05 ご入店
やばい。
くしゃみ出る。
「――くしっ!」
何とかおれはそのくしゃみが出そうになってから出るまでの間にポケットからハンカチを取り出し、口を押さえ、店内に飛沫が撒き散らされることを未然に防いだ。これはもう、プロの店員と言ってもいいのではないだろうか。
実際、働いているわけだし。
二十代前半とも後半とも言い難い。二十五歳。コンビニ勤務。充実してる……かはわからないが、とりあえずのところ、穏やかな毎日。感染症対策も万全。
品出しを終えて、空になった段ボール片手に立ち上がる。バックルームに入る。薄暗い廊下を歩く。通用口から出ていって、段ボールを所定の場所に捨てておく。
うん、と背伸びをすると息が白く濁った。
服の襟元から、冷たい空気がぶわっと臍の辺りまで抜けるように入ってくる。すぐに肩を竦める。
「さみー……」
冬だった。
今ならあの頃の婆さんの気持ちもわかるかもしれない。中は暖かく、外は寒い。意外に品出しやら清掃やらであちこち行ったり来たりするし、レジ前に座っていたらうつらうつらしてくるのも無理はない。セルフレジならなおさら。
おれもそろそろ、プロの居眠り店番になるか。
ポケットに手を突っ込んで、店の中に戻る。柱とのすれ違いざま、二十五歳のおれの姿が鏡に映る。はっきり言わせてもらうが、おれは結構エプロンが似合うタイプだ。だから何となく、すれ違うたびにちゃんと見てしまう。一瞬外出ただけで赤くなってら、と耳たぶを触った。氷でも押し当てられたみたいに冷たい。
品出しもゴミ出しも終わり。
ホットスナックもおでんもまだまだ全然掃けてないから、補充の必要はなし。
レジに座って居眠りを決め込もうとしたそのとき、ガーっと自動ドアの開く音がした。
「っしゃあせー」
「やる気のない店員だな」
折角挨拶してやったっていうのに、随分と無礼な客が来た。
一体どこのどいつだ、と顔を上げる。
「――あずき?」
「よう」
久しぶりだな、と。
ライダースジャケット姿で、そいつは現れた。
∞
卒業式の後は、別れ別れになった。
百羽は央都行きの電車に乗った。おれは、まあとりあえず何かしら職に就くかと決めて、面倒がりな性格そのまま〈塔〉の中――コンビニに働くことにした。
芳尋堂あずきは一言、「旅に出る」とだけ言い残して、〈塔〉から去っていった。
そして七年経って、戻ってきた。
「え、それで原付乗ってんの?」
「いや。旅の途中で大型二輪に乗り換えた。カッコイイぞ、ロボットみたいで」
ぽん、と小脇に抱えたヘルメットをあずきが叩く。確かに、もうそれの時点でパイロットのヘルメットみたいでかっこいい。
七年ぶりに会ってみれば、一回りくらい上背が伸びたように見えた。
「近くに寄ったから、ちょっと顔でも見ていこうと思ってな。今は……」
向こうは向こうで、おれのエプロンを見て、
「……料理人?」
「なんでだよ。見りゃわかるだろ。ここで働いてんの」
へえ、とあずきは頷いて、店内をぐるりと見回した。
七年前からいつものことだが、相変わらず客はいない。暖房と電灯が点いてなければ、世界が滅んだ後だって言われてもそう違和感はない。
「ずっとここか?」
「そりゃそうだろ。〈塔〉の周りで他に働くところなんかねーし。食って寝て働いて、その繰り返しだよ。そっちは? あ、今日どうすんだよ。泊まってくのか?」
「冬だし、部屋があるなら」
「綺麗に掃除しといてやってるよ」
むしろ出ていったときより綺麗になってるぜ、と言うと、いや俺の部屋は元々綺麗だった、とあずきは記憶を改竄し始める。
「俺もそんなに変わらない生活だよ。ただ、家に住んでるかバイクに乗ってるかの違いだけだ」
ふうん、と今度はこっちが頷く番だった。七年も〈塔〉を離れて旅をしていたんだから、もう少し面白い話が聞けると思っていた。
いや、ここから聞き出す。
「酒は?」
意表を突かれた顔をあずきがする。
「普段はあんまり」
「苦手?」
「いや。単に機会が」
そうかそうか、とおれは頷く。
そうかそうかそうか、と立ち上がる。カゴを手に取る。ショーケースを開ける。適当に缶と瓶を取って詰め込む。
ガラガラガラ。
スナック菓子とか甘いものとか、そういうのも適当に取る。
バサバサバサ。
レジの前に立って、会計スタート。
「なんか欲しいのあったら取ってこいよ。店員さんが会計やってやるから。レア体験だぜ」
「……お前、相当呑むのか」
「そうか? 普通だろ」
じゃあまあ、とあずきが動き出す。七年経っても、そんなにこの店のレイアウトは変わらない。一直線に総菜コーナーに行って、丼物を三つ。
三つ!?
