06 どこにも
「お、あ、ばっ――」
言葉が喉の奥で渋滞した。
つっかえて出てこない。そのせいで、身体も動かない。その間、本当に綺麗に穂ノ倉さんが宙を舞っているのが見える。頭から壁に突っ込んでいくのが見える。ぶおん、とあずきのバイクが音を鳴らして、ギギーッと床を擦るようにして停車するのか見える。
友達が、人を撥ねるところを見た。
外から、窓から、二階の図書館に突っ込んできて。
「――馬っ鹿野郎!」
本当にこの現場を目にして最初に口にする言葉はこれでよかったのか。
疑問は尽きないが、とにかくおれは、その場で一番人間らしい対応を取ることにした。
「大丈夫か!」
撥ね飛ばされた人に駆け寄る。
穂ノ倉さんは、とんでもない勢いで吹っ飛ばされていた。ぶつかった壁に穴が開いている。そこで一度バウンドして、床に突っ伏している。どう考えても頭を打ってるし、それ以外の場所も全身満遍なく打っている。動かさない方がいい。しかし、何かしら怪我の具合を見ないことには処置のしようもない。
肩を掴んだ。
そうしたら、首を掴まれた。
「――ああ。きみ、魔法使い?」
穂ノ倉窓架に。
あれだけの勢いでバイクに轢かれた人が、普通に起き上がって、おれを宙吊りにした。
「タイミングが悪い……いや、私がいるのを知ってここまで来たのかな?」
「化け物に教えてやる義理はない」
「あらら。そんなこと言っちゃっていいのかな」
穂ノ倉窓架は、無傷だった。
多少の汚れはついているけれど、少なくとも、見えている肌には傷ひとつない。しかも、おれを掴んでいるのは右手一本。おれだってあずきよりは多少細いが、細すぎるってほどじゃない。大の大人だ。それが、腕一本で宙吊りにされている。
「あんた、一体――」
「細かいことなんていいじゃないですか」
そのままぶん回されるようにして、おれの身体は反転する。
首を後ろから抱えられるような形だ。穂ノ倉窓架が耳元で囁く。笑っているような声で、背中に指を這わせながら、
「私たち、結構相性良いでしょ? これからも仲良くしましょうよ。ほら、そこの魔法使いも。いいんですかあ? 友達の恋人に手を上げるとか最低の――」
「消えろ!」
ものすごい風が吹いた。
としか、言いようがない。
昔、台風が来たときのことをおれは思い出していた。どうもすごい音で雨が降っていると思ったら急に止んで、不思議なこともあるもんだなあと百羽と一緒に外に出たら、その後またすごい音で雨が降り出して生命の危機を感じる羽目になった。後に「あれが台風ってやつだったのか」と知った切っ掛けの出来事。
そのときと似た強い風が、あずきが叫んだと同時、瞬間的に図書館に吹き荒れた。
蛍光灯が割れる。書棚が傾く。閲覧机がぶつかり合って、椅子は横倒しになって散らばる。ポスターなんか全部剥がれて、壁も扉も、みしっと音を立てて軋む。
首を支えていた手が、いつの間にかなくなっている。
尻から落ちた。
「なん……」
そうなると、この場に残されたのは次のものになる。荒れ果てた図書館。その真ん中で尻餅をついて動揺するおれ。横倒しの大型バイク。
刀を持って立っているあずき。
穂ノ倉窓架は、いつの間にかガラスの割れた窓に足をかけていた。
風になびく髪を押さえて、ちぇっ、と一度だけ舌打ちをして、
「つまんないの」
そのまま、宙に身を投げ出した。
おれは慌てて窓に駆け寄る。下を見る。
穂ノ倉窓架の姿は、どこにもない。
消えた。
「……どういうこと?」
意味不明だったから、おれは、素直に聞いた。
あずきが刀を宙に放る。二回転、三回転。決定的な瞬間に瞬きしてしまったのかもしれない。それはいつの間にか、腕輪になってあずきの手首に収まったように見えた。
