこまってるひとをたすける!」
◇◇
「自分にできることを精一杯……」
彼方の記憶が胸の内側で反響する。
適合者としての力を得た今、自分にできる精一杯とは何か。充はその答えを確信した。
窓の外に目をやると空の端が暁に染まっていた。
明るくなり始めた病室で、充は身体を起こして頬を両手でパシッと叩く。充が気合いを入れる時にいつも行う動作だ。そしてブレスレットを右手首に着けた。
「母さん。俺、決めたよ」
充の頬は、もう乾いていた。
充は病室を飛び出し綾芽の下へと走った。綾芽は廊下に設置されたベンチに腰掛けていた。
「眼帯さん」
「少年……?」
「俺は家族を殺してしまった。だからこそ、これ以上誰かにこんな悲しみを背負わせたくない。そのためにこの力を使いたい。だから俺を雷伐師にしてくれ!」
「……っ!」
充は先程までとは違う、悲しみを捨て去った顔をしていた。綾芽は驚きながらも、それに応えるように立ち上がり真剣な眼差しで問う。
「雷伐師は、戦えば身も心も痛みを伴う。時には大切な人を目の前で亡くすこともある。理不尽な逆境に苦しめられ後悔するかもしれない。それでもいいのか?」
答えは決まっていた──。
「後悔も、絶望も、もうとっくにしてる。だからこの汚れちまった手でも救える命があるなら俺は戦うよ」
窓から差し込む朝日が、充の横顔を照らす。その真っ直ぐな瞳は決意と覚悟に満ちていた。
「──いい目だ、少年」