「そんな食ってんの? 普段から」
「バイクは体力を使う」
そういう問題じゃない気もしたが、まあそれだけ肩幅もでかけりゃそのくらい食うか、と納得することにした。
会計を終えたら袋に詰め込む。ちょっと待ってろ、とあずきに言い残してレジの裏に回る。バックルームへ。ちょっとした作業をして、戻ってくる。
「おい、電気が消えたぞ」
困惑したあずきが言う。
「消したんだよ」
当然おれは、困惑しない。自動ドアを手で開けて、あずきの背中を押して廊下に出る。人感センサーが反応して、電気が点く。自動ドアを手で閉じる。いちいち裏から出るのが面倒になって、勝手に扉に取り付けたU字の錠前に鍵を掛ける。同じく勝手に付けた看板を裏返す。
『Closed 店員おやすみ中!』
「よし、行くか」
呼び掛けても、しばらくあずきはその看板を見ていた。
「……いいのか?」
「いいんだよ。どうせ店員、おれしかいねえし」
驚いてあずきがこっちを見る。
「あの婆さんは?」
「さあ。おれに仕事のやり方のメモだけ残して、どっかに消えちまった。結構年だったし、引退じゃねえかな」
行こうぜ、と言えばあずきもようやくついてくる。
「足元、雪あるから滑んなよ」
気遣いのできる人間としては、そういう忠告も忘れない。
冬の日だ。今日は降っちゃいないが、昨日降ったのがまだ残っている。よくあずきもこの雪の積もり方でバイクなんか乗れたなと思うが、外は日が当たるから、もうそれほど残っていないのかもしれない。
「……雪?」
「雪かきしなきゃとは思ってんだけどな。寒みーとやる気出ねーし、やる気出てきたらもう融け切ってるし、悪循環だわ」
一応、手すりのところだけは雪を避けておいたから、階段を転げ落ちる心配はないはずだ。
四階に着く。昔から住んでる階。振り向いて、
「どうする? 荷物だけ先に部屋持ってくか?」
「……ああ。そうしようかな」
「んじゃ鍵だけ取るわ」
自分の部屋に入って、玄関先のキーフックに向き合う。おれはこういうのもちゃんと凝るタイプだから、〈塔〉で何者かが脱出ゲームをするときも、この部屋は大いなヒントになるだろう。『あずき』と和菓子柄のテープでラベルを貼った鍵を手に取る。
その隣を、後ろにいたあずきも見ていたらしい。
「百羽は、」
羽根が散らばるテープのラベル。
懐かしい名前。
「どうしてるんだ、今」
「……知らね」
「最後に会ったのは?」
七年前、と呟く。
その言葉で自動的に頭に浮かぶ光景と、声がある。
――――待ってて!
「全然連絡取ってねえわ。向こうに手紙送っても返ってこねえし」
「……そうか」
「ま、便りがないのが元気の証拠ってやつだろ」
鍵を取って、部屋を出る。あずきが使っていた部屋も、ここからそう遠くはない。さっと行って、鍵を開けてやる。
「ほれ、感動しろ」
綺麗になってっから、とドアを押さえてやったのに、あずきはすぐには中に入らなかった。
代わりにじっと、おれを見つめている。
「恋人とか、できたか?」
「はあ?」
それで、そんなことを訊いてきた。
あのな、とおれはすぐさま言う羽目になる。
「どうやってできんだよ。〈塔〉からろくに出ないで暮らしてんのに」
それから、いや待てよ、と先読みした。
この程度の答えが想像できないはずがない。となると、あずきの狙いはこの一回のキャッチボールじゃない。その先。
「さては、そっちはできたな?」
「いや、」
「遠慮すんな。話したくてたまらないんだろ?」
聞かせろよ、と肩を組む。勘弁しろ、とあずきは自分から話を振っておいて苦笑する。
あとは、長い夜だった。
∞
眩しい。
カーテンを閉めないままで寝たから。
ぐったりしたまま時計を見ると、まだ午前の九時前だった。テーブルの上には食い散らかした残骸と、呑み散らかした残骸とが仲良く共存している。二日酔いにはなったことがないから、その心配はない。ただ、三時過ぎくらいまで起きていたから、純粋に睡眠不足だった。
あずきは、酒が入ると結構口が緩んだ。
恋人の話こそ出てこなかったが、どこそこの観光名所を回ってきたとか、そういう話だったらもう、湯水のように湧き出してきた。特におれが気に入ったのは北の果ての凍結路面でスリップして崖から吹っ飛んだ話で、絶対にその後の「着地した先で流氷を飛び乗って2D横スクロールみたいな感じで助かった」って部分にはすさまじい誇張が含まれてると思う。こんな意味不明な与太話が出てきたことからもわかるとおり、あずきはすっかりへべれけで、丼ものもちゃんと三杯平らげて、「足りない」と信じられないことを言い出して、おれにもう一度コンビニを開けさせた。
そのあずきが、部屋にいない。
テーブルの上に書置きが残してある。
『酔い覚ましも兼ねて散策に行く 夜までには戻る 芳尋堂あずき』
堂々とした署名まで昔のままで、おれはちょっと笑った。