あずきは、小さく溜息を吐く。
それで、言った。
「俺は、魔法少女だ」
∞
千年くらい前まで話は遡るという。
かつて、この国の朝廷には陰陽寮と呼ばれるものがあった。
それと同じく、魔法少女寮と呼ばれるものもあった。
「はあ?」
「まあ聞け」
ぐちゃぐちゃになった図書館を片付けながら、そんな風にあずきは語った。まあ聞け、とだけ言われてこの導入の先を聞き続けたおれも大した忍耐力だと思う。話は、こう続いた。
陰陽寮は天文や占いを専門とする、いわば研究機関。
魔法少女寮は、そうした不可思議な占いの結果に基づいて行動する、いわば実働機関。
もちろん、実際の名前は『魔法少女寮』ではなかったらしいが、そこのところはあずきにも詳細がわからないらしい。ただ、妙な力を使っていたらしいことだけは確かで、だから便宜的に『魔法少女』とあずきは呼んでいる、とのこと。
「『少女』って部分要るか?」
「要る」
その理由は頑として語らなかったが、まあとりあえず、呑み込むことにした。
旅の途中で知ったことなのだそうだ。大型二輪で全国を回っている最中。山道で唐突にあずきは何者かに襲い掛かられた。そこから緊迫感たっぷりのカーチェイス。最終的にバイクで撥ね飛ばすことに成功したが、その何者かは、まるで何らの深手もないような素振りでむくりと起き上がった。相手はヒグマでもない。こんなことはおかしい。
というか、既知のいかなる動物にも見えない。
そのとき、腕輪が光り出した。
それで、刀になった。
意味がわからなかったが、相手は襲ってくる。襲ってくる相手なら立ち向かわなければならない。手には刀。使わない手はない。
斬り合いだ。一合二合三合。未確認生物が引く。そいつは信じられないことに人語を解する。そして、こんなことを言う。
――お前、魔法使いか。
「『少女』ついてねーじゃん」
「気にするな」
何とかその場を切り抜けたあずきは、旅の目的を得た。この奇妙な出来事の意味を調べること。その過程で、かつてこの国にあったという魔法少女寮の存在を知る。自分が、その末裔であることを知る。
だからつまり、ついさっきまでこの図書館にいた穂ノ倉窓架も『化け物』であり。
自分はそれを討伐する『魔法少女』なのだと、あずきは言った。
∞
「……これ、いきなり『そうなのか、なるほど!』ってなってもヤバいだろ」
話を聞き終え、図書館の片付けも終われば、事件現場にいつまでも残っている理由はない。
部屋に戻ってきて、改めておれは感想を述べた。
今日ばかりはコンビニも臨時休業だ。酒はあえて買わず、とりあえず食い物だけは買い込んで、再びおれたちは冬の部屋で向かい合っている。空はいつの間にか曇っていて、日没の早い季節のことだから、室内は薄暗い陰りを帯びていた。
「まあ、そうだよな」
電子レンジの前でカツ丼が温まるのを待ちながら、あずきは普通の相槌を打った。
「何が引っ掛かる?」
「何がってそりゃ……。魔法もそうだし、化け物も全部そうだよ。そんなのアニメとか漫画だけの世界のことだろ」
「室内に雪が降るのはいいのか?」
「そりゃそうだろ。なんで普通の自然現象と並べんだよ」
「……やっぱりそうか」
何が、とおれは訊ねる。あずきは少し間を置く。なあ、と語り出す。
「覚えてるか。三人でいた頃のこと」
こんなことがあったよな、とあずきは言った。
高校二年の冬の頃。お前たちが「変な夢を見た」と言った朝があったと。おれはもちろん覚えていた。
「百羽とふたりでってやつだろ。夜中に廊下に出たら――」
雪が、と。
口にしたとき、ぶわっ、と。焦りのようなものがおれを襲った。大切な用事を忘れていたことを、約束の時間を過ぎてから思い出してしまったときのような。そういう急激な動揺が、胸の奥から湧き上がってきた。
あずきは、そんなおれを見ている。
「思い出したか?」
「……雪、が。廊下に降るのは変、だよな」
ああ、とあずきは頷く。
おれの頭の中いっぱいに広がる疑問に、一言で答えてくれる。
「侵食されてるんだ、世界は」
電子レンジが鳴る。
あずきは、それを取らない。
「歴史の授業の、一番新しいところは覚えてるか?」
最後の衆参同日選挙、とおれは答える。もう少し詳しく、とあずきが言う。
「どれだよ。デマ合戦か?」
「それだ。俺も上手く説明できるかわからないんだが……とりあえず、こういう力があるってことはわかってくれたか」
あずきは腕輪を指で叩く。おれは頷く。実際に目にしたものは、流石に受け入れるしかない。
「こういう力は、昔は多分、当たり前に存在していた。魔法もそうだが、たとえば妖怪とか、そういうのもそうだ」
だが、とあずきは語った。
どうやらそれは、科学だとか理性だとか、そういうのが発達して広まっていくうちに、失われていった。そこにどういう仕組みが働いているのかは、自分にもわからない。ただ、世界から『曖昧さ』が取り払われていくうちに、境界がはっきりとしていくうちに、そういうものはこの世から姿を消していった。
「それが蘇る出来事があった。玲の言う通り、フェイク情報の氾濫だ」
それは選挙に代表される権力争いの手段でもあったし、単純に金儲けの道具でもあったし、あるいは単に、悪ふざけであったり、それに起因する混乱だったりもした。
世界は、めちゃくちゃになった。
真面目に勉強を重ねた高校生が、総理大臣の名前も知らなくなるくらいに。
「そうして再び曖昧になった世界には、こうした力の居場所ができた。それだけじゃない。たとえば、さっきの女」
あれは化け物だ、とあずきは言う。
半ば予想はしていたから、おれも頷いた。
「ああいうのは、世界が曖昧になればなるほど力を得る。だから、世界をより曖昧にするための努力もする」
「図書館で本を燃やす?」
あずきが頷く。記録と知識の消去は、曖昧な状態を加速させるもっとも単純な手段の一つだ。
実際、おれはそれを、変なことだとも思っていなかった。
急に、足元が覚束なくなったような心地がした。ぐるりと平衡感覚をなくしたような。倒れる寸前のはずが、なぜか倒れることもなくそのまま立ち続けてしまっているような、そんな気分が。
「……あずきから見てさ」
何がわかっていて、何がわかっていないのか。
そういうことも全部、わからなくなった。
「ここ、他に何がおかしい?」
だから、おれは訊ねた。
訊かなきゃよかったって、後悔するのに。
「コンビニの商品は、どこから供給されてる?」
あずきは言った。店員なんだから、知ってるんじゃないのかと。
「事務室に発注用のプログラムがあるんだよ。そこに入力すると本社から配達されるようになってて」
「ここにはインターネットがないのに、どうやって通信してるんだ?」
「……直通の無線みたいなのがあるんだと思ってた」
「配達される現場を見たことは?」
「ない。いつの間にか、搬入口に来てる」
「本社と直接連絡を取ったことは? メールでも電話でも手紙でも、何でもいい」
ない。
全て、あの婆さんが残した引継ぎメモのとおりに進めているだけだ。
「……俺がここに来たのは、理由がある」
あずきはそう言って、ジャケットの内側に手を入れた。
取り出したのは、小さな電子機器だ。多分、記憶媒体。