さて、と起き上がって腕まくりをする。後片付けの時間だ。
ゴミはゴミ箱へ。洗いものは洗い場へ。昨日は大して料理をしなかったおかげで、特に後者が少ない。あずきの大袈裟な食欲のおかげで食べ残しもない。すぐに分別は終わる。ゴミ箱からゴミ袋を取り出して、口を縛って一階の回収場所にポン。もう一度部屋に戻って、ざっとシャワーを浴びて汚れを落とす。
風呂場を出る。
当然、まだあずきは帰ってこない。
出掛けるときに誘ってくれりゃよかったのに。そうは思っても、時は戻せない。
仕方がないから、いつもの一日を始めることにした。
∞
「おはようございます。良い朝ですね」
旅人といえば、こんな人もいた。
ということを、図書館に来て思い出した。
〈塔〉は、成り立ちからしてほとんどの公共施設を内包している。流石に水族館とか動物園はないが、だから、図書館もある。二階。一階の教室よりは広くて、コンビニよりは狭い。そのくらいの大きさで。
高校生をやっていた頃は、そんなに通う場所でもなかった。
しかしここ七年。結構な頻度でおれはここを訪れている。理由は単純。暇だからだ。
今まで結構、勉強というものは暇つぶしになっていたんだなと気が付いた。卒業してからは試験もない。コンビニの仕事だってそんなに多いものじゃない。時間を持て余して仕方がない。
だから、たまにここに来ることにした。
「どもっす。早いすね」
「このためにここに来てますから」
時計は午前十時を差す。それよりも早く来て書棚に向かい合っていた人の名前を、おれは知っている。
穂ノ倉窓架、というそうだ。
「図書館を巡る旅をしているんです。ほら、娯楽の少ない時代ですから」
数週間前に現れたこの人は、初対面のときにそんなことを言っていた。かつてはインターネットとかいうやつで一生の暇を潰せたらしいが、そんな旧時代のものは現代に残っちゃいない。穂ノ倉さんは全国津々浦々の〈塔〉を渡り歩いて、各地で書籍を読み漁っているらしい。
結構顔を合わせるだけあって、それなりには話す。
図書館を巡っているというだけあって、どことなく知的で落ち着いた雰囲気があって、おれは結構、この人といる時間が嫌いじゃない。
そう考えると、昨日あずきが口にした『恋人』とかいう言葉がおれに関係してくるとしたら――
「どうかしました?」
「いや、ちょっと思い出し笑い」
馬鹿馬鹿しくなって、笑ってしまった。
挨拶は済ませた。あずきの散策も実際のところいつまで続くかわからないし、さっさと本を借りてしまおう。まずは、持ってきた本の返却から。
「志杖さん、今日は何を借りるんですか?」
「うーん……。まあ、小説以外かな。飽きてきたから」
「あ、じゃあとうとうこのあたりの自然科学の本も?」
「そうすね。開拓。穂ノ倉さん、何かおすすめのとかないすか」
「ないですねえ。私、読むより燃やす方が好きなので」
すか、と相槌を打つと、っす、と珍しく砕けた調子で穂ノ倉さんも返してきた。
返却処理を終えて、棚に本も戻し終える。さて、と自然科学の方の棚を見ると、早速穂ノ倉さんは本を取っては火にくべていた。図書館の一角で焚火。もちろん煙が立つから、おれは一つ咳をする。
先に窓を開けることにした。
二階の窓辺に寄る。まだ、見える範囲に雪の跡がある。鍵を外してかららと引くと、一気に冷たい空気が流れ込んでくる。
「あ、すみません。煙かったですか」
「いや全然。穂ノ倉さんこそ、開けちゃって寒くないすか」
「火に当たってるので」
平気です、と穂ノ倉さんは笑った。本は炎の中でめりめりと燃え盛る。その前に両手を掲げて、穂ノ倉さんは屈み込んでいる。暖かそうではあるが、あれはあれで火の熱が顔に当たって別の面倒が生まれそうでもある。
全開は寒すぎるから、半分くらいでいいか。
調整しようとして、もう一度窓の方を見る。
「お、」
そうしたら、目に留まった。
窓の外、見下ろせる位置にあずきがいる。
大型バイクに乗っていた。この角度からだといまいちデザインがわからないが、確かに格好良さそうな雰囲気がある。手を振ると、向こうもおれに気付いた。というか多分、窓から煙が噴き出してきたのに反応してたんだろう。最初からこっちの方を見ていた。
「どうかしました?」
穂ノ倉さんが訊くから、振り向いた。ああ、とおれは頷いて、
「実は昨日から――」
友達が来ていて、と言おうと思った。
ぶおん、と大きな音が後ろから聞こえてきて、その言葉を止めた。
振り向くまでの一瞬の間に、あずきが一体何をしたのかよくわからない。確かなことは、ガシャン、とすぐ後ろで砕ける音がしたこと。振り向くまでもなくなったこと。すぐに視界の中に、あずきが現れたこと。
あずきが大型バイクで、窓をぶち破って図書館に入ってきた。
それでそのまま、穂ノ倉さんを撥ね飛ばした。