「夏の間に、ちょっとした行政施設に入り込む機会があった。〈塔〉の中に入っているようなやつじゃない。もう機能が移転し切って、廃墟になっていたような場所だ」
想像がついた。この塔の周りにも、そういうところはいくつもある。それこそ図書館の本なんかは全て〈塔〉の中に引っ越して、元々の場所は空っぽになっている。
「しかし、調べてみるといくつかの端末にデータが残っていた。これは、それを移してきたものだ」
あずきはその記憶媒体に何かのガジェットを装着する。それで、こっちも同じく懐から取り出した携帯機に繋ぐ。
おれに向かって放る。
取る。
「何でもいいから、それに訊いてみろ」
何でもって、と戸惑いながらも、おれは無難に、
「今日は何曜日?」
『今日は、火曜日です』
「……チャットボットか?」
あずきは頷いた。そして多分、こんな風に渡してきたってことは、ただのチャットボットじゃない。携帯の状態を確認する。ネット接続されてるわけじゃないから、通信機器としての価値がどうとか、そういうことじゃない。
もしかして、と訊ねる。
「教科書よりも新しい情報がインプットされてる、とか」
「……旅立ってから、一つ気付いたことがある」
なあ、とあずきは言った。
あずきは、結構クールな奴だ。感情が乏しいってわけじゃないが、その出し方がちょっと控えめで、そういうところがカッコよかったり、愛嬌に見えたりする。そんな奴だ。
「玲、」
でも、今は。
無性に、寂しそうに見えた。
「教室にいた人間の名前を、いくつ思い出せる?」
思い出そうとした。
芳尋堂あずき。国南百羽。志杖玲。
おれは。
思い出そうと、した。
「旅の途中で気が付いたんだ。俺たちは、三人だけだったんだって。〈塔〉にはいつでも帰れると思ってた。お前にはいつでも会えると思ってた。でも、央都への入り方はわからなかった。だから、それに訊いてみたんだ」
聞きたくない、と思った。
「馬鹿馬鹿しいと自分でも思ったよ。最新のチャットボットとはいえ、そんな個人情報なんて、まして今何をしてるかなんてわかるわけがない。なのに、答えが返ってきた」
あずきは、おれの手から携帯を取り上げた。
そうして、小さな声で訊ねかけた。
「この国の、歴代総理大臣の名前を教えてくれ」
名前が、とめどなく溢れてきた。
知っている名前は、ほんの最初の頃だけだった。百人くらいまでが精々。だけど、そこから先が終わらない。止まらない。ヤマザトコサブロウ。ヒガニシジュンコ。シュウゴカワシマ。ジャスティンガルシア。ニカマカエデ。トワラジマアリア。どんどん増えていく。部屋の中に声が響く。二百人。三百人。
四百人目だったのかもしれない。
チャットボットが、告げた。
『クニナミモモハ』
「国南百羽は、」
「やめろ、あずき」
「今、何をしている?」
「やめろ!」
『国南百羽は、四年前に死亡しています』
「俺はさ、」
あずきが俯く。チャットボットはもう、何も答えない。みしり、とその手の中で携帯が音を立てる。
「あの教室で、お前たち二人が楽しそうにしてるのを見るのが好きだったよ」
ぽつ、ぽつ、と床に水が滴っていく。
雨ではなかった。室内に降る、雪でもなかった。
「好きだったんだ……」
泣いている友達を前に、おれは呆然と立ち尽くしている。
∞
夜が来たことに気付いたとき、おれはそれまでの時間をどう過ごしたのか、よくわからなくなっていた。
カーテンを引いていない。妙に腹が減っていて、あれだけ買い込んだコンビニ飯も、手つかずのままで床に横たわっている。シンクは乾いていて、電子レンジの中には放置されたカツ丼が残ったままになっている。
あずきの姿はない。
百羽はもう、この世にいない。
本当に?
不思議なことに、ろくに頭が動いていないっていうのに、身体だけはちゃんと動いた。もう夜で、冬だ。カーテンを閉めなくちゃ部屋が冷え込む。窓辺に立つ。星が出ている。
二十五歳になった自分が、ガラスに映っている。
てっきり、忘れられているんだと思ってた。
本で読んだ。ドラマで観た。年を取るにつれて、人は疎遠になっていくこともあるって。央都みたいな賑やかなところに行ったら、今までの関係が薄れていくことだって、あるはずだって。
何か、熱中できるものを見つけたんだと思ってた。
最初に宣言していた通り、勉強でもいい。そうじゃなくてもいい。遊びでもいい。それ以外の真面目な活動でもいい。行動力のある奴だから、会社を興したりしてても面白い。
向こうで恋人ができたとかでも、もちろん構わない。
それでおれのことを忘れたなら、それでもいいって。何なんだよこいつとか、もちろん怒りはするかもしれないけど。七年も待ってる方も方だよなって。そうやって受け入れられると思ってた。
どこかで幸せにしてるなら、何でもよかった。
でも、百羽は二十五歳にもなれずに死んだ。
頭の中に、色々なものが浮かび始めた。それはまだ言葉になる前のぐちゃぐちゃした感情だったり、あるいは、すごく頼りになる理性的な考えだったりする。あのチャットボットだって、出所はわからないじゃないか。機械がもたらす情報に本当のことなんていくつある? そんなものを信じる必要はない。今もどこかで、百羽は生きている。
でも、その理性が単に、感情を逃がすための言い訳だってことも、自分でわかってしまう。
目を瞑る。気分を変えたくなる。
振り向いて、何か食おうかと思った。だけど食欲は全くない。ぼんやり冷蔵庫を覗いているうちに、ふと、あずきはどこに行ったのだろうと思い当たった。また散策に出たのだろうか。それとも、自分の部屋に戻ったんだろうか。
玄関に立つ。
あずきの部屋の鍵がなくなっているのを見て、部屋に戻ったんだろうな、と思う。
その横に、百羽の部屋の鍵もある。
おれは、叫び出したくなった。
悲しいとか苦しいとか、そういうわけじゃなかったと思う。そういうことを感じるには、まだ実感が足りなかった。叫びたかったのは、叫んで掻き消したかったのは、多分、そういう実感が湧いてくることそれ自体だった。これからこの部屋の鍵は使わなくなるだろうとか、何を待つこともない生活が始まるのかとか、これからの日々でふとしたときに感じるこの冬の冷たさのこととか、そういうことが全部、全部想像の中に現れて、
それに現実が追い付かれたら、どうなるんだろう。
頬に、冷たい感触が落ちた。
「……雪か」
涙じゃなくてよかった、と思った。
天井から、そわそわと雪が降り始めていた。ありえない光景だった。なのに、おれはあずきに言われるまで、それが変なことだとも思わなくなっていた。思い出せなくなっていた。あの夜のことも。その先のことは考えないようにした。おれはただ、この雪と冷たさの中でどうやって眠るかだけを、考えようとしていた。
とん、とん、と扉の外から音がする。
おれは、それが信じられなかった。
簡単に理由は付けられたはずだったのに。部屋に戻ったあずきが、おれのことを心配して様子を見にきたっていうのが、一番簡単な聞こえ方だったのに。おれの耳は、おれの記憶は、全く違う答えを出した。
扉を開ける。
一匹の蛇が、そこに座っている。
にょろにょろと、それは廊下の向こうに這っていく。おれはそれを追いかける。向こうの方が早い。階段のあたりで見失う。携帯のライトを点ける。もう、その姿はどこにもない。
背後で扉の開く音がする。
てっきり、央都に行くのは自分だって意思表示なんだと思っていた。
あの日のお告げのことだ。いつから忘れていたんだろう。少なくとも、卒業式の前までは覚えていた。百羽が勉強するのを横で見ながら、これだけ必死なら、と思っていた。玲ちゃんは推薦受けないでね。本当はわたしが央都に行きたかったんだよ。そういうことを、未来の百羽がおれに伝えにきたんだと思っていた。
でも、もしかしたら、あのときの百羽もおれと同じだったのかもしれない。
おれは、振り向いた。
「――百羽?」
七年も前の。
あるいは、八年も前の百羽が、廊下に立っていた。
顔がはっきり映る。記憶にあるのと何も変わらない。そのことが悲しい気もする。嬉しい気もする。逆光に目を細めている。ライトを逸らす。
「え、あれ、」
あのときのおれよりも、あの頃の百羽はずっと口数が多かった。
開いた口を塞がないまま、こっちを指差して色々言う。成長した? え、メイク? あれ、玲ちゃんだよね、合ってるよね。
合ってるよ。
抱き締めた。
もしもこれが、本当にあの日の出来事の配役を逆にしただけなら。おれには色んな選択肢があった。過去に伝えるべきことがたくさんあった。なのに、胸が詰まって言葉が出てこない。うわあ、とか百羽が面白い声を出してくれてるのに、全然反応もできない。多分、あのときの百羽も同じだった。
だから、同じ言葉しか出てこない。
「どこにも行くな」
雪が降っている。
何もかもが白く、曖昧になっていく。
そうして、おれの意識は途切れた。




